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青春の思い出?若気の至り?
中国大陸をほっつき歩いた旅記録です。
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中国放浪回顧録
中国放浪回顧録 その22

【桂林の営業マンに感謝②】

 桂林は観光地だけあって道沿いの至る所に土産物屋が並んでいる。土産物は山水画の掛け軸が目立つ。きっと大勢の人が買うのだろう。劉さんと私たちは町のメインストリート、中山路を北上しながら劉さんとおしゃべりをした。
 
 「日本語を勉強してどれぐらいですか。」
 「一年ぐらいです。」
 「へえ、たった一年でもうそんなにぺらぺら!」
 「いつも朝早く起きて勉強していますよ。ラジオ講座も聴いています。」
 「勉強家やね。」
 「あっ、これ、桂林の特産です。食べてみますか。」
 
劉さんは食料品店の入口においてある大きな瓶の中の物を指さした。シロップのような液体に、竹ひごに刺さった丸くて白い物が漬かっている。何かな?

 「馬蹄(クワイ)です。日本にありますか。」

 あるけれど、せいぜいお正月に食べるぐらいだ。串刺し状のクワイはうすら甘くて結構イケる。私たちが喜んで食べると、劉さんもえらくご機嫌になって

 「私の姉の店へ行きましょう。」

と、お姉さんが経営する食堂へ連れて行ってくれた。そこは劉さんの友達の溜まり場になっていて、私たちを日本人と認識するや友も日本語で話してくるのだった。彼らもやはりガイドであった。彼らは皆日本語を勉強して旅行業に従事していた。桂林市内のホテルの旅行カウンターで観光案内をしたり、日本の団体ツアー客の添乗員として通訳をしたり、という具合である。なるほど、日本語ができれば観光地の桂林では仕事にありつけるのだ。

 シャンペンと私は桂林にいる間、劉さんや彼の友達にずいぶんお世話になった。観光馬車に乗せてもらったり、芦笛岩という鍾乳洞に連れて行ってもらったり、喫茶店でお茶をご馳走になったり。しかし、いくら劉さんが日本語の勉強のためだと言っても、世話になりっぱなしってのは心苦しい。それに一緒にいると、お互い気を遣うんじゃないか。

 「妹さん(なぜか劉さんは我々をこう呼んだ)、桂林にいる間は私が案内しますよ。もちろんお金はいりません。わからないことがあったら、何でも私に言ってください。」
 
劉さんたちは私たちと行動したがったが、時々ガイドなしのお気楽さを求めて、シャンペンと私は劉さんには内緒で市内観光をした。正確に言うと劉さんから逃げたのだ。過剰なサービスを受けるのは辛い。そんなこともあって自分たちで昆明へ行く切符を手に入れようと駅の切符売り場へ行ってトライする。桂林から昆明までは列車でおよそ32時間だ。当然寝台券がほしい。しかし、桂林は交通の便があまりよくない所に位置している。昆明へ行く列車は一日一本しか運行しておらず、それは上海から来る列車だから桂林は途中駅だ。故にますます切符は買いにくい。私たちはいろいろ手を尽くしてみたが、結果は“寝台券は没有(ない) ”だった。

 「どうしても明日、昆明へ行かなきゃならないの。友達が待ってるんです。」

と、芝居を打ってみたが、

 「それなら硬座で行きなさい。」

 駅の切符売りは首を振る。あああ、硬座で32時間はキツイ。発狂するかもしれない。では、飛行機ではどうだろうか。中国民航の返答は

 「五日後じゃなければ空席はありません。」

だった。我々の選ぶ道は二つ。もうしばらく桂林に留まり確実に寝台券を手に入れるか、硬座で昆明に行くかだ。硬座はイヤだ。しかし、桂林でぶらぶら時間つぶしをするのはもっとイヤだった。しゃあないっ。硬座に乗って狂ってやる!覚悟を決めて泣く泣く硬座の切符を買った。あーあ、今思えば、あの案内業の男の人が切符の手配をしようと言ってくれたのは、親切心からなのかもしれなかったな。交通の便が悪い桂林ということをしっかり頭に入れて、早めに票(切符)取りの行動を起こしておくべきだった。後悔先に立たず、32時間の硬座での長旅を考えると、シャンペンも私も憂鬱になるのだった。

 「妹さん、どうしたんですか。」

 この日の夕方訪ねてきた劉さんは、私たちの浮かない表情に気づいた。事の次第を告げると、劉さんは笑った。

 「それなら早く私に言ってくれたらよかったのに。うーん、でも大丈夫です。寝台券はあります。任せてください。」
 
 自信を持って言い切ったけど、劉さん、ほんんとうに大丈夫?ないはずの寝台券があるって言うの?次の日の朝、私たちは劉さんに連れられて、駅前広場にやって来た。
 
 「もうすぐ私の友達が来ます。」
 
 劉さんの言葉通り、しばらく待つと一人の体格のいい、サングラスをかけた男がこちらの方へ歩いてきて、我々の前でピタッと止まった。男と劉さんは桂林の言葉で何やら話していたが、やがてサングラスの男は駅の構内へ入っていった。
 
 「今、彼は寝台券があるかどうか調べています。」
 
 劉さんが通訳してくれた。5分ほどして男が戻ってくると、何やら言った。
 
 「今日の分はありませんが、明日の軟臥(一等寝台)ならあります。ただし、外国人料金です。」
 
 我々は一も二もなくOKした。外国人なんだから規則通りにお金を払うのは当然だ。硬座で行くよりいいに決まっている。私たちは軟臥(一等寝台)の料金と、買ってしまった硬座の切符をサングラスの彼に渡した。退票(払い戻し)をするためだ。切符を払い戻すにも、本当ならそれ専用の窓口で並ばなければならない。“退票”と示された窓口には、やはり大勢の人が並んでいる。長蛇の列ももう見慣れた光景だ。が、サングラスの彼は列の後ろには並ばない。直接“退票”窓口のドアを開けて入っていった。それから自分でポン、ポン、ポンとはんこを押し出てくると、今度は新しく軟臥(一等寝台)の切符を我々に手渡してくれた。
 
 そう、彼の父親は鉄道関係者だったのだ。中国は自分または家族の職場の権利をフルに活用するという、まさにコネ社会だ。人口の多いこの国で、いかにうまく、いかにスムーズに行動するかは、こういうコネをどれだけ持っているかにかかっている。もしくは、コネでもって口を利いてくれるような人をどれだけ知っているかだ。私たちの場合、顔が広くてなかなかやり手の劉さんと知り合えたから、ナマの中国を体験できたと言える。どこの世界でもコネはあるが、中国ほどそれがはっきり表れている国はない。私は切符を見つめた。ないはずの物が出てくるなんてね。地道にやれば、切符を買うことも払い戻すことも相当時間がかかるところ、コネがあればあっという間だ。まるで手品。それは硬座の地獄から一瞬にして私たちを救ってくれたありがたい手品であった。劉さんとサングラスの彼に大感謝し、かたじけなく思ったが、それ以上に中国の実社会を垣間見た驚きでいっぱいになる。
 
 翌日、私たちは桂林を去った。劉さんと劉さんの友達がわざわざプラットホームまで見送りに来てくれた。シャンペンと私は何度もお礼を言って、一等寝台のコンパートメントから手を振った。バイバイ劉さん、バイバイ桂林。
 
 列車に乗ったところで要約する。桂林は旅行者を自由にしてくれない町だった。案内業やガイドなどの営業マンがお客様にぴったり寄り添い、サービスを提供するからである。ええい、好きにさせてくれ、心苦しいんだ、いや、本音を言えばうっとうしい。だが、このサービスをすべて拒むなかれ。しつこいおもてなしはお客様のためを思ってという場合だってある。そしてそのサービスに助けられ、感謝することだってあるのだ。案内業の人やガイドさんと話をすれば、また違った中国が見えてくるなり。桂林では景色を楽しむだけではなく、景色を宣伝する桂林の営業マンと語らうといっそうおもしろくなるのではないだろうか。   

(1987年6月)

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中国放浪回顧録
中国放浪回顧録 その21

【桂林の営業マンに感謝①】

 シャンペンと私は早朝の桂林駅に降り立った。中国の観光地として有名なこの町にとうとう来てしまった。小雨というあいにくの天気だが、ほら、不思議な形の山が見える。テレビや本でしか見たことのなかった、凹凸のはっきりした山々が、今実際に自分の目の前に姿を現し、『よく来たね』と我々を迎えてくれているようだ。やったぁ、万歳!桂林到了(桂林に着いた)!

