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稚拙な表現ではありますが、旅行記などを発表していきたいと思います。
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しゃんるうミホ

Author:しゃんるうミホ
青春の思い出?若気の至り?
中国大陸をほっつき歩いた旅記録です。
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新彊野宴(シンチャンバンケット)
新彊野宴(シンチャンバンケット)

 【語学の天才】 その3

 島本君の歌声はきれいだ。人は見かけによらぬものと言うが、本当にそうだ。彼がこんなに歌が上手い人だったとは。驚きでいっぱいになりながらも、島本君の歌声に聴き入った。ドイツ語の発音も滑らかで、巻き舌の音も強すぎず聞き心地のいい軽やかさだ。リズムもよく、メロディーも滑らかで歌いこなした巧さが感じられた。横目でチラリとインゲを見ると、彼女も島本君の歌にうっとりと聴き惚れている。顎の下で両手の指を互いに絡ませ、半分目を閉じ、口元を緩ませ微笑んでいる。島本君が歌い終えると、インゲも僕も思いきり拍手した。

「すっごいね!こんなに歌が上手いとは知らなかったよ。びっくりした!」

 僕は率直に言った。

「いやあ、そんなに誉めないでください。」

 島本君は照れたが、インゲは

「ね、ね、上手いでしょ。留学生にしとくのもったいないでしょ。リュウはドイツ語もかなり出来るのよ。」

と、嬉しそうに島本君の肩をぴしゃぴしゃ叩いた。

「本当にすごいね!中国語に英語、ドイツ語、それにウイグル語もやろうってんだろ。語学の才能があるんだねぇ。」

 僕は心底感心した。

「他にも『野ばら』だって歌えるのよ。まるでウィーン少年合唱団出身みたいなの!」

 インゲは黒いスカートの裾をふわふわ揺らしながら言った。

「誉めてくれるのは有り難いんだけどさ、もしかしてそろそろ練習の時間じゃないの?」

 島本君は自分の腕時計を見ながらインゲに言った。

「あ!ほんと!いけない!こんな時間だわ。行かなきゃ。リュウ、また今度ローレライ歌ってね。ヒトシ、それじゃあごゆっくり!」

 インゲはスカートの裾をふわりと翻して立ち上がり、手を振って小走りに校舎のほうへ去っていった。

「彼女、二胡習ってるんですよ。もうすぐそのレッスンで。」

 島本君が説明してくれた。

「二胡って弦楽器の?」
「そうです、中国楽器のね。とりあえず、二胡習ってその後、ウイグル楽器にも挑戦するって言ってますけどね。」
「島本君といい、インゲといい、アクティブなんだね。」
「うーん、僕はアクティブっていうよりどっちかって言うと暗い方だと思うんですけど。ネアカよりネクラかな。」

 島本君はポリポリ頭を掻きつつ首をかしげた。いや、ネアカとかネクラの問題じゃなく、島本君の18歳とは思えぬ大人びた冷静さや落ち着きに出会った頃から驚いていたのだ。ひょっとして僕より年上なんじゃないか、もしかしたら30歳、いや50歳を越えているんじゃないかと思えるほど精神的に成熟している。しかもこの語学力だ。僕の周りに島本君のような人は見当たらない。こんな人とは初めて会った。

「ドイツ語は独学?」
「うーん、まあそうですかね。イギリスにいた頃、父の親友が同僚のドイツ人だったんです。だからちょくちょくうちに遊びに来てたんですよ。僕にとってみればそのドイツ人は仲良しのおじさんで、一緒にキャッチボールしたりサッカーしたり遊んでくれたんです。時々ドイツ語も教えてくれて、それでかな、ドイツ語が身近に思えたんでしょうね、子どもの時から。」
「なるほど。だけど話せるようになるにはそれだけでは不十分だろ。」

 もう一歩踏み込んで聞いてみたくて探りを入れる。

「まあ、きっかけは父の親友でしたけど、その後はドイツ語の読みが楽しいなって思えたんですよ。英語よりドイツ語のほうが読みが簡単ですからね。基本の発音を覚えればあとはラクに読めちゃいますんで。」
「けどドイツ語って単語が妙に長ったらしくない?それに男性名詞とか女性名詞とかあったりして、難解に思えるんだけど。」
「それはそうなんですけど、コツさえつかめれば大丈夫ですよ。それに主語を言わなくても“誰が”の部分がわかっちゃうんで、かえって便利な言葉なんですよ、ドイツ語は。」
「へーえ・・・すごいなあ。話を聞いてると楽しんで言葉を勉強している感じだね。」
「う・・・ん、そうですねぇ、ゲーム感覚っていう部分もありますけどね。」
「そっかぁ、やっぱりすごいな島本君は。尊敬しちゃうよ。」
「あー、そんな尊敬だなんて・・・もっとすごい人は大勢いますよ。」
「島本君以上の人にはお目にかかったことないけどな。」
「いや・・・あ・・・もう帰ってきてるかな。ん・・・もしもすごい人がいたら、会ってみたいですか。」
「うん、そりゃあ是非。」
「じゃあ、今からちょっと行ってみますか。そのすごい人の所へ。」

 島本君は立ち上がり、運動場の向こう側に見える建物を指さした。僕は島本君の背中にくっつくような形で東屋を出た。すごい人っていったい誰のことだろう。
 僕らは運動場を突っ切って、くすんだもえぎ色に塗られた建物に向かって歩いた。

「三谷さんっていうんですけどね。」

 突然島本君が切り出した。

「特別教授っていう身分でこの学校に滞在してる人なんですが、面白いおじさんなんです。三谷さんは嫌がるんですが、僕は博士って呼んでるんです。それくらいいろんな事を超越してるんで。」

 島本君は意味ありげに笑った。へぇ、他にも日本人がこの学校にいるのか。

「夏休みの間イーニン周辺に行ってくるって言ってましたけど、確かもう帰ってきてるんじゃないかな。もし三谷さんがいなかったらごめんなさい。」
「いや、別にいいよ。」

と言いながらも、内心どんな人なのかと期待が膨らんだ。


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新彊野宴会(シンチャンバンケット)
新彊野宴会(シンチャンバンケット)

 【語学の天才】 その2

 お茶を飲んで一息ついてから、島本君にキャンパスを案内してもらった。校内のメインロードとなっているポプラの並木道を歩きながら学内の風景を見る。ポプラの葉が摺れる音は意外と硬質の響きだ。カサカサではなく、カタカタとかカチカチという風に聞こえる。

 運動場にはバスケットに夢中になっている学生や、サッカーボールを無心に追いかけている学生がいたり、木陰では本を読んでいる学生、ハーモニカを吹いている学生などがいて、日本のキャンパスとはちょっと違っていた。ポプラの葉ずれの音をバックミュージックに僕らはぶらぶら歩いていき、「小売部」という雑貨屋に来た。

「あ、すいません、ここでちょっと買い物しますね。」

 島本君が雑貨屋に入っていったので僕も後をついていった。島本君はシャープペンシルの芯、定規、消しゴムなどの文房具を買った。商品は全てすすけたガラスケースに入れられていた。カウンターの中にはやる気のなさそうな若い男の店員が、一人お菓子を食べながら椅子に腰掛けている。島本君に呼ばれて店員は嫌そうに立ち上がると、文房具をこちらに渡し、釣り銭を投げて寄越した。

