|
中国放浪回顧録 |
中国放浪回顧録 その34
【真面目な景徳鎮】
中国の陶器といえば景徳鎮。これは日本においても周知の事実である。だから景徳鎮が中国のどこに位置するのか知らなくても、我々はその名前ぐらいは知っている。そして「景徳鎮」という言葉を聞くと陶器のイメージから芸術的且つ、渋いいぶし銀の香りが感じられる。桂林や北京など観光名所の町が持つ華やかさや、上海のような都会的センスあふれるお洒落なムードとは異なり、どこかインテリタイプの雰囲気がするのである。それは景徳鎮が我々に教養を与えてくれる分野においてその名を記されているからだ。中国の歴史を語る書物は明代,清代に陶器生産の繁栄期を迎えた景徳鎮を紹介し、中学校や高校の地理の教科書には必ず陶磁器の産地として挙げられ、学生たちは暗記項目としてテスト直前にこの町の名を覚えるのである。けれども、景徳鎮が意外と真面目で厳格な町であることまではどの本にもいまだ書かれていない。ふふん、文部科学省の教科書検定もまだまだ手ぬるいな。
景徳鎮に足を踏み入れた直後、行動の第一歩として市バスに乗ってみた。中国の市バスは2台分を蛇腹でつなげたものが多い。そして前のバスと後ろのバスそれぞれに車掌が一人ずつ乗っているというパターンが一般的だ。が、景徳鎮の市バスには車掌が一人多い3人乗っており、きっちりと乗客を管理している。無銭乗車など絶対見逃さず、どんなに混んでいても、乗客一人一人に切符をちゃんと購入したかどうかを確認するというその徹底ぶりには驚く。なんと抜け目のない町だろうか。いい加減で、どんぶり勘定的な、おおざっぱな中国は、ここ景徳鎮では存在しない。同じ中国でも一風違った感じがする。歩いていても、身が引き締まる思いがするのだった。
さて、せっかく景徳鎮に来たんだから、古窯を見物しに行こうか。芸術魂からではなく、屋台の食べ物をぎゅうぎゅうに詰め込んだ胃を軽くするために思い立ったのだ。我ながらまったく色気のないことである。古陶瓷博覧地は町のはずれにあった。冬場のためか、訪れる人は少ない。故に旅行者然とした私はやけに目立ってしまうのだった。もちろんすぐ係員に日本人と見破られる。ちょっと日本語が話せる係員だったので、こちらとしてはかえって都合がよかった。係員の劉さんに案内していただきながら古窯を見学する。やはり今は季節はずれということで、仕事人は不在。よって土を捏ねているところや、絵付けをしている現場は見られなかったが、仕事場は覗けた。博覧地の敷地内には、展覧室という建物があった。お客さんが少ないためか、展覧室はクローズドになっていたが、劉さんが鍵を開けて特別に見せてくれた。明代、清代などに作られた昔の陶器が展示されており、中には人間がすっぽり入ってしまうぐらいの大きな壺もあった。どの陶器も見事な手により色彩鮮やかな作品に仕上げられているが、その美しさよりも誕生した時代から現在まで存在し続けてきた、それぞれの陶器の誇らしさに心を揺さぶられる。山吹色の大きな鉢の前で劉さんは立ち止まった。
「黄色い色の作品は皇帝のものだったんだよ。皇帝に献上するものはすべて黄色に染めなくちゃならなかったんだ。」
劉さんによると、中国語で『黄』と皇帝の『皇』は同じホアンという発音だから、当時はそういうルールができたんだそうだ。山吹色の鉢は私の前でエヘンと胸を張った。
劉さんの日本語はカタコトであったが、案内業に関しては徹底していた。彼とはこの古窯でさよならかと思っていたら、その後「陶磁館」という陶磁器の博物館と、弟さんが働いているという陶器工場を案内してあげようと言った。はるばる日本から来た私に景徳鎮のすべてを紹介したいようだ。そして更に、景徳鎮市民の生活も見てみたらよかろうという親切心からだろうが、弟さんのおうちへお邪魔し、家庭料理をいただくというオプションまでつけてくれた。まさに至れり尽くせり。劉さんの仕事にかける意気込みが窺えるのだった。
劉さんの弟さんが勤めている工場を訪れた時も、景徳鎮の真面目さに触れた。工場の名は『宇宙工場』。工場内にある展覧室の係員として働いている劉さんの弟さんはとても愛想のいい人で、突然飛び込んできた異国の小娘にも丁寧に工場の中を案内してくれた。すっかりオートメーション化された工場では、決まった型でたくさん同じ形の器ができてくる。ベルトコンベヤーに載ってスピーディーに処理されていく様子は大仕掛けのおもちゃのようでおもしろい。窯も倉庫のような大窯だ。1200度の温度で一度にどっさりと焼かれる。