 駅を出たところで私たちは立ち止まった。さぁて、どこのホテルに泊まろうかな。

 「陰山飯店がここから近いみたいやね。」
 「うん、トライしてみよ。」 

 相談がまとまり、まさに歩き出そうとした時だった。さきほどから2,3メートル離れて私たちの様子を窺っていた若い男の人がツカツカと近寄って来ると、

 「陰山飯店ですか。こちらです。」

と、案内役のように先に立って歩いていく。ちょっと、ちょっと、あんたはいったい何者?別に教えてもらわなくても平気だってば。ホテルぐらい地図を見たらわかる。変なヤツ。シャンペンも私も男を無視して歩く。だが、そいつは得意そうにこちらこちらと手招きしながら、小走りで私たちの前を行く。まったく、お節介なヤツ。

 陰山飯店のフロントの前まで来ると、その男は私たちより先に服務員と交渉していた。そして、私たちの方を振り返り、

 「32元のツインルームしかないそうです。」

と言った。私は彼には取り合わず、服務員に訊いた。

 「ドミトリーはありますか。」
 「ありますよ。一人一泊8元です。」

 ほーら、みろ。ちゃんとドミトリーがあるんやないの。あんたなんかに騙されへんわ。我々はヤツをにらみつけた。しかし男はひるむどころか、顔色ひとつ変えず、

 「ドミトリーはこちらです。」

と、階段を上っていく。いったいどういうつもりだ、このホテルの従業員でもないくせに。私たちは不愉快だったが、結局男の後について部屋まで行く格好となった。ドミトリーは6人部屋だった。はっきり言ってきれいな部屋ではない。日当たりがあまりよくないせいか、どことなく湿っぽくて暗い。が、そんなことなどどうでもいいわ。ああ、しんどかった。どっこらしょ。我々は荷物を置いた。なにしろ長沙から夜行列車で硬座に乗ってきたもんだから、夕べはほとんど眠れなかった。全身がだるく、今はベッドにどさっと身を投げ出したい気分だ。けれどもこの変な男がまだ立ち去ろうとしない。それどころか、

 「灕江下りはいつしますか。」

と訊いてくる。あさっての予定だと答えると、

 「では、そのチケットを買いに行きましょう。」

とくる。ちょっと待ってよ、なんでそんなにお節介を焼くんだ。

 「あのね、私たち、ここに着いたばっかりなんだから、休憩ぐらいさせて。」

 私は部屋に備え付けてあった湯呑みにお茶をついで言った。男は我々が落ち着くまで側でしばらくおとなしくしていたが、やがて待ちきれないように訊いてきた。

 「桂林の次はどこへ行きますか。」

昆明だと答えると、すかさず、

 「いつ行きますか。列車で行きますか。飛行機で行きますか。切符を取っておきましょう。」 

と、まくしたてる。もおっ、いい加減にしてよ!人がいつどういう手段で昆明へ行こうと、あんたには関係ないでしょ!なんでいちいち見知らぬヤツからこんなこと言われなければならないのか。わかりませんと返事をしたら、男は仕方なさそうにうなずいた。が、気を取り直すように、

 「さあ、では灕江下りのチケットを買いに行きましょう。」

と元気よく言い放ち、さっさと部屋から出た。灕江下りというのは、桂林を流れる灕江を、遊覧船に乗って両岸の奇峰の連なりを眺めながら下っていくというもので、桂林観光のハイライトと言われている。もちろん桂林の名勝を堪能する目的でここへやって来たのだから、遊覧船には乗りたい。それで我々は男について行った。

 ホテルから5分ほど行ったところに旅行案内所があった。男はここであさっての分のチケットをリクエストし、これがすんなりと買えてしまった。

 「では、あさっての朝、私はあなた方を迎えに来ます。その時また会いましょう。」

 男は手を振ると、走り去っていった。ははーん、そうか。彼は旅行客に灕江下りのチケットや、ホテルや乗り物の手配をすることによって、どこからかコミッションをもらっているのだろう。観光地ならではの商売である。なるほど、システムとしては便利かもしれないが、まずは自分の力でやってみたい私たちのような旅人にとってはあんまり歓迎できないな。ま、でも、ホテルも無事にチェックインできたし、灕江下りのチケットも買えたし、やれやれということで、今日のところは許してやるか。

 こういった旅行者案内業をしている人は、彼だけではなく、この町に大勢いるようだ。陰山飯店に戻ると、フロントの横にカウンターが設けられていた。あれっ、さっき来た時はなかったのにな。

 「灕江下りのチケット、もう買いましたか。」

 カウンターの服務員が流暢な日本語で話しかけてきた。悪いね、今買ったところ。

 「ああ、そうですかぁ。」 

 服務員はひどく残念そうだ。
 部屋に戻るべく階段を上がっていくと、上から降りてきた服務員とすれ違った。

 「灕江下りしましたか。」

 服務員はにこやかに訊く。いやはや。どうやら桂林では観光客と見ればみんなが営業マンになって、“灕江下りのチケット買いましたか”、“灕江下りはしましたか”と、話しかけてくるようだ。そりゃ、観光地なんだから町をあげて灕江下りを宣伝するのはよくわかるが、ファーストフード店の店員が“ポテトはいかがですか”と言うのと同じように、マニュアル化されているのかと思うほどだ。旅行カウンター同士がライバル意識を燃やし、お客の争奪戦をやっている。ぼやっとしていたら桂林の人たちの激しい営業攻撃にあってしまうのだ。挨拶代わりなんだろうけど、なんだか変なの。

 また、日本人観光客も数多くやって来るため、桂林にはやたら日本語のうまいガイドがいる。我らのホテルのカウンターに座っている劉さんもそうだった。日本語がてきるヤツは日本人に近づいてくるというわけで、劉さんは町を案内したいと我々に申し出た。ガイドは不要とお断りしたが、

 「いえ、私は日本語を勉強しているので、あなたたちと話したいのです。」

と営業ではない様子。会話の練習相手ならなってあげるとするか。シャンペンと私は劉さんについて町に出た。

【桂林の営業マンに感謝②】につづく

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中国放浪回顧録
中国放浪回顧録 その20

【ウーヤン河でランデブー?】

 貴州省は雨が多い。貴州を旅した11日の間、雨に降られたのは8日。そんなわけで鎮遠という町に着いた時も雨であった。雨の日の移動というのはほんに厄介である。リュックは濡れるし足元はぐちょぐちょ。ズボンに跳ねをあげながらぬかるみ道を歩いていって、下半身ドロドロのままホテルにチェックイン。ああ、やれやれ。ほっとしたらおなかがすいた。ホテル内のレストランで昼食を取り、サラサラパッパとご飯をかき込み、ハイ、ごちそうさま。部屋に入り、ふーっと大きく息をつく。

 するとトントンとノックの音。んもおっ!人がせっかく休もうと思っている時に、誰じゃ!何の用じゃ!バァーン!!激しくドアを開けると若い男が立っていた。おや、さっきレストランで同じテーブルに座っていた人だ。

 「あ、あのう・・・よかったら、ちょっとお話ししたいんだけど・・・・・」

 遠慮がちなものの言い方にこちらの態度もちと緩んだ。私は後ろ手にドアを閉めて廊下に出た。

 青年は23歳、広西チワン族自治区の人で範さんといった。中国ではよくありがちなのだが、範さんも香水をふりまいたようないい匂いのする名刺を持っていて、一枚私にくれた。その名刺によると、養殖用の魚の餌を扱う仕事をしているらしい。彼は商談のために鎮遠に来たのだが、待ち人来ずでもんもんとホテルに滞在しているところだった。それに知っている人のいない鎮遠に一人でいることがよっぽど寂しかったのだろう、誰かと話したいがために声をかけてきたのだ。すっぽかしを食らい、範さんはしばらく沈んでいたが、

 「もういいや、しょうがない、諦めた。僕は明日でも帰るよ。」

と、首を振って吹っ切ろうとした。

 「じゃ、一緒にウーヤン河下りしません?」

 へへーっ、大胆にも誘ってしまった!だってねぇ、一人で河下りするのはちょっと自信がなかったんだもん。悪い人じゃなさそうだし、範さんもこれで元気になるかも。

 ・・・・・というわけで次の日、この町を流れるウーヤン河を遊覧船で下るツアーに参加。残念ながら朝から小雨というあいにくの天気だ。しかし悪天候ゆえにもやがかかり、あたりはぼうっと霞んで見えて、むしろ河は美しい怪しさに包まれている。うむ、なかなかミステリアスではないか。風情があるというのはこういうことを言うのかな。雨に感謝せねば。

 河下りというと中国では長江下りや桂林のリージャン下りなどが有名である。が、ウーヤン河のそれはよっぽど中国通の人でない限り知らないほどで、規模も決して大きいものではない。けれども私にとってはイキな船旅の始まりに感じられた。河の水は深みのあるグリーンだ。奥行きのあるくすんだ緑色は翡翠を想像させる。緩やかに波打つ神秘の水郷を分かつように船がゆっくり進んでいく様はロマンチックでさえある。適度な肌寒さも旅情に浸るにはふさわしく思えた。それに横には範さん、つまり若い男もいる。私たち二人はほかのお客さんたちとは少し離れて後ろの方に座っているのだ。あらっ、これってまるでデートじゃない。儲けたようなこの気分は何だ?ムフフと含み笑いを押し殺し、照れ隠しに川面へ目をやる。鈍い乱反射を放つ水面を見つめてうっとり。このままずっと静かに景色を眺めていたい。そう思った時である。      