「1毛足りないよ。」

 島本君が低い声で言うと、店員はポイッとあめ玉を放った。島本君は上手にキャッチし、ポケットにあめ玉を突っ込んだ。

「えっ!いいの、あめ玉で?」
「ええ、ここでは釣り銭がないときはアメとかガムとかが代わりになるんです。」

 へええ、そんな会計でいいのか。

 僕らが雑貨屋を出ようとしたとき、入れ替わりに誰かが入ってきた。

「ハイ、リュウ!」

 その人は島本君に話しかけた。眼鏡をかけた背の高い欧米系の男性だった。

「ハイ、トニー!」

 島本君は返事をし、

「トニー、牛乳なら今日はないよ。飲み物ならオレンジジュースとミネラルウォーター、それにトニーの大好物のペプシがあるよ。」

と、流暢な英語で男に言った。

「ああ、そりゃ最悪だな。しょうがない。外で買ってくるよ。ホリデーインに行くけど、リュウは何か要るものあるかい?」
「今のところないよ。ありがとう。」
「じゃ、またね。」

 トニーは手を振ると、急ぎ足で正門の方へ去っていった。

「あの人はここの英語の先生で、アメリカ人のトニー先生。いつも小売部に牛乳を買いに来るんです。サイダーが嫌いでね、いつだったか僕がペプシを飲んでると、『そんなまずいもんよく飲めるな』って突っかかってくるんですよ。アメリカ人ってコーラとか大好きだと思ったんだけど、トニー先生は炭酸飲料が苦手な、珍しいアメリカ人みたいです。」

 島本君はトニー先生の後ろ姿を見送りながら説明してくれたが、トニー先生がどうのこうのというよりも、僕は島本君の流暢な英語と、その発音の良さに驚いていた。

「へえ、そう。にしても島本君の英語すごいね。」
「ああ、僕、子どもの頃、親父の仕事の関係でロンドンに3年くらい住んでたんですよ。5歳から8歳くらいまででしたけどね、地元の幼稚園に通って、3年間エレメントリースクールに行きました。」
「じゃあ、帰国子女なんだ。」
「まあ、そうなりますかね。」
「へぇ、知らなかったなぁ。」

 僕らは小売部を出て、また歩き出した。校庭の中に敷かれた石の散歩道を進んでいくと、突き当たりに東屋があった。

「ハイ、リュウ!」

 東屋の腰掛けには先客がいて、島本君に挨拶した。ふんわりと長い金髪を後ろで束ね、赤ぶちの眼鏡をかけた西洋人の女性だった。

「ハイ、インゲ。何してるの?」

 柱にもたれ足を投げ出しているその女性に、島本君は聞いた。

「うん、涼しいところで本でも読もうかと思ったんだけど、やっぱり暑くて退屈してたところ。」

 彼女は上手い中国語で答えた。そして僕のほうを見てニコッと笑った。

「こちらは友達のミスタートダ。ヒトシトダ。」

 島本君が紹介してくれた。

「リュウ、ヒトシ、まあ座って。」

 彼女は自分の隣をポンポンと叩いた。僕らはそこに、石でできたベンチに腰を下ろした。

「この人は同じ留学生で、ドイツ人のインゲ。」

 島本君が紹介すると、彼女はすぐさま

「出身はケルンなの。ケルンって知ってるでしょ。」

と付け加えた。

「インゲはウイグル族の音楽と楽器に興味があって、それをやるためにここに来たんだとかで。」
「リュウだって結構音楽のセンスいいのよ。ねえ、そうだ、久しぶりに歌ってよ、あの歌!」

 インゲは島本君の肩にしなだれかかって甘えた。

「いやー、勘弁してよ!」

 島本君は首を振ったが、僕は気になった。
「どんな歌?」
「ローレライよ。リュウはドイツ語で歌えるのよ!」

 インゲは嬉しげに言って、下がってきた眼鏡の縁をクイッと上げた。
「へええ~、それは聴いてみたいなあ。」
「やめてくださいよ、戸田さんまで!」

 島本君は嫌がったが、僕とインゲは大きく拍手した。

「まいったなぁ、もう・・・じゃ、ちょっとだけですよ。」

 島本君は大きく息を吸い込むと、低いがよく通る声で静かに歌い始めた。ウルムチ財経学院の中庭にローレライのバリトンが優しく響いた。


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新彊野宴会(シンチャンバンケット)
新彊野宴会(シンチャンバンケット)

 【語学の天才】 その1

 その後、駒田先生と新彊や中国の歴史の話で盛り上がり、結局そのまま先生の部屋で話し込んでしまった。夕飯もご馳走になり、夜も遅い時間となってバスがなくなってしまったのでタクシーで華僑賓館に戻った。先生からタクシー代として50元までいただいてしまい、至れり尽くせりで恐縮きわまりなかった。が、ありがたいのは事実だ。

 部屋に戻ると、柳原さんと佐伯さんはまだ起きていた。

「戸田さん、お客さんよ。」

 柳原さんが意味ありげに笑った。すると、大きな佐伯さんの後ろから誰かがパッと現れた。

「お久しぶりです。」
「あ、島本君じゃないか!」

 島本君は頭をポリポリ掻きながら前に進み出た。

「市場で私らとお店お人とで揉めてたのね。そうしたら助けてくれて。」

 佐伯さんが嬉しそうに島本君を指さした。

「いやぁ、助けただなんて。で、お姉様方とお話ししてたら戸田さんと同室だって言うじゃないですか。だからちょっとお邪魔してたんです。」
「いやあ、そっか。遅くなって悪かったね。待っててくれたんだろ。あ、もうちょっと早かったら池上君もいたんだけどね。今朝上海に飛んでったよ。」
「そうだったんですか。僕はきのうの午後ウルムチに戻ってきたんです。夏休みももう終わりにして、勉強モードに切り替えなきゃと思って・・・」
「相変わらず真面目だね、島本君は。」

 僕ら4人は夜も更けたというのに、ドミトリーでまた話し込んでしまい、気がついたら東の空が明るくなっていた。

「すみません、すっかりお邪魔しちゃって。学校に戻ります。」

 島本君は腰を上げたが、僕は引き留めた。

「朝飯、一緒にどう?」

 徹夜をした僕らは何故か疲れもなく、外に繰り出して四方山話の延長戦をやった。いつものナンの店で朝食を取り、その後柳原さん達は南山牧場ツアーに申し込んだからとバタバタ去っていった。

「戸田さん、よかったら僕の大学見てみません?」

 島本君の誘いを受け、バスに乗って烏魯木斉財経学院へ行くことになった。学院の門をくぐり中に入っていくと、キャンパスは意外と広く、一番奥の建物にたどり着くまでたっぷり30分はかかった。島本君が住んでいる寮は最も奥の建物の3階にあった。

「二人一部屋なんですけどね、ルームメートは9月にならなきゃ来ないらしいんで、それまで僕一人で占領できるんです。」

 そう言って通してくれた部屋は天井が高く、二人で住むにはゆったりと余裕のある空間だった。木製の机が壁際に二つ並べて配置され、窓側に一つと部屋のど真ん中に一つベッドが置かれていた。本棚も机と反対側の壁に設置されていて、そこにはすでに本がぎっしり並んでいた。

「これ全部島本君の?」
「はい、まあ、そうです。持って来過ぎちゃって、ちょっと後悔してるんですけどね、ルームメイトの分が入らないかなあ。」

 島本君は頭をポリポリ掻いてへへへと笑った。中国語とウイグル語の勉強のためにこの学校へ来たという島本君だが、本棚に整列している本を見るとそういう関係の書物の他にいろんな本があった。右の上段には日本文学、西洋文学など各種小説、中段にはビジネス関係の本や実用書、そして下の段には英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、ハングル、イタリア語、スペイン語など、いろいろな語学の本が並んでいた。カタルーニャ語の本なんてのもあった。

