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新彊野宴(シンチャンバンケット) |
新彊野宴(シンチャンバンケット)
【僕の進むべき道】 その3
眩しい光が差し込んできて思わず身を起こした。いつの間にか夜が明け外は明るくなっていた。いけない、寝過ごしたか。慌てて時計を見る。時刻は11時35分を指していた。コージさんのベッドを見ると、そこに彼はいなかった。が、コージさんのリュックはベッドの側に立て掛けてある。よかった、まだ出発してなかった。夕べ、明け方まで二人で飲んでいたから寝坊するところだった。僕はフーッと長い息を吐いた。その時、トイレのドアが開き、コージさんが出て来た。
「おう、おはよう。名残惜しくなるから戸田君が寝てるすきに出ようと思ったのにな。」
コージさんはバンダナを頭に巻きながら言った。
「そんな水臭いこと言わないでくださいよ。見送りくらいさせてください。」 「そりゃやばいな。泣いちゃうかもな。」
コージさんは泣き真似をしておどけた。
「何言ってんですか!日本で奥さんが待ってますよ。」 「あー、やめて。照れ臭っ!」 「『幸せの黄色いハンカチ』みたいに家の周りにハンカチ結んであるかもしれませんよ。」 「お~、そうかもしれんなぁ。本当にそうだったら嬉しいけどね。まあ、現実は『ああ、帰ってきたの』ってなもんだろう。」 「ちゃんとお土産買ったんですか、奥さんに。」 「ははははははー!この身がが戻ればそれでいいんじゃない?」
コージさんはすましてポーズをつけた。こんなことを言っといて、きっと何かお土産を用意しているんだろう。僕は直感でそう思った。
「そろそろ行くよ。」
コージさんはリュックを背負った。僕も1階まで一緒について行った。ロビーでチェックアウトを済ませたコージさんは僕の方を振り返った。
「戸田君、ありがとう。ここでいいよ。見送られるのはマジ苦手なんだ。」
コージさんは左手首に巻いていたオレンジの紐をほどき、僕に寄越した。
「これ、お守り。ラサで坊さんにもらったんだ。達者でな。」
所々茶色に汚れたその紐はコージさんの苦闘の旅を物語っていた。これなら効き目がありそうだ。
「夕べはつき合ってくれてありがとな。嬉しかったよ、戸田君と飲み明かせて。本当は妻のことなんて話すつもりはなかったんだ。だけど、何でだろうな、戸田君の姿を見たら何もかも白状したくなっちゃって。夕べ言ったことは他の誰にも話してないんだ。戸田君なら話しても受け入れてもらえそうでさ。だって、ナンセンスだろ、俺の旅行事情なんてさ。ホント、聞いてくれてサンキューな。」
コージさんの目は真剣だった。僕のことをそんな風に思ってくれていたとは。お礼を言わなくちゃならないのはこっちの方だ。
「いえ、こんな僕に打ち明けてもらえたなんてありがたいっす。」
今日もカシュガルの午後は暑い。太陽が強くオアシスの町を照らし、汗を流させ、元気を奪っていく。ホテルの前の噴水広場にはいつものようにパキスタンの男性がたむろしているし、木陰にも座り込んでいる。木陰の影はくっきり黒く、日向のアスファルトから陽炎のような揺らめきが湧き出ている。
コージさんはじゃあと、右手を差し出した。僕はコージさんの手を両手でつかんだ。
「気をつけて。」 「戸田君もいい旅を。」
コージさんは手を振って爽やかな微笑みを残し、ホテルを出て行った。リュックを背負ったコージさんの背中が徐々に小さくなる。表通りに出たリュックは右に曲がり視界から消えた。コージさんが去ってしまった。
しばらく僕はロビーに立ちつくしていた。そしてそのままロビーのソファーによろよろと歩み寄り、ドサッと身を沈めた。ただぼんやりと力無く外を眺める僕にパキスタン人が何か話しかけてきた。でもいったい何を言ってるのか、僕の耳にはその言葉が入ってこなかった。やがてパキスタン人は諦めて僕のそばから離れていった。 何時間くらいソファーに座っていただろうか、気がつくと辺りが薄暗くなり始めていた。僕はようやく立ち上がり、部屋に向かってふらふらと歩き出した。フロントの前を通った時だった。
「あなたのお友達、行っちゃったわね。あなたはここに残るの?」
服務員の女の子が訊ねた。少し笑みを浮かべ、彼女は何気なく聞いたようだった。しかし僕の頭の中に“ここに残る”という言葉が激しく引っ掛かった。残る・・・そうだ。僕だけ砂漠の町に取り残されたような気がした。急に孤独感に襲われ怖くなってガクガク膝が震えた。僕が服務員を見つめたまま何も言わないので、変だと思ったのだろう、
「どうしたの?何かあったの?」
心配そうに彼女は聞いた。
「い、いや、何でもないよ。」
僕は無理に笑顔を作った。が、服務員はまだ怪訝そうにこちらを見ている。僕は彼女に膝の震えを気づかれぬよう咄嗟に急ぎ足で歩いた。気がついたら表通りに出ていて、町に向かって歩いていた。
池上君は学校に戻り夢に向かって突き進んでいく。島本君はウイグル語の習得に頑張っている。コージさんは新しい商売を展開するべく奥さんの元に戻った。僕と一緒にチニバーのドミトリーでダラダラ暮らし、ウイグル飯を食って酒を飲み、とりとめのない旅の話をしたいた仲間がそれぞれ巣立っていった。自分だけ置いてけぼりを食らったみたいだった。オアシスの貧乏宿で皆ただただアンニュイな気分に浸っているだけだと思っていたが、実は自分以外は確固とした志があった。本当に糸の切れた凧だったのは僕だけだ。いつまでも巣立てずに空を見上げている情けない自分が客観的に絵になって映った。それは一人奈落の底に突き落とされた恐怖に包まれた絵だった。
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テーマ:自作小説 - ジャンル:小説・文学
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