 「みなさまぁ~、ウーヤン河下りの遊覧船にご乗船くださいましてありがとうございま~す。さて、本日私がウーヤン河下りのご案内をつとめさせていただきまぁ~す。」

 拡声器を通したキンキンに高い声が私の幻想的な世界を打ち砕いた。声の主は客席前方でにこにこ笑顔をふりまき、体操のお姉さんのごとき明朗さを押し出している妙齢の女性である。快活そうなショートカットで、くりくりっとした丸い目が印象的だ。お客さんたちは一斉に手をたたいた。私も夢心地気分を一時返上し、みんなよりやや遅れて拍手した。

 彼女は拡声器をぴったりと口につけ、必死になって解説を始めた。河を挟む山が角度によってどう見えるかなどを詳しく説明し、みんなにウーヤンの景色の素晴らしさについて訴えている。が、船に乗っているお客たちは彼女の一生懸命な話を適当に聞いているようで、反応らしい反応はない。隣の範さんも

 「桂林のリージャンのほうがすごいよ。こんな河、別にたいしたことはない。そうおもしろくもないさ。」

 なーんて冷めたもんだ。ほかのお客も景色にはそんなに興味がないらしく、自分たちのおしゃべりに夢中になっている。なんだか彼女がかわいそう。そのうち前の方に座っている客が

「説明はもういいからさ、歌でも歌ってちょうだいや。」

などと解説嬢にリクエスト。戸惑いながらも健気な彼女は拡声器をマイク代わりにし、民謡を一曲披露した。すると、乗客たちから大きな拍手がわきおこった。アンコールの声に解説嬢は歌姫に変わり、もう一曲ご披露。美しい歌声に“ハオ!”とかけ声がかかる。歌い終わったお姉さん、おじぎをした後ちらっと私のほうを見て、

 「今日は外国のお客様もお越しです。さ、あの女の子に日本の歌を歌っていただきましょう。」

と、手招きをした。えっ!な、な、なんだってぇ~。ちょ、ちょっと待ってよ。そんなそんなと思う私の気持ちなどよそに、ノリのいい乗客たちは拍手するし、範さんも

 「みんな待ってるよ。歌っておいでよ。」

と背中を押す。頭をかきかき座席の前に進み出て、解説嬢から拡声器を渡された。やっぱりこれを使って歌うのね。生まれて初めて拡声器をマイクにし、皆さんの前で『さくらさくら』を歌った。

 「ハオ!ハオ!いいぞっ!」

 割れんばかりの拍手だ。そうだろそうだろ、小学校の時明舞児童合唱団で鍛えた喉なのだ。いやあ、そうほめられると照れるな。乗せられるともう止まらなくなる。結局3曲もメドレーで日本の童謡を歌ってしまったではないか。

 範さんと私以外のお客は侗(トン)族のお医者さん、看護婦さんという病院勤務の方々の慰安旅行チームであった。明るく楽しい皆さんは歌の次は踊りだとばかりに

 「よっしゃ、今度は上へ行こう。」

と2階の小さなデッキに我々をを誘った。もちろん解説嬢も私もお医者さんグループに促され、気がついたら輪になって手をつなぎ、フォークダンスまがいのダンスに参加していた。しかしこれが結構楽しい。私は範さんそっちのけで侗(トン)族の病院チームと大フィーバー。

 最初のあのロマンチックムードはどこへやら。本当は若い男をお供に、ランデブーとかアバンチュールとかいった雰囲気に浸る計画は、もろくもはかなくも崩れてしもうた。あま~いムード展開のはずだったのに、なんで私ったら盆踊りなんぞ踊っとるのでしょうか。
ろくに周りの景色など見ず、いったい何をしとるのでしょうか。しらっとした顔で見ている範さんと、ノリまくって踊るお医者さんチーム&解説嬢&私はあまりにも対照的だった。

 その後、範さんとどうなったかって?・・・・・ほっといてください・・・・・・男なんて星の数ほどいますもの。それより楽しい旅をするのが一番よ!  

(1990年5月)

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中国放浪回顧録
中国放浪回顧録 その19

【春節の宿探し】

 中国人民が最も大切にしている行事といえば、旧正月の春節である。日本でも正月というと、普段とは違って特別な雰囲気があるが、中国の正月もしかり。新年は爆竹の大音響とともににぎやかに華々しく明けて、人々は『新年快楽!』、『新年好!』と口々に叫び、花火を打ち上げ、一家揃って餃子を食べ、新しい年を迎えるのである。

 中国人民にとって楽しい嬉しい春節も、外国の旅人にとっては何も特別ではない。ホテルに泊まって、ご飯を食べて、町を見て歩いてという生活のバックパッカーは、正月だからといってお年玉を用意する必要もなく、神社仏閣に初詣に出かける義務もなく、おせち料理を重箱から取り分けなくちゃなんて心配も無用である。また、正月だから旅の方にも祝い酒をどうぞとか、外人料金を免除いたしましょうなんてこともない。いや、それどころか春節はかえって旅行者にとっては不便極まりない時期なのである。

 私は春節の朝を上海はバックパッカーの溜まり場、浦江飯店で迎えた。こんな日に移動するのはよくないなとは思ったが、いつまでも上海にいるわけにもいかない。6時前に起床し、暗がりの中、服務員のお姉さんを起こした。早朝チェックアウトは不機嫌な服務員を更に不機嫌にしてしまう。許せよ、お姉さん、杭州行きの列車は朝出発なのだ。そう、私は旧正月の日に杭州を目指したのである。

 杭州駅に降り立ったのはお昼であった。春節の宿探しは大変だという噂を聞いているから、ちょっと不安になる。ふうーっと深呼吸をし、気合いを入れて、さあ、出発だ。まずはガイドブックに安宿と紹介されている浙江賓館へ。市バスに乗って辿り着いたが、門が閉まっている。人っ子一人おらず、しぃ~んと静まり返っており様子がおかしい。でも、誰かいるはずだ。私は鉄の門の柵をゆさゆさ揺すぶって、誰かいませんかぁ~、と叫んだ。すると、どこからか門番らしきおじさんがすっ飛んできた。

 「向こう四日間はお休みだよ。従業員もみんな正月休みなんだ。」

 ガーン、なんてこった。正月だからってホテルまで休みにするとはね。なるほど、これがバックパッカー泣かせの春節か。いやぁ、まいった、まいった。などと余裕をかましている場合ではない。早いところ他を当たらねば。ふむ、何としようか。門番みたいなおじさんは、私が困っているのを見かねて、

 「他のホテルに電話して聞いてあげよう。」

と、少し離れた宿直室に連れていってくれた。おじさんはどこかのホテルに電話を入れて、部屋があるかどうか調べた。

 「黄龍飯店が空いているよ。一泊90元だそうだけど。」

すまんが私は貧乏旅行者だ。そんなリッチなホテルには泊まれない。おじさんの親切に丁寧にお礼を言って、浙江賓館を後にした。

 こういう時は大学の招待所に泊めてもらうっていう手があるのだが、とりあえずもう一軒安宿にトライしてみよう。地図を頼りに浙江賓館から歩くこと30分、西湖のほとりにあるホテルに着いた。しかし、予想通りここも休業中だった。春節の間、安宿は全部閉まるのだろう。しょうがない、やっぱり大学へ行ってみよう。その前にちょっとおなかがすいてきたから腹ごしらえでもしたい。リュックも下ろして少し休みたいし。どこかに食堂はないかと探してみるが、やはり春節のためお店もお休みになっている。普段だったらスナックや軽食が通りにあふれている中国の町なのに、春節になるとそれらは一斉に姿を消す。営業しているのは、せいぜいが果物を売っている露店ぐらいだ。果物なんてヤワい物より私はちゃんとした飯を食いたい。どうしてもなければリンゴでも買ってかじるとしよう。

 さて、安宿が没有開放(やっていない)なら、杭州大学の招待所を訪ねてみるとするか。その途中でどこか飯屋が開いていたらいいんだけれど。再び歩き出す。が、浙江賓館で出鼻をくじかれたためか、どうもしゃきっとしない。

 杭州大学へは歩いていけるような距離ではなかった。バスに乗らなきゃ日が暮れる。バス停を探してうろうろしていると、わーい、ラッキー、ようやく小さな食堂みーつけた。躍り上がって駆け込み、蒸し餃子を5両(1両は約50グラムだから、250グラム分の餃子)注文した。餃子はすぐに蒸しあがり、大皿に盛られほかほか湯気をたてながら運ばれてきた。空腹の極致にきていた私は知っている人がいないのをいいことに、恥も外分もなくガツガツ蒸し餃子を頬張った。相席になった老夫婦は私の食べっぷりにびっくりしたのか、

 「この子はよっぽどおなかがすいているんだね。」
 「ずいぶんな量だよ。」

と、ひそひそ話している。さすがに恥ずかしくなって食べるペースを落としたが、餃子は残さずきれいにたいらげた。おなかが一杯になったら、体力も回復してきたぞ。それっ、杭州大学目指してがんばろう。しかし、地図をよく見てみると杭州大学までは市バス一本では行けない。乗り換えが必要だ。荷物がなければ中国のめちゃ混みバスに乗るのもそんなに苦にならないが、でっかいリュックを背負って何度もバスに乗るのは自分もしんどいし、他の乗客の迷惑にもなる。ま、でも、宿にありつけるまでは仕方ないのだ、根性で乗るしかない。