「これ、島本君、全部読んだの?」

 僕は語学関係の本が並んでいる棚を指さして聞いた。

「全部は読んでいないですね。3分の2くらいかな、読んだのは。」
「語学全般に興味あるんだ!」
「ん・・・まあ、そうですね。」
「ウイグル語をやってみようって気になったのはどうして?」
「親父がシルクロードファンで、家にNHKの『シルクロード』のビデオやシルクロード関係の本なんかけっこうあって、時には親父が本を見ながら説明してくれたりとかして。それでいつかは、シルクロードに行ってみたいななんて、物心ついた時から思ってたんです。」
「なるほどねぇ。」
「あ、今お茶淹れますね。どうぞ、そっちの椅子に座ってください。」

 島本君は碧螺春という中国の緑茶を淹れてくれた。

「で、ここでどれくらい勉強する予定?」
「そうですねえ、まずは2年ですね。それで足りないと感じたらもう1年でしょう。」
「この学校がウイグル語の勉強にはいいと?」
「いえ、本当はカシュガルの大学に行きたかったんですけど、いい先生はウルムチに集まってるっていう話だし。本もこっちの方が充実してるみたいだから、ま、しょうがないですね。カシュガルの方がウイグルのムードが漂ってるんだけど。」

 確かにウルムチはウイグル族よりも漢人の方が目立っている感がある。新彊ウイグル自治区といいながらも、省都のウルムチでは、民族の比率としては漢族の方が多そうだ。

「そっか。じゃあ、ここでの勉強が終わったら?」

 僕は碧螺春を一口飲んでから聞いた。

「うーん、どうするかはまだはっきり・・・もし予想してたよりもウイグル語ができたと思ったら、日本に帰るかもしれないし・・・どうしよっかな、ははっ、自分でもわかりかねますね。」

 島本君はゴクンとお茶を飲み、フッと軽く息を出すと、

「ま、でも、やっと念願叶ってここに来られたんで、頑張らなきゃなんないですね。」

と微笑んだ。


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新彊野宴(シンチャンバンケット)
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 【旅の恋】 その8

 ホリデーインホテルの10階に駒田先生の部屋はあった。さすがホリデーイン、僕らが泊まるようなドミトリーとは違い、アメニティーもちゃんと揃っていて、ベッドも洗面所も清潔だ。それでも先生は蛇口の取り付け方が甘いとか、カーテンレールが少し歪んでいるとか言って手厳しい。

 駒田先生は日本からわざわざコーヒーメーカーを持って来ていた。

「コーヒーが好きなもんで、どうもこういうのがないと寂しくてね。」

と手際よくセットし、二人分のコーヒーを丁寧に淹れた。なんとも言えない香ばしいコーヒーの香がほわんと部屋を包んだ。久しぶりに嗅いだ高級感溢れる文明の香に、僕の鼻はじいんとしびれた。

 駒田先生に淹れてもらったコーヒーを飲みながら、僕は今までのことをすべて話した。先生には包み隠さず話した方がいいような気がしたのだ。ヒサコさんに出会って一緒にウルムチ巡りをしたこと、彼女がチェックアウトする際に『私のことを聞かれても知らないと言って』と呟いたこと、柳原さんと佐伯さんからもヒサコさんの話が出たこと、ヒサコさんは柳原さんの雑記帳に住所を曖昧に書いていたこと、ドミトリーにチェックインしてきた男の子の日記に書かれていた内容について等、ありのままに話した。駒田先生は黙って聞いていたが、僕が話し終わると、なるほどと軽く頷いた。そしてコーヒーカップを右手に持ったまま窓辺に近寄り、ガラス窓にもたれて外を見ながら言った。

「旅っておもしろいもんだね。私が真鍋さんと会い、根岸君と会い、君とも出会った。どこかで少しずつつながっている。玄奘三蔵も旅をしながらいろんな人に出会ったんだろうなぁ。」

 先生はコーヒーを啜り、フーッと溜息をついた。

「彼女はね、後悔していたんだ。根岸君を旅行に誘ったことをね。」

 根岸君というのはヒサコさんにふられた彼の名だろう。

「トルファンのホテルに真鍋さんが一人で訪ねてきたときはびっくりしたよ。ひどく思い詰めた様子でね。涙ぐんでいた。」
「えっ、ヒサコさん、泣いてたんですか!」
「少しね。根岸君のことを思ってね。真鍋さんは彼のことが嫌いだとかイヤというわけじゃなくて、罪作りなことをしたと思ったみたいだね。気がついたら好意を持たれていてびっくりしたってところだな。まさかこんなことになるなんて彼女は思い至らなかったんだろうね。これ以上二人一緒にいると、根岸君を更に傷つけてしまうと言っていた。いいじゃないか、君が根岸君をイヤじゃなけりゃと言ってやったんだが、そういう気はありません、とさ。真鍋さんにとっちゃ根岸君は子分だった。男と見てなかったんだね。ハハハハハハ、彼女、頭がよくて何でもそつなくこなすわりには、そういう方面は鈍感だなと思ったよ。だってそうだろう?普通男女が一緒にいれば好意が湧くだろ。しかも彼女は美人だし気が利くときている。たいていの男は気に入るだろう。君だってそうじゃない?」

 先生の不意をつく質問にドキッとした。

「あ、ああ、そ、そ、そうですねぇ。ただ、そういう気持ちになるより早く、僕のツレの方が彼女に熱を上げちゃったから、僕は不完全燃焼でしたけどね。」

 やんわりとかわした。

「そうか。あ、真鍋さんは去年離婚したそうでね、ご主人はカーレーサーだったらしい。結婚前は気にならなかったそうだが、結婚してからご主人の身の安全が心配で心配でたまらなくなって、うまくいかなくなったらしい。離婚後、彼女は従姉のお姉さんが住んでいる香港にしばらく身を寄せていたと言っていた。香港で根岸君とも会ったようだ。話しているうちに意気投合したらしい。従姉のお姉さんに広い中国を見てきたら、価値観や世界観が変わるんじゃないかと言われたこともあって、中国旅行に根岸君を誘ったようだね。弟分という感じがしたんだろうな、真鍋さんは。」

 気さくな彼女のことだ。初対面の人とでもすぐにうち解け彼と友達になったのだろう。だから根岸君も一も二もなくOKしたに違いない。真鍋さんと根岸君との間で中国旅行に行く約束が交わされる様子が手に取るようにわかった。

「根岸君は名古屋に実家があると言ってたからね。真鍋さんのほうは岐阜だろ。訪ねてこられると困ると思ったんだろうな。それで人のアドレス帳にも用心して住所を完全に書かなかったんじゃないかねえ。」

 駒田先生はコーヒーを飲み干した。

「ああ、でも青春だなあ、逃げる方も追う方も。旅の恋・・・か・・・。素敵だね。ただ、旅の恋の多くは実を結べないように思うねえ。現実の暮らしと離れたところでお互い相手を見るからね。ここじゃなおさらシルクロードの風に吹かれて、恋も旅だけに消えちゃうんジャーニー、なんちゃって。」

 先生の駄洒落に僕は思わずぷっと吹き出した。

「ごめんごめん、くだらない冗談が好きなもんでね。」

 先生は謝ったが、いやいやくだらない冗談ではない。確かに旅で生まれた恋なんてなくなりやすいように思った。日本に帰って、ある日どこかで真鍋さんに出会うことがあったとしても、きっとお互いさりげない挨拶をしてすれ違ってしまうんじゃないか。ふとそんな気がした。池上君も根岸君も持て余した恋心を置いて日本に帰るんだろうか。

