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新彊野宴会(シンチャンバンケット) |
新彊野宴(シンチャンバンケット)
【イギリス人】 その5
「戒厳令が解かれたといってもチベットに入るには制限があってね、行きたいならCITS(中国国際旅行社)に申し込まなくちゃいけないっていうんだ。申し込み人数がある程度揃ったらジープやワゴン車をチャーターして出発するんだけど、それが結構高いんだよ。一人FECで500元前後支払わなきゃならないって話でね。そんなの冗談じゃないさ!僕はこれから旅しながらイギリスに戻っていく身だろ。一箇所に大金をつぎ込んでいられないからね。CITSに申し込むのはやめたのさ。だいたいCITSのやり方には疑問があるよ。公安と組んで、CITSを通さないと外国人をラサに行かせないようにしてるんじゃないかって、皆言ってたよ。治安問題を利用して、旅行者の足元を見てるってね。」
そんなわけでトーマスがとった手段はヒッチだった。池上君といい、このハンサム青年といい、なかなかの強者だな。
「そうさ。FEC50元でトラックのドライバーを買収したんだ。」
トーマスは悪戯っぽくウインクして見せた。ほほう、FEC50元とは格安な!彼の度胸の良さに感心しないではいられない。
かくしてトーマスは外国人とばれぬよう、青い人民服に身を包み、緑の人民帽を目深にかぶり、サングラスをかけて1台のトラックに乗せてもらった。
「だけど、ラサに着くまでは大変だったよ、実にね。スリル満点でFEC50元では足りないくらいエキサイティングだったんだ。」 「へええ、そんなに楽しかったの?」
池上君が身を乗り出した。
「ははははははは、楽しいなんてもんじゃない。体が縮み上がったり、凍りついたり、生きた心地がしなかったよ。エキサイティングを通り越したね。」
今は笑い飛ばして話してくれているトーマスだが、相当な目にあったのだろう。
「どういうことなのか、詳しく聞いてもいい?」
僕は是非とも彼が体験したことを聞きたかった。
「うん、いいよ。トラックがゴルムドを離れて、砂漠をずーっと走ってね、ついに夜になった。電灯なんかない道だろ。辺りは真っ暗さ。うとうとしながら車に揺られていたら急に止まったんだ。運転手は車を降り、もう一人の交代要員ドライバーとともに助手席に残された。一服しようと胸ポケットからタバコを取り出し、火をつけようとしたしたら、交代要員が拳銃を僕の顔に向けたんだ。ヤツは真顔だったから、ここで殺られると思ったね。海青省の名も知らぬ町で僕は命をとすのかと覚悟したよ。そうしたら彼は言ったのさ。『ノースモーキング』ってね。目をこらして辺りをよくよく見たら、そこはガソリンスタンドだったのさ。火気厳禁っていうのはわかるけど、何も拳銃で脅すような真似しなくたっていいだろう。」
トーマスを乗せた中国人も、買収してくるような外国人は信用しかねると思ったのだろうか。タバコを吸わせないようにするには身振りなどでできそうなものだが、飛び道具でやめさせるとは穏やかではない。
「心臓が凍りついたね。まったく。だけど、翌日は足が凍りつくような思いをしたんだ。」 「そんなに寒かったんや!」
池上君が更に身を乗り出す。
「途中、道が壊れていて、やむなく川を渡ることになったのさ。ジープやランクルならともかく、小さなトラックだろ。でこぼこの川底を走るのは浅瀬でも大変でね。川を半分ほど渡ったところで、車が動かなくなったんだ。馬力不足でエンジン空回り。僕と交代ドライバーが車を降りて、後ろからトラックを押したんだよ。川の水ってばめちゃくちゃ冷たくてさ、足が凍るかと思ったよ。膝上まで川の水に浸かって20分くらい押したかなあ。必死で押してようやく脱出できたんだけど、いやホントすごいアドベンチャーだったよ。」
トーマスは肩をすくめて紅茶を一口啜った。
「ラサまでの道のりって、高い山越えなんでしょ?辛くはなかったですか?」
僕は最も気になっていたことを聞いてみた。
「うん、4千メートル級の山また山の連続でね、途中5千メートルを超えていた所もあったなあ。空気は薄いし寒いしで、二日目の午後には頭痛がしたよ。軽い高山病だったのかもしれない。こめかみがひどく痛んで、脈の音が響いているみたいだった。でもドライバー達は慣れているのか、全然平気そうだったよ。タフなものさ。」 「ずっと頭痛で気が滅入らなかったんですか?」 「しばらくはマイッてたけど、夜になったら治まったよ。慣れたんだろうね。それ以降は大丈夫だった。」
トーマスは軽くウインクして見せた。
「あ、そうそう、3日目の夜にすごいものを見たよ。暗闇の中、砂漠の一本道を走っていたら、ある箇所で大きなトラックが止まっていて道を塞いでいたんだ。僕らのドライバーが下りて様子を見に行ったんだけど、戻って来るなり大声で怒鳴ったんだ。ドライバーは何か喚きながらまた運転を始めたんだけど、道を外れて砂漠のでこぼこ道に下りたのさ。つまり、ドライバーは前に停車しているトラックを追い越すことにしたんだ。トラックを通り過ぎた時、僕は『あっ』と声を出したよ。大型トラックの運転手が道に布団を敷いて寝ていたんだよ。それも1台や2台じゃない。10台から15台くらい連なって停車してて、その運転手達がみな道で布団にくるまっていたんだよ。」 「へえー!そりゃすごい光景やな。」
池上君が唸った。
「ゴルムドからラサに向かうトラックだったんだろうね。長い道のりだからじゅうぶん寝ないと体が持たないんだろうね。」
トーマスはしみじみ言ったが、すぐに眉間に皺を寄せた。
「トラックを追い越したところで僕らのドライバーが言ったんだ。『もう少し走ったところで俺たちもあんなふうに野宿するぜ』って。」 「で、本当に野宿したんですか!?」
僕はつい大声を出した。
「いやいや、これはジョークだったんだ。一瞬本当かと思って体が凍ったよ。ドライバーは大笑いしながら『NO!NO!』って言ってくれたから助かったよ。それにしても中国人はすごい。車に布団を積んで道で寝る準備をしているんだからね。」
トーマスは感心するように息を吐き、また一口紅茶を飲んだ。僕らは過酷な旅をしてきたトーマスを讃えると、彼はマジになって照れた。
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テーマ:自作連載小説 - ジャンル:小説・文学
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