 バス停には大勢の人がバスを待っていた。私もその中に混じって素早く乗り込む覚悟を決める。

 「あんた、どうしたの。こんなに荷物を背負って。」
 「いったいどこへ行くの。」

 リュック姿が異様に映ったのか、バスを待っている善良な杭州市民が訊いた。が、誰も私が日本から来た旅行者だとは気がつかない様子である。どっかの田舎から出てきた小娘が、正月早々家出でもするのかと思ったのだろうか。皆さん、やけに心配している。本当のことを話すと、バス停にどよめきが起こった。

 「へ~え、あんたのこと、てっきり中国人だと思ったよ。日本人と中国人って似てるんだね。」
 「春節の間は商店もお休みだからね。ホテルも開いてないところもあるのさ。」
 「杭州大学だったらこのバスだけでは着かないよ。乗り換えないとね。」

 バス停の人々は驚いたり、感心したり、大学までの行き方を教えてくれたりと、大騒ぎになった。私を取り囲み、みんなでなんだかんだとおしゃべりをしているうちにバスがやってきた。

 「日本のお嬢ちゃん、早く乗りなさい。」

 中国で乗車を譲られるなんて、後にも先にもないことだった。相変わらずぎゅうぎゅう詰めの状態だったが、優しい杭州市民の皆さんのおかげで私は労せずバスに乗り、無事に杭州大学に到着したのである。

 大学の中に入っていこうとすると、門番のおじいさんに止められた。

 「あんた、何者じゃ。」
 「今、春節でホテルはどこもお休みなんです。どうか招待所に泊めてください。」

 私はおじいさんにすがった。おじいさんは最初驚いたように私の頭のてっぺんから足の先までじろじろ見ていたが、クスッと笑って首を縦に振った。

 「奥に留学生宿舎があるから、そこで訊いてみなさい。あんたの泊まるところぐらいあるじゃろう。」

 おじいさんは私のあまりにも哀れな様に同情したのか、はたまたこの小娘は正月から何をやっとるのかとおかしくなったのか、とにかく正門を通してくれた。

 果たして私は留学生宿舎で宿泊を許された。杭州駅を降りてからすでに3時間以上が経過していた。部屋に案内されてようやく荷物を下ろしたが、長時間背負っていたのでまだ背中にリュックの感覚が残る。ふうう、くたびれた。春節受難を体験したが、親切な杭州の人々のおかげですさんだ気持ちにならなくてすんだ。そして私は知った。杭州の名物は西湖の景色や龍井茶畑だけではないのである。「杭州の人、おおきにね」とベッドに座って叫ぶ私であった。

(1990年1月)

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中国放浪回顧録
中国放浪回顧録 その18

【ラサ発ゴルムド行き徹夜バス】

 残念だけど今日でチベットを離れる。一週間という短い滞在期間だった。この後私は再びゴルムドへ行くためバスに乗るのだ。陸路でゴルムドからラサに来た旅人は、次にネパールへ抜けたり飛行機で成都へ飛んだりするものだが、またも標高4000~5000メートル級の山々を縫ってゴルムドへ引き返すなんて、あんたマゾかと言われようともなぜか戻らないではいられない。ゴルムドには何もないが、私はおもしろいと思うんだからいいでしょっと!

 ラサの朝は暗い。バスターミナルにも電気はぽつぽつとしかついていない。薄暗い中、懐中電灯の灯りを頼りに自分の乗るバスを探してみんな右往左往している。私の乗るバスはAM7:30発だ。もう時間がない。おいていかれてはたまらんので必死で探す。ところがゴルムド行きのバスはなんと出発間際の7:30にバスターミナルに姿を現した。なーんだ、あせっちゃったじゃない。何はともあれ、ちゃんと乗り込めたのたのだからひと安心。

 ところで青海省からラサにやってくる時のバスってえのはややこしくて大変だった。春に起きた暴動の影響で、外国人観光客がラサを訪れにくくなっており、一般の中国人が乗る公共バスでラサに入るのは許されてはいなかった。そのためラサへ行きたい外国人は、ゴルムドのCITS(中国国際旅行社)でバスをチャーターせねばならなかった。このチャーター料は集まった乗客の人数によって違うのだが、私の参加したグループは英国人二人、美国人(アメリカ人)5人、日本人3人の計10人で、一人409元をFEC(兌換券)で支払った。公共バスを利用すればずっと安いはずなのに、こういうシステムを作るとは、安全性を名目に、外貨を稼ぐため公安局とCITSがつるんでいるんじゃないかという憶測が飛び交った。もしも外国人観光客がCITSを通さずに公共バスでラサへ行こうとすると、途中の検問チェックの際運悪く見つかったなら、多額の罰金を徴収された上、ゴルムドへ連れ戻されてしまうらしい。確実にラサへ行きたければ、やはり我々外国人はゴルムドのCITSに頼らざるをえなかったのである。

 ところがラサを出る時というのは非常に簡単で、公共バスを利用してもよいのだった。しかも人民元での支払いOKの46元。来る時の料金の1/10とはようわからん。それでもってゴルムド→ラサの外人専用チャーターバスは2泊3日を費やしたのに引き替え、ラサ→ゴルムドの公共バスは24時間ほどで着くという。ほんまにようわからん。

 さて、日のまだ出ないラサの朝は寒く、バスの発車を待っている間じゅう座席でガタガタ震えていた。哀れな私に隣のおじいさんがこれであったまれとお湯をくれた。そうこうしているうちにバスは出発。夜を徹して走るノンストップバスの旅の始まり始まり。バスは満員御礼で空席はなかった。はじめのうちは寒かったのだが、乗客たちの体温でなのか次第に寒さも薄らいでいった。人口密度の高さがなせるワザだ。やがて太陽が昇ってあたりが明るくなり、ようやくバスの中の様子がはっきり見てとれるようになった。なんと乗客はほとんどが解放軍のお兄さんたちで、例の深緑色の軍服が座席の大部分を占めていた。驚いたことに、女性は私を含めてたったの二人。

 運転手さんは飛ばしに飛ばし、豪快にハンドルを切る。スピードを出してバンバン走り、来る時には往生した激流の川も、亀裂の入った崩れかけの道のところもあっという間に渡ってしまった。だが、体はさほどきつく感じない。往路で味わった頭痛などの高山病の症状がまったく出なかったんだから、一週間のラサ滞在で私の体もすっかりチベット人になっちゃった。

 バスはほとんど休憩なしで突き進む。食事休憩もそこそこなのだから、ましてやトイレ休憩なんて一分程度。乗客は野郎ばかりってこともあり、トイレのある場所でなんて停めてはくれない。運転手は二人の女性客のことなどちっとも考えておらん。しょうがないので置き去りにされないよう運転手さんに一声かける。私ともう一人の女の子(どうも解放軍の兄ちゃんの恋人らしかった)は急いで囲いのようなところを見つけて身を隠し、おしっこするのも大変よね、と言いながら用を足す。が、

 「ちょっと、うちの庭で何してるの!やめてちょうだい!」

と叱られた。囲いは民家の庭先だったのだ。そんなこと言われたってもう出しちゃってるものは急には止められない。無礼極まりないこととは知りつつ、二人でごめんなさ~い、ごめんなさ~いと言いながら放尿する姿って情けないったらなかった。

 日が沈むとまただんだんと寒くなってきた。しかし思っていたほど凍えたりせず、ジージャンをはおっていて十分だった。バスの中は電気をつけていないので真っ暗だ。運転手さんは全然パワーダウンせず、まだまだガンガン飛ばす。中国の夜を徹して走るバスはたいていドライバーの交替要員が乗っているのだが、このバスはどうやら一人きりしかいないようだ。一人で24時間運転するっていうの?労働基準法なんかくそくらえ。佐川急便もびっくり、とても人間ワザとは思えない。でこぼこ道もかなりのスピードで走るもんだから、バスは激しくバウンドする。後ろの席の人はその度にポーンと浮き上がり、天井にゴツンと頭をぶつけては“アイヨー”と悲鳴を連発。これじゃぁ寝てられない。サバイバル気分満点のハードなバス移動だ。