「そうですね。それに新彊の暑さに旅の恋も溶けちゃいそうですね。」

 僕も立ち上がって窓辺に近寄り、外の景色を見ながら呟いた。僕の心に芽生えかけた真鍋さんへの思いは、ウルムチの地に埋めて立ち去ろう、そう思った。


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新彊野宴(シンチャンバンケット)
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 【旅の恋】 その7

 翌朝、池上君は早く起きた。上海行きの飛行機に乗るためだ。僕は民航バスの乗り場まで見送りに行った。池上君は元気に手を振り、ほなまた会いましょう、とバスの中に消えていった。楽しい旅の友がいなくなるのは残念だが、池上君とはまたいつでも会える。そんな気のするヤツである。
 
民航ターミナルからホテルに戻ると、柳原さんと佐伯さんももう出かけたと見えていなかった。ああ、彼女らは今日天池ツアーに行くって言ってたな。

 ヒサコさんに失恋した彼は昨日の晩から姿を消した。結局、きのうの夕方まで彼は部屋に戻ってこなかった。僕と池上君、そして女性陣で夕飯を食べに出、町をぶらついて帰ってきた時には、男性のリュックはなくなっていた。チェックアウトしたようだ。ヒサコさんを追いかけてクチャへ行ったのだろうか。5人部屋ドミトリーに僕は一人きりになってしまった。どっこらしょっと。自分のベッドに寝ころび、そのまましばらくまどろんだ。再び目を覚ますと、もう昼近くになっていた。どこかへ出かけようか。ウルムチの地図を広げてみる。そうだなぁ、博物館にでも行ってみようか。

 ウルムチの博物館は西北路の近くにあった。はるばるバスに乗って来たが、それほど大きくはない建物だった。まあ、退屈しのぎにはちょうどいい。館内を一通り見学し、出口に申し訳程度に付設してある記念品売り場も冷やかしてみた。キーホルダーやらバッジやら、お決まりのグッズが棚の上に並べられている。少し奥の方に置いてある絵葉書セットが気になって一組手に取ってみた。10枚1セットになっていて、ウイグル絨毯やウイグル族の衣装、ウイグル音楽の楽器などの写真が印刷されている。暇な時これに旅の便りを書いて日本の友人に送るのもいいか。僕は30元を店員のウイグル女性に渡した。彼女は金を受け取ると、サラサラと簡単な領収書を書いて無愛想にこちらへ投げてよこした。 
 
 葉書を買ったら早速使いたくなった。先輩にでも便りを書くか。あまりの暑さに涼を求め、ウルムチで一番豪華だと言われるホリデーインホテルに行った。そこの喫茶店で中国の物価から考えるととびきり高いアイスコーヒーを飲みながら、社会人1年目の先輩に宛てて葉書を書いた。
 
 ふと気がつくけば、僕のすぐそばに誰かが立っていた。見上げると、初老の男性がさっき僕が買った絵葉書をじっと見つめていた。男性は僕の視線に気づき、

「オオ、ソーリー、ソーリー。」

と、立ち去ろうとした。手のひらを立てて顔の前に持っていく仕草といい、英語の発音といい、その男性が日本人であることは間違いなかった。

「いえ、別に構いませんよ。ご覧になりますか。」

 僕は残りの絵葉書を指さして、男性を呼び止めた。

「やあ、あなた日本の方?」

 男性はこちらを振り返って微笑んだ。

「じゃあ、ちょっと失礼して。」

 男性は絵葉書を手に取り、

「これはどこで手に入れたんですか。結構いい写真ですよ。印刷はやや薄汚れてるけど写ってるものはすごいですよ。この絨毯なんか価値がありそうだな。」
「博物館で買ったんですよ。あ、よかったらこちらにおかけになりますか。」

 僕は向かい側の席を勧めた。じゃ、お言葉に甘えて、と言いながら男性は腰をかけ、ためつすがめつ絵葉書に見入った。

「骨董品に興味をお持ちなんですか。」

 僕が聞くと、男性はこりゃ失礼と言いながら懐から名刺を取り出しこちらに差し出した。

「こういう家業なもんですからね、ついついこういう類のものなら何でも首を突っ込んじゃって。」

 名刺には“城山大学文学部東洋史学科 教授 駒田啓一”とあった。駒田先生!?もしかしてヒサコさんにふられた彼が日記に書いていた先生か?

「あのう・・・先生は真鍋寿子っていう日本人旅行者、ご存じですか。」

 僕は思い切って聞いてみた。駒田先生は少しばかり顔をしかめてじっと僕を見つめた。

「いえ、ご存知ないならいいんですが・・・」

 僕が口籠もると、

「どうも彼女を巡る波紋が広がっているようだね。あ、どうも、これ。」

 駒田先生は独り言のように呟いてから絵葉書を返してくれた。そしてやおら立ち上がり、

「君、もしよかったら私の部屋でコーヒーの飲み直しでもしないか?」

と微笑んだ。


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新彊野宴(シンチャンバンケット)
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 【旅の恋】 その6

 8月7日 晴
 朝目が覚めると真鍋さんは身支度を調えていた。チェックアウトすると言う。急いで起き上がろうとしたら、真鍋さんは悲しげにごめんなさいと謝った。やはり恋人でも夫婦でもない男女が一緒に旅行するなんて変よね、別行動しましょう、その方がお互いのため、と言うなり出て行った。追いかけようとしたが、そんなことをしたら余計嫌われそうだし、女々しい行為にも思えたし、やめた。夕べあんなことしなきゃよかったなあ。だけど、二人で中国を旅行しようって言い出したのは真鍋さんの方だ。ひどいよ、真鍋さん。きっと駒田先生を追ってトルファンへ行ったんだ。先生のこと気に入ってたから。あの先生が憎い。

 8月9日 晴
 予定通りトルファンに来た。トルファン賓館のドミトリーにチェックイン。本当は真鍋さんと二人で来るはずだったのに。急にいても立ってもいられなくなって、彼女を捜すことにした。が、受付にきいてみると、真鍋さんはこのホテルには泊まっていないとのことだった。どこへ行ったんだろう。念のため駒田先生もここに泊まっているか訊ねてみたが、先生の名前もなかった。くそぅ、あの二人、一緒に別のホテルにいるんだな。

 8月10日 晴
 朝から真鍋さんを探して歩いた。オアシス賓館という少しリッチなホテルに行って聞いてみたら、なんと彼女の名前が見つかった。駒田先生も一緒だった。やっぱりな。ただ、部屋は別々みたいなので一安心。部屋を訪ねてみたが真鍋さんはいなかった。帰ってくるまでずっと待っていようかと思ったが、急に自信がなくなりトルファン賓館に戻った。とにかくもうあんな事はしないし、友達としてまた一緒に旅したいと伝えたい。そう気持ちに整理をつけ、夜真鍋さんの部屋に電話を入れた。彼女は部屋にいた。が、僕の話を聞くと、もうお互い一人で旅をしようという答が返ってきた。私はあなたより6歳も年上だから、将来ある人を傷つけたくないとも言った。歩み寄る余地はないのか?最後に真鍋さんは今はこれ以上何も言いたくないから、話すなら明日の夜にしましょうと言った。明日の晩、もう一度こちらから電話をかけることにした。

 8月11日 晴
 トルファン8カ所ツアーに参加した。でも、真鍋さんのことが気に掛かり、何を見ているのかわからなかった。夜になって真鍋さんに電話をした、しかし留守。何度電話をしても真鍋さんは出なかった。避けられているのだろうか。