劉さんの弟さんの話では、工員さんたちには日曜も祝日もないらしい。基本的に休みなく毎日働くというシステムだという。工場の労働は厳しい。むろん休みたければ休んでもいいが、その分日当が支払われないだけの話だとか。こういうことを聞くと、女工哀史のような労働基準法もへったくれもない悲壮な労働条件で気の毒に感じる。来る日も来る日もベルトコンベヤーの脇に立ち、流れてくる陶器を処理していく。黙々と健気に働かなくてはならない景徳鎮労働者の運命をここに見た。これほどまでに陶器にかける情熱が強い町だったとは。工員さんたちの謹直な態度は痛々しいほどではないか。休む間もなく文字通り歯車となってコツコツ働く姿はいたわしいではないか。
ところが、当の工員さんたちには全然暗さなどない。みんな笑いながらおしゃべりしながら作業に勤しんでいるところを見ると、陶器作りは結構楽しい仕事なんだろう。景徳鎮は景徳鎮であって、野麦峠ではないのだ。はぁ、ちょっと安心した。
景徳鎮で泊まった宿は景徳鎮飯店だった。ホテルの向かいの通りはずうっと奥まで陶器街になっていて、皿、マグカップ、花瓶、きゅうす、人形など、ありとあらゆる陶器が並んでいる。見ているだけでも楽しくなってくる。更に、このホテルの前のロータリーには小吃(中華式スナック)の屋台がたくさん出ている。焼きそば、汁そば、焼き餃子、水餃子、小龍包、揚げ餅など、た~くさんの食べ物の誘惑に乗り、ついつい食べ過ぎちゃう。やっぱり私は花より団子、陶器より小吃だ。こんなすてきな環境に囲まれた景徳鎮飯店だから大いに気に入った。一泊12元の3人部屋のドミトリーに泊まっていても十分幸せだったのだ。そしてこのホテルでも私は景徳鎮の真面目さと出会ってしまった。
景徳鎮第一日目の日、お散歩から戻って部屋に入ろうとする私めがけて服務員のお姉さんが走ってきた。
「あなたの部屋を隣に変えました。お客さんが少ないから部屋が余っている状態なんです。さっきの部屋は他の人がいたでしょう。知らない人と一緒だったら面倒なこともあるでしょうから。どうぞ一人で部屋を広々使ってくださいね。」
なんと、お姉さんは気を利かせてくれたのだ。そう言えば最初にチェックインした部屋には一人先客がいた。一番窓側のベッドに荷物が置かれていたのだ。リュックの模様や英語の本が何冊か置いてあるところを見ると、きっと欧米の旅行者だろう。部屋に戻ってきて先客に会ったら苦手な英語で話さなくちゃならないな、なんてちょっと緊張していたのだ、実は。よかった、お姉さんが親切で、気の利いた真面目な人だったので、私は下手くそな英語を駆使しなくてもすんだのである。
チェックアウトの時もお姉さんは勤勉ぶりを発揮してくれた。私は次に武夷山へ行くため、南方へ向かう列車に乗らねばならなかった。この列車が景徳鎮の駅を出発するのは早朝で、午前5時に切符を売り出すという。この時間に駅に着くには4時には起きておかなければならない。朝早くチェックアウトをすると、服務員の機嫌を著しく損ね、円滑にチェックアウトできないかもしれない。そこで私は前日の夜にチェックアウトの手続きを済ませておこうと考えた。服務台に掛け合うとお姉さんは言った。
「まあ、そんなに早く出ていくなんて大変ですね。私、明日の朝4時にモーニングコールしましょうか。」 「えっ、そんなことしてもらえるの?」
ドミトリーの客にはサービスが悪いと相場が決まっている。そう思っていたので驚いた。
「もちろんですよ。仕事ですもの。」
お姉さんはにこやかに答えた。だが、忘れるのが得意な中国のホテルのことである。当てにしすぎてはいけない、と自分に言いきかせる。
翌朝4時きっちりに部屋の電話が鳴った。お姉さんは約束を守ってくれたのだ。
「起きてください。時間ですよ。」
爽やかな声だった。仕事とはいえ、律儀ではないか。思わず深く感動する。お姉さん、疑って悪かった。景徳鎮の人はやっぱり真面目なのだ。
「気をつけてね。また景徳鎮に来てください。」
服務台へ鍵を返したら、彼女はすがすがしい笑顔で送ってくれたのだった。
景徳鎮は陶器の町としてその名を世界に知らしめた。この町で生まれた作品は世界各地へと送り出される。景徳鎮の特徴は薄さであるとか、透かしの入った優雅な模様であるとか、ちょっと焼き物に詳しい人ならそのうんちくを傾かせる術を知る心憎い町である。よって世の人が知る景徳鎮の看板はすべて陶器絡みなのだ。だがしかし、素顔の景徳鎮の秘密についてはほとんどの人間は知るまいて。ふふふふふ。こっそり優越感に浸り、一人ほくそ笑みつつ駅へと向かう私であった。
(1990年2月)
ブログランキング
ブログランキング
スポンサーサイト
テーマ:エッセイ - ジャンル:小説・文学
|
|