 夜中の3時頃、突然バスが停まった。何もない道の真ん中でだ。

 「降りろー!みんな降りろっ。」

 運転手の命令で急に乗客は全員降ろされた。いったい何事?まさかこんな所でみんなでお泊まり?そんなアホなと思ったら、乗客を降ろした空っぽのバスは今まで走っていた道路をはずれて走り出した。目をこらしてよく見ると、周りはデコボコの荒野だ。舗装された道らしき道は一本しかなく、この道に大型トラックが何台もずらーっと駐車しており、我らがバスの行く手を阻んでいたのだった。もっとよく見ると、トラックの脇に布団を敷いてドライバーがグーグー眠っておるではないかっ。運転に疲れた彼らは道路の真ん中で堂々と本当にお泊まりしていたのだった。それで我々のバスはこのトラック野郎たちを踏みつぶさぬよう、道路をはずれて荒野を行こうとしたのだ。しかし客を乗せたままデコボコ道を走るのは大変なので、みんなを降ろして軽くしたってわけ。私たちはトラック野郎野宿軍団の列がとぎれるまで道の脇を歩き続けた。冷え切った夜の高地を歩くのはなかなかハードだ。速く歩くと息が切れる。日頃体を鍛えている解放軍たちはさっさと歩いていくが、私はゆっくりとしか歩けない。スピードを上げると体がしんどくなる。バスはトラックを全部追い越した地点で、またちゃんと道路に乗り上げ我々を待った。

 「おーい、早く乗れ!」

 運転手さんにせかされ、みんなバスに飛び乗った。私も一番最後に乗り込んだ。再び走り出した後はバスも順調に走り、乗客らは徐々にまどろみ、皆深い眠りに落ちていった。

 目が覚めたら朝の8時だった。バスはもうゴルムドの町に近づいていた。一人また一人と乗客が下車し、終点ゴルムド駅に着いたのは午前9時過ぎだった。屋根に積んでいたリュックを下ろし、運転手さんにバイバイと言ってゴルムド招待所を目指す。一週間ぶりに帰ってきた。招待所の近所の商店にはまだ一口サイズのようかんが売っているだろうか。

 「あーら、あんた帰ってきたの?」

 招待所に辿り着いたら顔なじみになった服務員さんが迎えてくれた。は~い、戻ってきましたよ、た・だ・い・ま・ゴルムド。

(1988年6月)

テーマ:エッセイ - ジャンル:小説・文学


中国放浪回顧録
中国放浪回顧録 その17

【ポタラ宮でイッキ飲み】

 せっかくラサに来たんだ、ポタラ宮に上ってやるぞ。そう心に決め、私は勇んでホテルを出た。ラサ滞在五日目のことである。町の中央にでで~んとそびえたつチベット仏教のシンボルポタラ宮は紺碧の空によく映えてまさに神々しく、誇らしげな風格でもって人々を見下ろしている。宮殿の入口へとのびる石段の下にたたずみ、しばしその姿を眺めてうっとり。私は感動で胸がいっぱいになった。おお、これぞ秘境チベットの都の城じゃ。ポタラ宮を拝むのをラサ訪問のテーマの一つとして掲げていたが、今その目的が達せられんとしている。ああ、なんて喜ばしいことか。じぃ~ん。すっかり自己陶酔に浸り、宮殿を見上げたままぼーっとしていた。ポタラの美しく荘厳な様を十分目に焼き付けてから、私は石段を踏みしめずんずん上っていった。

 が、次第に息苦しくなってくる。ここは海抜3650メートルのラサである。石段を上りきったら富士山のてっぺんとほとんど同じ高さになるだろう。そこを鼻歌まじりにガバガバ駆け上がったりしたのはお馬鹿さんであった。フンフンいってた息がぜェぜェに変わり、やがてすーひーはーひーと肩を上下させるほどになった。それでも病みあがりの体にムチ打って、這うように一段一段足を運ぶ。たまたま一緒になったチベット人のおばちゃんに引っ張り上げられるようにして入口に辿り着いた時には、さっきのじぃ~んはどこかに吹き飛んでいた。やれやれ、どうにかやって来たわい。上空をそよぐ風に吹かれながら呼吸を整える。よーし、中に入るぞっ。

 「あんたどこの人?」

 切符売りのおじさんにじろりとにらまれ立ち止まる。ここで日本人だよ~んなんて言ったら、法外な外国人料金を取り立てられるに違いない。

 「か、か、広東人です。」
 「ふん、よし行け。」

 切符を買って入ったものの、入場料のシステムがどうなっているのか気になって入口のところから立ち去らずに観察していると、どうやら外賓(外国人)、香港・台湾同胞、内賓(大陸中国人)、チベット人というふうな区別があるようだった。もちろん外賓は最も高い料金を払わねばならず、チベット人はタダ、またはタダ同然のようであった。広東人と偽って入場した私もせこいが、人種別に細かく入場料金を定めているとはラサ観光局もせこいではないか。

 それでは見学を始めるとしよう。だが、気ままなひとり旅も時には不便を感ずることがある。宮殿の中に祭られている様々なものがいったいどんな意味を持つのか、何の説明もしてもらえないままただじーっと見ているしかない。こういう時だけツアーってのは羨ましいんだよな、なんて思っていると、おっ、うまい具合にツアー発見!更にいいことには日本人のお客じゃないのっ。旗を持ってお客さんを引率しているのは日本人の添乗員なり。よっしゃ、あのしっぽにくっついていって説明を聞くべ。ツツツとさりげなく近寄り、ツアーに混じる。添乗員さんの一生懸命な説明を聞いてほほーっと感心しているおいさんおばさんの脇に立ち、私もポイントをチェックする。

 ところが好奇心につられてあっちこっちさまよっているうちに、ツアー客の姿を見失ってしまった。時間が限られている彼らというのは見学も非常にすみやかだ。ああーん、皆さん、どこ行っちゃったんだ?キョロキョロしていると、誰か私に向かって手招きをしているのに気づいた。おや、誰かしら。よく見ると、それは地元民らしきお兄さんであった。若者のすぐ横にはラマ僧のおじいさんが腰をおろしている。えっ、私のこと呼んでるの?不思議に思って彼らに近づいていくと若者は言った。

 「君はどこの人?香港人?日本人?」
 「日本人よ。」
 「ちょっとお話しない?このお坊さんも君と話したがってるんだ。」

 若者は側にあった踏み台のような小さな椅子を勧めてくれた。こりゃおもしろそうだ。チベットの方々とじっくりお話できるなんて、めったにない機会じゃないの。

 若者はダンダーさんといった。彼はチベッタンだが中国語がペラペラ。しかし、お坊さんはチベット語しかわからないので、ダンダーさんが通訳してくれる。私の名前、年齢、どうして一人で旅行しているのかなど、お決まりの質問パターンが繰り広げられていくうち、ほかのラマ僧が二人、3人と話の輪の中に入ってきた。かくしてポタラ宮の片隅で座談会が始まった。はじめは私についての質問コーナーだったのが、次第に彼らはチベットのことについて訊ねだした。

 「あなたはラサが好き?」
 「チベット人のことをどう思う?」
 「チベットは今、中国の自治区になっているけど、このことについてどう思う?」
 「文化も習慣も違う漢人とチベット人が一緒に暮らしていることについてどう思う?」

 そういうことについてコメントを求められてもだね、私は中国とチベットの関係や歴史について詳しく研究したわけじゃないから困るのよね。確かに歴史をひもとけば、チベットは何度となく中国の支配に抵抗してきたことがわかる。しかも、独立運動を試みる度に鎮圧され、とうとうダライ・ラマがインドへ亡命するという事態に至った。現在の時点でチベットは中国の一部となっているが、これを支配されていると見なし、世界の多くの人々はチベットに同情を寄せている。中国との衝突によって大勢のチベット人が死んだことは事実であり、私も彼らの気持ちを察すれば同情せずにはおれない。ただ、生半可な情報だけで物事を語るなんてけしからんことだし、旅行で来ているってだけの遊び半分のようなちゃらんぽらんな私には、こんな敏感な問題についてたやすく述べる権利などあろうはずもない。本当なら、

 「あ、その件に関しましては後日またということで・・・あ、どうも・・・・」

なんてごまかしたいところだが、チベット人にずらっと囲まれている今の状況じゃ、非友好的な態度をとったり、そんなこと関心ないけんねーっとそっぽを向いたりなどできやしない。もし本心を口にしたら、私はポタラ宮引き回しの刑、もしくは張り付けの刑、もしくはチベットナイフでメッタ突きの刑に処されるやもしれぬ。なんたって相手は血の気の多いチベッタンなんだから。無惨な姿にならないためにも好印象を与えなきゃ。ささ、笑顔よ、笑って。お調子モンの私は持ち前の八方美人パワーを発揮。周りのムードに呑まれ、気がつけばチベット人へ深く同情する我を熱演し、チベットの分離独立に強く応援する旨熱弁をふるっていた。

 こうなるとチベット人側はすっかり私のことを気に入ってしまい、

 「よし、あんたはいい人だ。」

と、お坊さんにほめられる始末。ありゃあ、ちょっとやりすぎたかな。長居をするとますますつけあがってしまいそうだから、そろそろおいとましましょうか。だが、腰を浮かした私をダンダーさんが制したのだった。