 8月12日 晴時々曇
 真鍋さんのことが気になって、朝から頭がおかしくなりそうだった。すぐオアシス賓館に行き307号室をノックした。が、出てきたのは欧米人の男性二人だった。真鍋さんはもうこの部屋にはいなかった。もしかして駒田先生の部屋?受付で先生のルームナンバーを聞き、訪ねてみた。先生は僕を部屋に招き入れてくれた。真鍋さんは別のホテルに移ると言ってきのうチェックアウトしたらしい。トルファンでの彼女の行動を聞いたら、おとといまで先生とずっと一緒だったらしい。けれど真鍋さんと二人きりというわけじゃなく、ほかにも別のツーリスト数人とともに行動していたのだとか。本当だろうか。先生はあんまり深追いしないほうがいいんじゃないかと言ったが、大きなお世話だ。その後、トルファン中の外国人宿泊可能なホテルを当たって真鍋さんを探した。が、結局彼女はどこにもいないことがわかった。

8月13日 晴
 ウルムチに来た。もしかしたらトルファンの次に予定していたこのウルムチに真鍋さんが来ているかもしれない。何故僕を避け、僕から逃げるのか。電話で話をしようと言ったあの言葉はウソだったのか。とにかくそれを確かめたい。その一心だった。昼にウルムチに着き、それからすぐ外国人が宿泊可能なホテルを全部当たってみることにした。夢中になってホテルからホテルへと、狂ったように歩き回った。最後に今日はここで終わりにしようと思った華僑賓館に辿り着く。受付で真鍋さんはいないという返事に、やっぱりそうかとうなだれる。が、受付の人は親切な人で、帳簿をいろいろ探してくれた。なんと、彼女は今朝方までここにいたことがわかった。やっと真鍋さんの足取りをつかめたのだが、また逃げられた。どっと疲れが出た。

「8月13日って、きのうだよなぁ。」

 僕はドアを開けて彼の顔を見たときのことを思い出した。元気なくうつむいた汗まみれの姿だった。その胸の奥にこんな気持ちを押し隠していたとは・・・・

「気の毒にね。そやけどヒサコさんかて、しつこく追い回されたら嫌気がさすやろね。」

 池上君は彼に同情しながらも、どこまでもヒサコさんの肩を持っている。

 確かに気の毒だ。ふられた者は皆そうであるように。だが、僕は彼が気の毒だというよりも、哀れでならなかった。ヒサコさんを追いかけ、ホテルからホテルへと彼女を探して歩き回る狂気の沙汰。失った恋を取り戻そうともがけばもがくほど、泥沼にはまりこんでいく様が胸を刺した。捨てられる身のやってはいけない悲しくも必死の行動が、恋に狂ったなれの果てが、ここに表れているんだと思うとやるせなくなるのだった。人は何故いけないとわかっていながら、恋に縋りつくのだろう。失恋する者のサガを感じずにはいられなかった。

「だからあの子、ヤク中じゃなかったのよ。真鍋さんに捨てられて落ち込んでたのよね。」

 柳原さんがフーッと溜息をついた。

「ショックだったんでしょうね。」

 佐伯さんもドア越しに言った。僕は柳原さんに日記を返した。きのうの日記は今日起きてから書いたものなのだろう。ベッドに腰掛け、背中を丸めながら彼が失意のうちを書き綴る姿をふと想像した。


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 【旅の恋】 その5

 彼女らが大胆にも人の日記を盗み読みしたのには驚かされたが、それで事実がわかったと言われたらその内容が大変気になった。しかしやはり他人のものを断りもなく勝手に見るのはためらわれた。

「やっぱ、まずいんやないですか。」

 池上君も同様に躊躇している。

「それに、もし、あの人が帰ってきたらさ・・・」
「大丈夫!私がドアの外を見張っとく。アイツが帰ってきたら合図するわ。」

 佐伯さんがドアに走り寄り目配せをした。

「このね、7月26日付けの所から読んでみて。」

 柳原さんが日記帳をめくり、あるページを開いて僕らの前に差し出した。池上君と僕は並んでベッドに腰掛け、一緒に彼の日記を読むことになった。

 7月26日 晴
 西安に着いた。4時間遅れで列車が到着し、午後にようやく駅に降り立った。和平飯店のドミになんとかチェックインOK。真鍋さんは予定通り待っていてくれた。もしかしたら彼女は来ないんじゃないかと少しばかり心配だったが、香港で会ったときのあの笑顔でいてくれた。よかった。

「なんやこれ!あの男とヒサコさん、いったいどういう関係!?」

 池上君が素っ頓狂な声を上げた。

「まぁまぁ、先に進もうよ。」

 僕は次のページをめくった。

 7月27日 曇
 朝から真鍋さんと町巡り。鐘楼、小雁塔、大雁塔、それに解放路の餃子飯店などへ行った。真鍋さんはすっかり明るさを取り戻しているようだった。

 7月28日 晴のち曇
 今日は東回りのツアーで、華清池、兵馬俑を見に行った。華清池はどうってことなかったが、兵馬俑は本当にすごいと思った。広大な中国だけある。あれを全部掘り出すには気の遠くなるくらいの時間を要するんだろう。観光地だけあって欧米の人が多かった。カップルも多い。僕らもカップルに見えたろうか。真鍋さんと手をつないで歩きたかった。

 7月30日 晴
 蘭州に着いた。蘭州飯店の服務員は愛想が悪い。チェックインできたから、まぁいいけど。3人部屋に真鍋さんと二人きり。真鍋さんはレーサーの元旦那さんのことは吹っ切れたと言った。今がチャンスかな。告白しようか・・・

「なにー!告白って!」

 池上君は興奮した。

「へえー、ヒサコさんの元旦那さんってレーサーなのかぁ・・・」

 ヘルメットをかぶり、レース用のスーツに身を包んだ屈強な男性の姿を思い浮かべた。怒りまくる池上君をなだめ、次のページに進む。

 7月31日 晴
 白塔山公園へ行った。クソ暑くててっぺんまで行くのにバテた。オープンテラス風の喫茶部で氷砂糖入りのお茶を飲んだ。真鍋さんはイスラム茶だと言った。お茶を飲みながら黄河を見下ろすと、穏やかな気持ちになった。この気分に乗じて真鍋さんに自分の気持ちを言ってしまった。押さえられなかった。でも、彼女はしばらく一人でいたいと言い、やんわりと断られてしまった。

 8月1日 曇時々晴
 縣空寺へ行こうと旅行社へ申し込みに行ったら、川の水量が少ないからツアー船は出ないというようなことを言われた。仕方なく町巡りをする。きのうの一件があったからか、真鍋さんは心なしかよそよそしくなったようだ。

 8月5日 晴
 莫高窟と鳴沙山へ行くバスにギリギリ間に合った。外国人観光客が多い。さすが莫高窟だ。山肌を掘って、そこに神を祀ったスケールの大きさには驚嘆。ここで城南大学の先生にあった。先生は莫高窟について詳しく解説してくれた。真鍋さんも興味があるのか、先生の話に夢中になって聞いていた。

 8月6日 晴
 きのう会った先生を訪ねて敦煌賓館へ行った。先生の部屋には歴史の本やら中国の地図やらがたくさんあった。真鍋さんは興味を示し、次から次へと先生の本を読み、いろいろと質問したりしていた。先生もゴキゲンだ。すっかりこの二人は意気投合したようだ。なんだか面白くない。お昼は先生の奢りで、久々にホテルのレストランで豪華な料理をいただいた。今日は結局ずっと先生とのお喋り会になってしまい、真鍋さんは嬉しそうだった。晩ご飯も町の綺麗なお店で、また先生にご馳走になった。ホテルに戻ったら夜11時を過ぎていた。
 あの先生について行こう、一緒にトルファンに行こうと真鍋さんが言う。僕が渋ると、別行動にしてもいいのよ、なんてツレないことを言い出すし。思わずカッとなってしまった。気がついたら真鍋さんをベッドに押し倒し、彼女の上に馬乗りになっていた。取り乱してしまった僕に対して、彼女は至って冷静だった。身をまかせてもいいが心はあげられないなんて、スケバン刑事みたいなことを言われた。のぼせていた頭が一気に冷めた。自分のベッドに戻るしかなかった。

「なんやてー!」

 池上君は声を荒げた。僕も声を上げそうになった。ヒサコさんとこの彼との生々しい内容に、胸の中がざわざわ騒いだ。ベッドの上の情景がフッと浮かんだ。きっとヒサコさんは男に組み敷かれても、わきまえたような顔をして落ち着いていたのだろう。そして彼の方は冷静さを失ってのしかかったものの、ヒサコさんの一言に胸をグサリとやられ我に返ったのだ。映画かドラマを見ているかのように、頭の中に台詞付きでそのシーンが映し出された。

「この男・・・この男・・・」

 池上君は唇を噛んでいた。顔が青かった。


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新彊野宴(シンチャンバンケット)
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 【旅の恋】 その4

 翌朝、僕と池上君はほぼ同時に目を覚ました。

「今日は上海へ行くエアチケット、買わないけません。」

 池上君は伸びをしながら言った。

「つきあうよ。」

 とうとう池上君ともお別れか。出逢いは別れの始めなんて言葉があったけど、確かにそうだとこの時切実に感じた。僕らの話し声で柳原さん達も目を覚ましたようだ。

「おはよう~。」
「今日もいい天気っすね。暑そう~!」

 彼女らも身を起こし、うーんと言いながら伸びをしたが 、夕べ入ってきた男性のベッドを見て互いにシーッと言った。彼はまだぐっすりと眠っていた。よっぽどくたびれていたんだな。僕らが慌ただしく朝の洗面なんかごそごそやっても、目覚める気配はない。

「そーっと、静かにね。」
「可哀想だから寝かせてあげよう。」

 僕ら4人は足音を忍ばせて部屋を出た。そして一緒に朝飯を食べに出かけた。

 ウイグル族のおじいさんがナンを焼いている店で我々は朝食を取った。緑色のウイグル帽をかぶり、白い髭を顔中に蓄えたおじいさんは、かまどから焼きたてホヤホヤのナンを取り出して並べてくれた。その香ばしく軟らかいナンをむしゃむしゃ食べている僕らを、優しい眼差しでおじいさんは見ていた。チャイのお椀を差し出してくれたその手には、幾筋もの細かい皺が刻まれていて、これまでこの地で生きてきた年輪を感じさせるのだった。

「ねぇね、夕べチェックインしてきたあの子、ちょっとおかしくない?」

 ナンを頬張りながら佐伯さんが言った。

「そやなあ、なんかしんどそうやったな。」

 池上君が頷いた。

「それもあるんだろうけど、なんか受け答えがおかしかったじゃない。」

 佐伯さんはちぎったナンをひらひらさせた。

「そうよ、反応が鈍かったよねえ、あの人。」

 柳原さんも同調した。

「元気なさそうだったな、確かに。」

 僕は夕べ彼が部屋に入ってきたときのうつろな目を思い出した。

「なんか顔色も悪かったし、ちょっと変よ。」

 柳原さんは納得いかないという表情でチャイを啜った。
「服装も・・・こう言っちゃなんだけど、バックパッカーにしてはスレてるっていうか・・・」
「そやったっけ?すごい汗かいてたんは覚えてるけど。」

 池上君がチャイのお代わりを自分で注ぎながら言った。

「あっ!もしかして・・・アレやってんじゃないの?ヤバいやつ吸ってるんじゃ・・・」

 佐伯さんが突如叫んだ。

「あー、なるほど、ヤクね。」

 柳原さんも大声を出した。

「そうよ、きっとそうよ、聞いたことあるもん。大麻とかヤクとかやったら頭がボーっとして反応悪くなるって!」
「やだぁ~、ヤク中の人と同じ部屋なんてさ!」
「ラリっちゃってたらどうする?」
「リュックの中にいっぱいその手のやつ隠してたりして!」
「いやだぁ~、犯罪者じゃん!」

 また彼女らの話はエスカレートしていく。

「憶測だけで大麻とかクスリやってるって、決めつけるのはよくないんじゃない?」

 僕は自分で言いながらも、夕べの彼が大麻を吸っている姿を想像してしまった。ひとしきり彼の話題で盛り上がったが、朝飯を済ませたので次の行動に移った。老板のおじいさんは目を細め、またおいでと手を振って見送ってくれた。

 女性陣は買い物と市内巡りに、そして池上君と僕は飛行機のチケットを買いに出かけた。CITSに行ったので、チケットは意外と簡単に手に入った。結局池上君は明日の午前の便で上海へ飛ぶことになった。いよいよ彼も日本へ戻るのか。

「戸田さんにはホンマお世話になりました。」

 池上君は急にかしこまった。

「やめてくれよ。そんな改まってさ。日本でもまた会おうよ。」
「そうですね。呼んでくれはったら、東京に飛んでいきます。」
「うん、僕も大阪に行く機会があったら、必ず連絡するから。」

 それから2時間ほど僕らは喋りながらウルムチの町をぶらぶらと彷徨った。歩きながら旅のこと、中国のこと、大学生活のことなどを話した。そして将来のことにまで話題が至った。池上君は大学2年だ。彼は経済学部だが、ゆくゆくは町作りに携われるような仕事をしたいという展望を持っている。今回の旅でインフラ整備の大切さを実感したのだと熱く語った。が、僕にはまだ展望がない。次の春から4年になるというのに、頭の中には何の設計図も描けていなくて、真っ白な紙がペランと一枚空虚になびいているだけである。春までに何かが見つかるだろうか。自分の道が見えかけている池上君が羨ましく、また眩しく思えた。

「そろそろホテルに戻りましょうか。」

 池上君の声でハッと我に返り、腕時計を見ると2時半をさしていた。

 僕らはドミトリーの部屋に帰ってきた。ドアを押し開くと、柳原さんと佐伯さんが先に買い物から帰ってきていた。しかし、夕べチェックインしてきた彼はいなかった。

「な~んだ、戸田さんと池上さんかぁ!」
「あああ、びっくりしたあ!」

 彼女らは大袈裟に驚いた。そして意味ありげに手招きをした。

「ねぇねぇねぇねぇねぇ、来て来て来て!」

 佐伯さんの声が少し低くなった。

「ほらほらほらほら、これ、見て見て見て見て!早く早く!」

 柳原さんもせわしなく言った。僕も池上君も不思議に思って彼女らに近づいた。柳原さんの手に一冊の小さいノートがあった。

「これ、大麻野郎の日記。」

 佐伯さんが更に声のトーンを落とした。

「えっ!人の日記、黙って読んでたの?」

 僕が思わず叫ぶと、彼女たちはそれぞれ口に人差し指を当ててシーッと合図した。
「だってこの日記、表に出しっぱなしにしてあったのよ。無造作にここに置いてあったの。だからつい・・・」

 柳原さんが彼のベッドの脇を指さした。

「でも、人の日記を読むなんてアカンよ。」

 池上君も眉根を寄せた。

「そうだよ、それに彼、今はいないけど帰ってくるよ。ヤバイよ、やめようよ。」

 僕は手を左右に振った。

「私達、これ読んじゃったの。それで事実がわかったの。」
「アイツ、大麻野郎じゃなかったのよ。ヤク中じゃなかったのよ。」

 彼女らは必死の顔つきで、そのノートを僕らに差し出した。


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新彊野宴(シンチャンバンケット)
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 【旅の恋】 その3