 「僕たちみんなあんたのことが気に入った。それで友好の印にこれを一杯どうだろう。」

 ダンダーさんは脇に置いてあった大きな瓶を指さした。その中には七分目ぐらいまで白い液体が入っている。

 「これ、何ですか。」
 「酒だよ。」

 ダンダーさんはご飯茶碗ぐらいの大きさのどんぶりにひしゃくで酒をついでくれた。ラマ僧たちが飲みなさいというジェスチャーをする。一口飲んでみると、うすら甘くてほろずっぱい。お酒というより清涼飲料水の何とかドリンクという感じ。口の中にほんのり広がる鈍い酸味が心地よい。こりゃいけるぞ、グビグビ。あっという間に飲み干した勢いがこれまたウケてしまって、ダンダーさんは更にもう一杯ついでくれた。口当たりのよさについつい弾みがついて、二杯目も全部流し込む。君はいけるクチだななどとおだてられ、もう一杯、それまたもう一杯とお酌をしてもらい、気がついたら5杯も飲んでいた。

 「ひゃあ~、さすがにもう結構。」

 手を振って断る私をお坊さんたちはニコニコして見ている。

 「ポタラ宮、もう全部見たかい?案内してあげようか。」

 ダンダーさんの申し出を受け、お坊さんたちとお別れし、再び宮殿内の見学と相成った。しかし、いくら薄く感じたといっても5杯もお酒を飲んでしまったもんだから、なんだか体がふわふわする。せっかくダンダーさんが熱心に説明してくれても、言葉がほわーんとぼやけて聞こえる。やっぱり飲み過ぎちゃったかな。

 「もうそろそろ帰ります。」

 一通り見学してからダンダーさんにお別れを言った。

 「大丈夫?送ってあげようか。」

 いーえ、私は大丈夫ですよと見送りを丁重にお断りしたが、彼は心配して宮殿の下までついてきてくれた。なおも心配するダンダーさんだったが、酔ってない証拠を見せるためにも一人で帰ると宣言。北京路に出てからヤクホテルに着くまで、私はしゃんとした足取りで戻ったのだった。

 が、部屋に入るなりほっとしたのか、どっと疲れが出てしまった。ドサッとベッドに倒れ込んで仰向けになったとたん、あら、あら、あららっ、グルグル天井が回っとるではないか。ひゃあーっ、どうしたんだ?これは大変だ。いや、大変なのは私のほうだ。回っているのは私の目だったのだ。あーら、今頃になって酔いが回るなんて、私ってなんてテンポのずれた人間でしょ。とにかくそのままベッドの上に転がって、落ち着くまで休んだ。

 30分ほどたち、気分がよくなったのでツーリストのたむろする中庭に下りていくと、日本人の男性がいた。私はその人にポタラ宮であったことをみな話した。すると彼は眉間に皺を寄せ、叱るような口調で言った。

 「あのね、その酒はチャンといってチベットのどぶろくなんですよ。それを5杯も6杯も飲んだら酔うに決まってるじゃないですか。え、知らなかったんですか。それに、こんな高所で酒を飲み過ぎたら危ないんですよ。死んでしまうこともあるって聞きますし。大変なことになるかもしれませんから以後気をつけてください。」

 もう大変なことになっちゃったわよ。部屋が回るなんて生まれて初めての経験だったもの。まったく、この男性に言われるまでもなく図に乗りやすい自分の性格に恥じ入ったわけだが、ポタラ宮で飲んだどぶろくの味は忘れられないうまさであった。 

(1988年6月)

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中国放浪回顧録
中国放浪回顧録 その16

【ラサで病院行っちゃった】

 せっかく夢のラサに来たっていうのに、私のコンディションは絶不調であった。風邪気味だったにもかかわらず、ゴルムドから陸路でやってきたのだから無理がたたったのよね。ゴルムド→ラサのコースを行かれた方はご存じだろうが、ここは海抜4000~5000メートルの道が続く希薄な高度地帯で、夏でも雪が散らつくぐらい寒いのだ。そんな中、風邪をおして移動なんぞしたら大変なのはわかっておろうがと言われそうだが、私はおまぬけにもわかっていなかったのである。タングラ山で熱を出し、喉が切れるほど咳をして最低最悪の状態。めちゃくちゃになりつつも周囲の方々に助けられ、ラサに着いたというわけ。ヤクホテルに無事チェックインしたものの、私はベッドに横たわるしかなかった。

 二日ほどおとなしくしていても風邪はいっこうに治らない。それどころか、夕べ晩ご飯時に入ったレストランの扇風機の風が強かったのか、一時は引っ込んでいた熱がまた出てきたようだ。こりゃあいかん、ぶり返してしもうた。こうなったら病院へ行こう。ヤクホテルの服務員のお姉さんに、いい病院知りませんかと訊ねたら、人民病院を紹介してくれた。ゆっくりゆっくり歩いて30分ほどで病院に着いた。入口をくぐると正面の窓口にReceptionと書いてあった。英語で書いてあるところをみると、高山病になる外国人ツーリストが多いのかな。

 「あの、私、日本人なんですが・・・・風邪ひいたんです・・・・・」
 「まず2元いただきます。保健科というところへ行って問診してもらってください。」

 外国人だとわかったからか、とても丁寧に教えてくれた。普通ならこれが当たり前なのだが、中国で丁寧な対応を受けると嬉しくなる。保健科には白衣のお医者さんが二人いた。一人は漢族の先生、もう一人はチベット族の先生だった。二人のお医者さんはとても親切で、まず熱を計り、次に血圧を計ってくれた。

 「それじゃ次は血液検査をしましょう。」

 ドキッ。外国で血を採るなんて初めてのこと。不安がよぎる。

 「大丈夫ですよ。ちょっとですからね。さ、この人の後について行ってください。」

 ドクターの指示により、私は看護婦さんに連れられて検査室へ入った。

 「はい、右手を出して。」

 こんな事は日常茶飯事よとばかりの看護婦さんの事務的な声。びびっている私はツーテンポぐらい遅れてからそれに反応する。たじろぎながらもトレーナーをぐっとまくり上げて右手を突き出した。てっきり腕から採血すると思ったのだ。が、彼女は素早く私の手首をつかみ、手のひらから指にかけて湿った布でささっと拭いた。えっと思った瞬間、中指の腹にいきなり針をブスッと突き刺し、ぎゅうぎゅう搾るではないか。ひえぇぇぇぇっ!痛いというより驚きのほうが大きく、声も出なかった。血はプレパラートに載せられ、私の指先は何事もなかったかのようにぬぐわれた。ほんにあっという間の出来事だった。

 「はい、次はレントゲン。」

 また看護婦さんの後ろについて、今度は『透視室』へ入った。

 「お願いします。」

 びくびくしながら中へ入ると、 

 「やあ、こんにちは!君は日本人?さぁさぁどうぞ。」

 ハイテンションで迎えてくれたのはレントゲン室の先生であった。髪の毛はもじゃもじゃ、黒縁のめがねにちょびヒゲ。まるで宴会の時にふざけてかぶるお面のような顔をしたお兄ちゃんだ。  

 「あ、あの、私風邪をひいて・・・・・」
 「はいはい今調べるからねー。君は旅行で来たの?そっかぁ。ラサはどうだい?」

 楽しそうにペラペラしゃべること。あのー、早くレントゲン撮ってほしいんだけどな。

 「それじゃ、胸の写真を撮りまぁ~す。はいはいこの台の上に立ってね。」

 ひとしきりしゃべってからこう言い置き、彼は隣にあるガラス張りの部屋に入ってしまった。私は言われた通り台の上に立ち、抱きつくようにしてレントゲンの機械にくっついた。ん?でも、ちょっと待てよ。確かレントゲン撮る時ってボタンや金具のついたものを身につけてちゃいけないのよねぇ。ブラジャーのホックなんか大丈夫なのかなぁ。いや、やっぱり大丈夫じゃないよねぇ。それに撮影の時は息を止めておくんだっけ。いつ止めたらいいのよ、先生何も言わなかったぞ。どうしよどうしよと思っていたら、突然機械がガチャンガチャン音をたてて動き出した。な、なんだなんだ~、もしかして今撮ってるの?急いで息を止める。機械は右回り左回りと交互に何回か繰り返して動き、やがてピタッと止まった。

 「オーケーオーケー!」

 ちょびヒゲドクターがやたら明るい声をはりあげながら、ガラス張りの部屋から飛び出してきた。ほんまにこれでいいのかいな。

 「大丈夫。問題ナシ、異常ナシ、ノープロブレム!」

 ドクターは満面に笑みをたたえ、大袈裟に首と手を振った。笑うと余計にお面のように見えるから、吹き出してしまいそうになる。だけど、本当に大丈夫なんでしょうね。ドクターにお礼を言い、一抹の不安を残しつつレントゲン室を去らんとした時、

 「また何かあったらおいでねーっ。」

 ドクターは元気よく、友達感覚のノリでバイバイと手を振った。お気持ちは嬉しいんだけど、病院にはそう何度も来たくないってば。 

 次に薬をもらいに行った。中国の病院は何かする度にいちいちお金を払わなければいけないのか、レントゲンを撮るのも薬をもらうのも、先に一階の会計窓口でお金を払ってからじゃないと受け付けてくれない。食い逃げならぬ診てもらい逃げを防ぐためなのかもしれないが、行ったり来たりでえらい時間がかかった。またお金を払うのも結構長い時間並ばなければならなかった。うーっ、ちょっと面倒臭いぞ。