 池上君と僕は互いに顔を見合わせた。

「これってヒサコって読みますやんね。」
「うん、やっぱりヒサコさんだ。」
「あれっ、真鍋さんのこと知ってるの?」

 佐伯さんが叫んだ。

「知ってるもなにも、今朝までここにいてはったよ。」

 池上君も叫んだ。

「そうかぁ、じゃ、タッチの差だったんだぁ~。」

 柳原さんはそう言いながらメモ帳をしまおうとした。が、

「あれっ?」

と、開いていたページをもう一度見て驚いた。

「おかしい、真鍋さんの住所・・・・・」
「え、どれ?」

 僕ら4人はメモ帳を覗き込んだ。真鍋寿子と書かれたその下に“岐阜県各務原市2-5”とあった。町名が書いていない。これなら手紙を出してもちゃんと届かないのではないか。それとも、町名など書かなくてもよいくらい地元では有名人なのか。

「なんでこんな書き方したんかな。うっかり町名書くの忘れたんやろか。」

 池上君が首をひねった。いや、書き忘れたのではない。わざと書かなかったんじゃないか。ヒサコさんは意図的に素性を隠しているのではないか。僕は直感的にそう思った。

「今まで気づかなかった・・・」

 柳原さんが小さい声で言った。

「そう言えば戸田さん、今朝ヒサコさんがチェックアウトするとき、なんや妙なこと言うてはりませんでした?」

池上君がはっとして聞いた。そう、それは僕もさっき頭をかすったのだ。彼女は『私のこと聞かれても知らないって答えて』と漏らしたのだ。急にチェックアウトをしたり、住所を不完全に書いたり、何か人に知られたくない事があるんじゃないか。そう思うとヒサコさんが突然ミステリアスな女性に感じられた。

「え、何て言ったの?真鍋さん、何て?」

 佐伯さんが池上君の肩を揺すぶった。池上君が答えようとしたとき、柳原さんが急に

「あっ!」

と大声を出した。

「思い出した!真鍋さんと一緒にトルファンツアー回ったとき、ちらっと言ってた!真鍋さんってバツイチなんじゃないかな?もしかしたら別れた旦那さんが追いかけてきているとか・・・」
「えー!ヒサコさん、結婚してはったんですか!なんかショックやなあ。」

 今度は池上君が大きな声を出した。

「そんな話、私聞いてないよォ。」

 佐伯さんが口をとがらせた。
「ウソだよ、サエもいたじゃん。ベゼクリク千仏洞でさ、香港人のカップルがいちゃついてたでしょ。あの時よ。」
「えっ、そうだったっけ。香港のラブラブカップルのことは覚えてるけどさぁ。」
「私がカップルを見て『ああ羨ましい~』って言ったら、真鍋さん、『私は羨ましくないかも。緑色の枠の書類書いたから』って。あの時はどういう意味かよくわからなかったんだけどさ、緑色の枠の書類って、離婚届でしょ?」
「えー、そんなこと言ったの、真鍋さん!」
「聞いてなかったの、サエ?」
「だってベゼクリク見るのに夢中だったもん。」

 柳原さんと佐伯さんが話しているそばで、池上君はがっくりと肩を落としていた。

「まさか離婚歴があるとは思わへんかった。」

 ヒサコさんは確かに先を急いでいると言った。それは柳原さんが言ったように、誰かに追われていて逃げているのかもしれない。だが、逃げるのなら何故旅などするのか。友達や親戚のうちに身を寄せるとか、ほかにいくらでも方法があるんじゃないのか。それとも日本にいてはまずい事情でもあったのか。池上君がショックに陥り、僕があれこれ考えているうちに、柳原さんと佐伯さんの話はエスカレートしていた。

「もしかしたら復縁迫ってきているのかな、真鍋さんの元ダンナ。」
「シルクロードまでやってくるなんてストーカーじゃないの。」
「どうする、刃物とか持って真鍋さんを追ってきたら。」
「ひゃあ、こわぁ。あ、ここにはウイグルナイフたくさんあるしね、やばいよ、やばい!」

 二人はキャッキャ、キャッキャと大騒ぎだ。

「戸田さん、人ってわからんもんですね。」

 池上君がぽつりと言った。

「そんなにがっかりしなさんな。離婚したってことは、ヒサコさんはフリーってことだろ。チャンスあるんじゃないの。」

 僕は池上君の背中をバシンと叩いてやった。

「ま、まあ、そうですけどね。・・・・そ、そうですね。そやそや。彼女はもう人妻やないんですよね。」
「私もフリーですよ。」
「そう、私も人妻じゃありませんよ。」

 柳原さんと佐伯さんが池上君の前にぬっと顔を突き出した。

「え!それ、どういうこと!?」

 池上君が一歩身を引いた。

「しっつれいねぇ~!」
「我々のことなんか眼中にないんでしょ。」
「そりゃ私らは真鍋さんに比べたら劣るんでしょうけど。」
「そうそう、だけどこれほど無視されたらねえ。」

 女性二人がじりじり池上君ににじり寄った。ひえぇっと顔を引きつらせ、すり足で後ろに下がる池上君の姿は滑稽であった。

「やあね、冗談よ、冗談!」
「池上さんって、面白いね。ハハハハハ!」
「もおォ、からかわんとってよ~!」

 結局最後は大笑いとなり、それから僕ら4人は楽しく晩ご飯を食べたり、二道橋市場をぶらついたりした。夜も更け、ドミトリーに帰ってからもお喋りは途切れなかった。でも、もうこの頃にはヒサコさんのことは忘れていた。もちろん彼女の謎はまだ残ったまま胸の片隅に貼りついていたが、池上君も柳原さんも佐伯さんも、そして僕も意図的にそれを胸の奥の方に押し込めた。これ以上ヒサコさんの秘密に踏み込んではならないような、そんな気がしたからだ。彼女は確かに何かを知られたくないようだし、住所を不完全に書いたのだって訳があったに違いないのだ。

 僕らはすっかり話し込み、気がつくと午前1時を過ぎていた。

「そろそろ寝ようか。」

 交代に歯磨きをして床につき、お休みなさいと声をかけ合い、電気を消した。その時だった。

 トントン

 ノックの音がした。なんだ、今頃。僕らは飛び起き、息を殺した。

 トントン

 またノックの音。怪しい奴か?僕と池上君が起き上がってドアの方に静かに近寄る。僕はノブの方に、池上君はちょうつがいのある方に。もしも暴漢か何かだったら、二人で挟み撃ちにして取り押さえる覚悟だ。柳原さんと佐伯さんも自分達の懐中電灯を握りしめていた。彼女らも応戦する覚悟だ。僕は池上君に目配せし、池上君は深く頷いた。僕はそうっと鍵をはずし、少しだけドアを開けた。するとそこにはリュックを担いだ男性が立っていた。

 なんだ、客なのか。だけどなんでまたこんな遅い時間にチェックインしてきたんだろう?

「チンジン(どうぞ)。」

 僕は中国語で彼を部屋に招き入れた。

「サ、サンキュー。」

 その男性は二拍くらい遅れて挨拶すると部屋の中に入り、空いている残り一つのベッドに腰掛けた。そしてリュックを下ろし、ハーッと長い溜息を漏らした。


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 【旅の恋】 その2

 この日の午後、突然ヒサコさんが言った。

「わたし、明日朝イチでクチャに行くね。3日間楽しかった。戸田君、池上君、どうもありがとね。」
「そうですか。クチャも良いですよ!」

 僕はクチャ情報を彼女に教え、メモに書いて渡した。

「助かるわ、サンキュー!」

 ヒサコさんの明るい笑顔とは対照的に、池上君の表情は冴えなかった。

「もう少し一緒にいられるかと思ったんですけど・・・」

 思わず池上君の本音が漏れた。

「そう言ってもらえるなんて光栄だわ。でも、ごめんね、私、ちょっと先を急いでるんだ。」

 ヒサコさんは伏し目がちに言った。

「日本へ帰る日が迫ってるんですね。」

 僕がさりげなく聞くと、

「え?ええ、まあそんなところ。だからこれからバスの切符買いに行こうかと思って。もしよかったら、つき合ってもらえないかな。」

 ヒサコさんは珍しく我々にお願いした。彼女の頼みとあって池上君は張り切ってお供をした。僕もついて行ったが、自分が定食に添えてある漬け物のような存在だなあと思いながらも、まあいいや、と嬉しげにしている池上君の後ろにくっついてった。

 翌朝ヒサコさんはバスに乗るため早朝チェックアウトをした。

「見送ります!」

 静かに仕度をしていたヒサコさんだったが、物音に気づいた池上君はガバッと跳ね起きた。僕も目が覚めた。しかしベッドから起き上がろうとする池上君を制し、彼女は静かに言った。

「大丈夫よ。だから眠ってて、お願い。」

 爽やかな笑顔を残し、ヒサコさんはドアのノブに手をかけガチャリと回した。と同時に僕らの方に振り返った。

「あの・・・もしもよ、この後日本人の旅行者が入ってきて、もしも私のこと聞かれたら・・・いえ、私のこと聞かれても・・・知らないって答えてくれる?」
「え?」
「は?」

 僕も池上君も静止してヒサコさんを見た。3秒ほど時間が止まった。が、彼女は慌てて手を横に振り

「ううん、ごめん、何でもないわ。じゃ、行くね。ありがとう。バイバイ。いつかまたどこかでね。」

 パタンとドアが閉まり、ヒサコさんはウルムチを去った。僕と池上君は顔を見合わせ、彼女が去り際に漏らした言葉を頭の中で反芻していた。『知らないって答えてくれる?』ってどういう意味なのか。10秒ほどぼんやりした頭で考えたが起き抜けの脳みそは回転が鈍く、間もなく勝手に思考が止まってしまった。池上君も僕と同じと見え、またベッドに倒れ込んだ。僕ももう一眠りすることにした。

 その日の午後、また日本人の女性が僕らの部屋にチェックインしてきた。しかも二人だ。ヒサコさんがいなくなって寂しくなったドミトリーだったが、またすぐに賑やかさを取り戻した。

「トルファンから来ました~。」

 背の低い、色黒でショートカットの方の女の子が元気よく言った。

「ふう~う、やっぱ暑いですね、シルクロードは。」

 背の高い大柄の女の子が汗を拭き拭きリュックを下ろした。

「友達同士ですか?」

 僕は何気なく聞いた。

「うん、そうですね、今は。私らもともと一人旅同士だったんだけど、こっちで仲良くなったっていうか。」

 背の低い子が答えた。シルクロードを旅しているとこういうことはよくある。現に池上君と僕がそうだ。

「私は鑑真号で上海に入って列車でまっすぐこっちに来て、敦煌でヤナちゃんと一緒になってからずっとともに行動してるんす。」

 大柄の女の子はなおも汗を拭きながら言い、ベッドから立ち上がった。立つと池上君より背が高い。しかも横幅もあり、ちょっと圧倒されそうだ。

「私は燕京号で天津に入って、それからこっちに来ました。」

 色黒のショートカットの子は大柄の子の近くで見ると余計に小さく見えた。でこぼこコンビだ。僕らは互いに自己紹介をした。彼女らも僕らと同じく学生だった。背の低い方は柳原さんといい、北海道の大学1年生で、大きい方は千葉県出身の佐伯さんといい、東京の大学に通う1年生だと言った。同じ学生同士僕らはすぐにうち解け、旅の話で大いに盛り上がった。旅の醍醐味というのは、つまりこういうことなのかもしれない。一人で旅をしていても、宿泊先で出会った旅の友と旅の苦楽を語り明かすってことが。

「なんやァ、お宅らも敦煌であのダフ屋にひっかかったんかいな。アハハハハハ!」

 ヒサコさんが去った寂しさを忘れたように、池上君も上機嫌だ。お喋りに夢中になっている。よかった、よかった。

「よーし、じゃあハミ瓜でも買ってきておやつタイムとしようか。」

僕が提案するとみんな大賛成。ちょうど午後5時を回ったところだし、いいタイミングだ。さっそく池上君と市場へ出かけ、大きめのハミ瓜を一つ手に入れた。これを持ち帰ると佐伯さんと柳原さんが二人で切り分けてくれ、僕らはハミ瓜にかぶりついた。

「トルファンのハミ瓜もおいしかったけど、ここのも最高だわ。」

 大きい佐伯さんが頭を揺すりながら言うと、彼女のポニーテールも大きく跳ねた。

「ハミ瓜選ぶのうまいのね。さすが長期旅行者は違うわ!あ、だけどゴメンね、私が切ると不公平切りになっちゃって、アハハハハハ・・・」

 柳原さんがハミ瓜の種を取り除きながら照れ笑いをした。

「そうよ、ヤナちゃんが切ったとこ、左寄りになってるもんね。」

 佐伯さんが悪戯っぽく言う。

「かまへんよ、食べられたらそれでええって。」
「そうそう、僕ら気にしてないから。」

 僕らは柳原さんを気遣った。

「へへへへへ、許してね。真鍋さんならこんなヘマしないんだけどね。あ、真鍋さんっていうのは、私らがトルファンにいたとき一緒だった人ね。トルファンではいつも真鍋さんがハミ瓜を切ってくれて、それがすごく上手なの。果物とかの皮剥いたりするの速いんだ。すっごくお世話になっちゃった。」
「そうそう、真鍋さんって頼れるお姉さんだったもんね。いい人だったのよ、優しくて親切で。それに美人だったしねぇ、真鍋さん。」

柳原さんと佐伯さんはハミ瓜切りが上手な真鍋さんという女性を話題にした。

「へえ、美人やったんかぁ。僕も会ってみたかったなぁ。」

 池上君が呟いた。

「うん、そりゃ魅力的な人でね、男の人だけじゃなくて同性にも好かれるような、非の打ち所がない人よ、真鍋さんは。」

 佐伯さんの言葉を聞くと、今朝方去って行ったヒサコさんがふと頭に浮かんだ。

「だけど真鍋さん、急に行っちゃったね。急いでたみたいで、突然チェックアウトして出てっちゃったの。」

 柳原さんがハミ瓜の皮をゴミ箱に投げ入れながら言った。突然いなくなった?それもヒサコさんみたいだな。待てよ、ひょっとして・・・・・

「うん、朝起きたら真鍋さんいなかったもんね。ありがとうっていう書き置きだけ残して。」

 佐伯さんはそう言うと、3切れ目のハミ瓜にかぶりついた。

「ねえ、その真鍋さんって下の名前、何ていうの?」

 僕は念のため彼女らに聞いた。

「えーっと、何だたっけ?」
「あ、私、メモ帳に真鍋さんの住所書いてもらった!」

 柳原さんがリュックの中からはがき大のメモ帳を取り出してページをめくり、

「あ、あった。」

と、あるページを僕らに見せた。そこには達筆な字で“真鍋寿子”と書かれてあった。


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