 ま、しかしようやく薬がもらえ、もう一度保健科へ行くようにと指示された。さきほどの二人のお医者さんは別の患者さんの問診をしていたが、私が入っていくと丁寧に薬の飲み方を説明してくれた。脈も調べ、さあこれでもうおしまい!と思ったら、

 「酸素吸入もしたほうがいいな。」

とドクター。別に高山病ってわけじゃないからいいですよと言ったが、

 「安心だからやっときましょう。」

と漢族の先生が私を椅子に座らせ、脇にあったムガスボンベのような大きなタンクをこちらに引き寄せた。タンクの上部には透明の長い管がついている。お医者さんは管の先っぽを私の右の鼻の穴にぐっと突っ込んだ。シューシュー空気が鼻に入ってくる。妙にくすぐったい。

 「そのままで。」

 こうなった以上、ドクターの指示通りにするしかない。鼻先から管を垂らしてボーッと座っている私は、しばらくの間保健科に入ってくる患者たちの注目の的となっていた。10分ほどたったろうか、やっと管をはずしてもいいとお許しが出た。

 「どうですか?ずいぶん楽になったでしょう。」

 そうかなあ。あんまり変わらんような気もするけど、気分的には楽になったから、私はこくんとうなずいた。

 「いいかい、君たち日本人や香港人はラサのような高い所には慣れていない。ゆっくりゆっくり歩きなさい。決して無理しちゃいかんよ。」

 二人のお医者さんから注意を受け、私はその日一日、もらった薬を飲んでおとなしくしていた。

 病院へ行った甲斐あってか翌日からぐんぐん回復し、食事ももりもり食べられるようになったし、元気に歩き回れるようにもなった。念願のポタラ宮にも上れたから、もう人民病院に足を向けて寝られない。病気になっちゃったら素直に病院へ行くに限る。健康体にはビールがうまいぜ。ラサのレストランにて強く納得した私であった。

(1988年6月)

テーマ:エッセイ - ジャンル:小説・文学


中国放浪回顧録
中国放浪回顧録 その15

【危険なバスコースにトライ】 

 甘粛省で注目されている名所といえばかの有名な敦煌である。が、甘粛省にはほかにも素晴らしい所がたくさんあるのだ。近頃にわかに注目を集めるようになった町・・・・それは『行ってみたい甘粛省の町ベストテン』の一位を3年連続して勝ち取っている人気スポット、夏河というチベット圏の町なのだ。行ったことのある人は、ふむ、なるほどやっぱりそうか、確かにあの町はいい所だったぞ、とうなずいておられよう。夏河なんて知らんなぁという人は、今すぐ中国の地図を広げて確認してみよう。ほ~ら、あったでしょっと。四川省との境目に近い山間の町だ。ところで『行ってみたい甘粛省の町ベストテン』の今年の2位以下はどこかって?こんなアンケートあるわけないんで、勝手に想像してくだされ。

 さて、夏河へのルートは今までなら省都の蘭州からバスに乗ると相場が決まっていた。ところが最近、外国人旅行者は蘭州から夏河や臨夏方面へのバスには乗ってはならないという噂が流れ出した。なーに、噂は噂だわいとたかをくくっていたが、どうやらこれは本当らしい。なんでも以前、アメリカ人を乗せた蘭州発夏河方面行きのバスが途中で横転し、乗客は死亡。その結果、甘粛省長距離バス公司は賠償責任をとらされた。中国人の場合そんなに賠償額は高くはないが、外国人となると多額になる。そこで公司は考えた。もしもこれからもこういう事故が起こったらどうなるか。外国人観光客は近年、臨夏やら夏河に興味を持っているらしく、よくこのバスルートを利用している。外国人の乗客が増えれば万が一の場合、賠償金をたくさん払わなければならない。こりゃあ、かなわん。じゃ、どうするか?それならいっそ外国人なんていうややこしいやつは乗せないでおこうか。うん、それがいい、それがいい。と、まぁ、聞いたところではこういうことらしい。

 確かに以前から蘭州発の夏河方面行きバスについては、切符を購入する際に必ず保険に入らなければならないなどいう話も聞いていたし、よっぽど危険なバスルートなんだろう。こんなコースは避けた方が賢明だ。昔の人はいいことを言っていた。君子危うきに近寄らず。そこで君子は他の旅行者に訊ねた。蘭州からバスで夏河へ行けぬとなると、いかなる方法があるのかのう。

 「んーと、こっからじゃ夏河へは行けないですね。西寧からなら行けるらしいですよ。」

 なに!西寧だと!私はさっき西寧から来たばかりだぞ。また逆戻りしなきゃなんないってゆーの?そんなあっ。あんまりよぉ。先を急いでるっていうのに後戻りするのは時間的にも大きなロス。

 「それなら中国人のふりしてバスチケット買ったらどうですか。」

 なるほど、良い考えね。君子ではなくなっちゃうけど。ま、バスなんてそうしょっちゅうしょっちゅう横転はしないだろうし、冒険しちゃおう!いや、しかし・・・私が乗った時に限って事故が起こったらどうしよう。そんときゃ、私は中国人として乗ってるわけだから、誰も私の死に気づかないってことになる。うおーっ、それは大変。私は行方不明のままで、家族はずっと私を心配し続けるだろう。なんて、なんて、親不孝な娘だろうか。むむむ、いかがいたすか。

 悩むこと約2分、妙案を思いついた。もしもし、旅のお方よ、ひとつ頼まれてはいただけまいか。せっかくここまで来たのだから、私は蘭州から夏河へ参りたい。無事に彼の地に着いたらば、あなた様にご連絡いたす。されど、一ヶ月たっても連絡が届かなければ私に何かが起こったと思って、日本の家族に知らせてはいただけまいか。

 旅のお方は、あいよ、承知しました、よござんす、それぐらいおやすいこってす、と快く引き受けてくだされた。あな、ありがたや、かたじけのうござります。

 こういうわけで、中国人になりきってバスチケットを買うことに決まり!では早速レッツGO!青いブラウスを着て、ウエストバックをかばんの中にしまい、旅行者がやりがちな爽やかスマイルを捨て、ちょっと仏頂面で切符売り場の窓口に進み出た。

 「あんた、どこ行くの?」

 切符売りのおばさんは面倒臭そうに訊く。

 「夏河。明日の。」

 おばさんはあっそうという感じで、切符に何やら紙を貼り付けると、これまた面倒臭そうにこちらへよこした。私は地元の人らしく振る舞うため、ありがとうも言わずに切符売り場から立ち去った。ふふふふふ、やったぞ、チケット購入成功!スキップしながら蘭州飯店のドミトリーに戻り、旅のお方にこの旨を伝えると、

 「あなただったら別に中国人の振りしなくても、そりゃあ大丈夫でしょう。」

 いやだ、またそんなあ、中国語はさしてうまくないんだからぁ。

 「いえいえ、そういう意味じゃなくて、中国人っぽく振る舞わなくても、あなたなら雰囲気が出せるってことですよ。」

 いやにはっきり言うわね、旅のお方よ。どーせ私は日本人離れしてますよ。  

 「健闘を祈ります。いってらっしゃーい。」

 旅のお方に見送られ、私は次の日の朝夏河行きのバスに乗り込んだ。危険が伴うバス旅行の始まりだと思うと、妙にドキドキする。バスはおなじみのおんぼろベンチシート。背もたれの角度はほぼ直角で、木製ときているから居眠りするには不都合だ。おまけに私の席は3人掛けの真ん中。リラックスなどできない運命である。

 不安な気持ちを胸に抱きつつ、発車オーライ、出発だぁ!ところで甘粛省の長距離バスの特徴なのかどうかは知らんが、車体がやや小さいのが気になる。そのせいなのか馬力も小さいような気もする。ちんたらちんたら、いえ、のんびりと走っている。山道にさしかかると、バスはいかにもしんどそうだ。よっこらしょ、よっこらしょという具合に進んで、エンストするんじゃないかと心配するようなのろさになった。

 確かに山道が険しく、ところどころにきついカーブもあるので、運転手さんは気をつけて丁寧にハンドルを切っている。だがカーブといえば、昆明から西双版納へ行く山道の方がずっとずっと激しく、しかもカーブカーブの連続でどこまでもジグザグ道が続いていた。そこを運転手さんはかなりのスピードで飛ばしていたから、乗っているほうとしてはスリル満点、実にはらはらものだった。これと比べると今走っている道は中国の山にはどこにでもあるような道路である。いったいどこでその事故があったのだろうか。どういうふうにバスがひっくり返ったのだろうか。どうってことない道じゃないか。いやいや、待てよ。伝説にまでなっている危険なバスルートだ。この先にきっと恐ろしく険しい道が待っているに違いない。緊張しつつ首をぐっと伸ばして外の景色ばかり眺めていると、隣のおじさんが怪訝そうに私を見る。

 「あんた、どこの人かね?」

 広東人だと答えたら、

 「そうかい、じゃあここいらは珍しかろうよ。」

と納得した。念のためにおじさんにこの山道が危険かどうか訊いてみた。

 「大丈夫さ、怖くないよ。心配しなさんな。」

 おじさんは笑って答えた。へ?大丈夫だって。もう一度問う。

 「ははははは、何ともないよ。本当に大丈夫さ。」

 何ですって!それなら、話が違うじゃないか。外国人禁止令が出るんだったら、背中がぞくぞくするくらいの恐怖を与えてくれる道でないと困るのだ。それがなんだ!大丈夫だとあっさり言われると、今まで緊張していた私の立場はどうなるのだ。切符売り場で旅行者に見られまいとして迫真の演技をした努力はどうなるのだ。心配しなさんなって、安心してもいいってことか。そんなに気楽に言われると本当に安心してしまうではないか。はあぁぁぁぁ~っ。安心してしまうと本当に気が楽になった。。そうよね、道は結構険しいけれど、谷底はかなり深くて落っこちたらバスもろとも木っ端微塵になりそうだけど、道幅はかなりあるし、バスはのろいし、運転手さんは注意深く運転してるから一応心配はないだろう。

 ガガガガガガガ、ズズズズズズズ、ゴッゴッゴッゴッゴッ・・・・・上り坂じゃ故障するんじゃないかと思うほど、我らがバスは重たそうに進む。それがんばれ、ファィトー、一発!!と、励ましたくなるぐらいだ。しかし、平坦な道にさしかかったら調子を取り戻し、ほぼ順調に走るのだった。

 結局何事もなく無事に夏河に着いたが、手すりをぎっちり握っていたからか、手のひらには汗がにじんでいた。降りたら完全にほっとして急に睡魔が襲ってき、宿に辿り着くことだけを考えた。

 以前起きた事故はきっと運転手の不注意か、スピードの出し過ぎだったんじゃないかしら。そうじゃなかったらバスがボロ過ぎたかだ。一眠りしたらさっそくあの旅のお方に伝えよう。蘭州発夏河行きのバスは問題ござらん、どなた様も安心して乗られたし。道も安全、バスもゆっくり、のどかな旅でござった。万が一何か起こったならそれは運が悪いのよ。

 しかし、私って安全面ではすこぶる運がいいけれど、金運や男性運には見放されっぱなしっていうのは、いったいどういうわけでござろうかのう。  

(1990年7月)

テーマ:エッセイ - ジャンル:小説・文学


中国放浪回顧録
中国放浪回顧録 その14

【朝鮮族のお兄さま】

 遼寧省の省都、瀋陽は私の目にはまばゆく映った。中国第四の都市と言われるほどの都会であるから当然かもしれないが、実に物が豊富である。大原街という駅前の大通りを迷子のようにさまよいながら、道の両脇にずらっと並んでいる露天商の品物を眺めてみる。下着やブラウスやジーンズなどの衣料品、石鹸やら目覚まし時計などの日用品、炊飯器やラジカセなどの電気製品に至るまで、ありとあらゆる物がひしめき合って大原街を占拠しているではないか。すごいな、こんなに物に囲まれたら、人間はおかしくなってしまわないかな、などと考える。半ば呆れながら商品の渦と化した大通りをふわふわと漂っていると、

 「おーい、妹妹(メイメイ) 、こんな所で何してるんだ?」

と、大声で私を呼ぶ声がした。それは紛れもなく朴(パク)兄貴であった。何をしていると言われても、私はごく普通の旅行者であるから町をぶらぶら見物しているだけなのだ。

 「何だ、何か買いたけりゃ俺に言え。」

 朴兄貴はドンと自分の胸をたたいた。まったく・・・カッコつけちゃって。

 朴兄貴とは図們から瀋陽に来る列車の中で知り合いになった。2等寝台に乗っていたのだが、私のベッドの側に朴兄貴とその仲間がいた。彼らは出張で瀋陽に行くのだということで、3人のチームで動いていたが、リーダー的な存在ですべてを取り仕切っていたのは朴兄貴であった。私に対してもそうだった。やれお菓子を食えだとか、飯を食えだとか、半分以上は兄貴の強制だったけれど、とにかくお世話になったのだった。朴兄貴と私は同い年だったが、生まれ月が私の方が後だったから、それじゃあんたは俺の妹だなということになり、勝手に兄妹にされてしまったのである。 

 朴兄貴もその仲間も朝鮮族だった。中国東北地方には朝鮮族が大勢住んでいる。彼らはハングルと中国語が話せるバイリンガルだ。そんなわけで、列車の中で兄貴たちにハングルを教えてもらった。私が発音すると、上手だとか、今のは下手だったなとか丁寧に評価してくれた。

 瀋陽に着いてから私たちはお別れした。兄貴たちは駅の近くにある東北飯店にチェックインし、私は遼寧大学の留学生宿舎を目指した。大学までの行き方がわからなかったので、朴兄貴はそこら辺の人に聞きまくって、どのバスに乗ったらいいかを探し当ててくれた。ほんに親分肌の頼もしい兄貴である。別れ際、瀋陽滞在中に何か困ったことがあったらいつでも訪ねて来いよ、と 朴兄貴は念を押した。私は深くうなずいたが、あんまり迷惑をかけてはいけないから、心の中ではこれっきりこれっきり・・・と『横須賀ストーリー』みたいに繰り返していた。

 しかし、バッタリ再会してしまった。朴兄貴は、まったくしょうがないヤツだな、こんな所を一人でうろうろしていたら道に迷っちまうぞと、何度も叱るような口調で言う。

 「このあたりを見たいんだったら、俺について来い、俺に!瀋陽には何回も来てるんだから詳しいもんさ。」

 まーた兄貴の世話焼きが始まった。こうなったらもう、主導権は兄貴の方にある。

 「何が見たい?言ってみな。」

 別に何が見たいってわけじゃなく、適当にぶらぶらしたいだけ。だけど、兄貴は私の気持ちなんてわかっていない。

 「遠慮するな。ほしい物があったら言え。買ってやるぞ。」

 ・・・・・・遠慮じゃないってば。

 道案内のように朴兄貴は私の前を歩いていく。黙ってついて行くしかないな。立ち止まったりしたら、何やってんだ、何かあったのか、と言われかねない。しばらくの間、私はきちんと兄貴の後ろを歩いていたが、ふとストッキングを売っている露店に目が止まった。今まで中国で売られているストッキングといえば、もろに肌色の一本一本ばらばらのやつと決まっていた。しかし、この露店では柄入りストッキングや足首のあたりにワンポイントのついたストッキングが吊されているではないか。へエー、中国も変わってきたもんだ、女の人もずいぶんお洒落になってきたのかしらん。ところでこのストッキング、輸入物かな。だとしたらどこから来たんだろ。日本だったりして。などと思いながらぼんやりその束を見つめていると、

 「妹妹、ストッキングがほしいのか?どれがいいんだ、買ってやる。」

 さっそく朴兄貴のチェックが入る。いらない、いらないと必死で断ったら、

 「なーんだ、日本にはもっといい物があるからなのか。中国の物をバカにしてるんだろう。」

 とむくれるから大いに困る。まったく、兄貴の機嫌を損ねないようにするには、気を遣うのだった。ちょっと興味を示せば、それがほしいのかとくるから、全然関心がないようにしなくちゃいけなかった。

 「何もほしくないんだったら、ショッピングは終わりだ。さ、おいで。」

 朴兄貴はさっさと自分たちの宿、東北飯店に戻ろうとした。おいでということは私もついて行かなきゃなんないわけ?従わなければ怒られるので、私は渋々兄貴の後ろを追っかけた。兄貴はでかくておなかもちょいと出ているから、なかなか貫禄がある。歩く姿は、ややそっくり返り気味。だから、その後をチョロチョロついて行ってる私は、まるでやくざの親分につきっきりの安っぽいチンピラみたいだ。

 ホテルの部屋には、つい先ほどまで一緒の列車に乗っていた兄貴の同僚、崔さんと全さんがいた。二人は身支度を整えているところだった。これからどこかへ行くのかな。

 「出かけるぞ。今から晩飯だ。」

 朴兄貴、崔さん、全さんに連れられて、着いたところは中山ホテルという立派なホテルだった。へ?ここで食事?長らくゴージャスな雰囲気の中でご飯を食べていないもんで、金持ち国から来た日本人でも庶民以下に成り下がっている私は、豪華な構えのホテルの建物を見つめてごくんと唾を飲み込んだ。

 「何やってんだ。早く入れ。」

 兄貴にせかされる。レストランの入口では、朴兄貴を待っている人がいた。すらっと背の高いきれいな女性と、同じく背の高いもじゃもじゃパーマヘアーの男性だ。二人は夫婦のようだった。女性の方が、お待ちしていました、さあどうぞという風に我々をレストランの中へ招き入れた。

 予約を入れてあったと見えて、夫婦は一番奥の円卓に直行した。奥さんに勧められ、兄貴たちは席に着いた。私もテーブルについて、あたりをずいーっと眺めた。レストランもホテルの外観に劣らず、広々として美しかった。明るいシャンデリア、“福”とか“財”とかいう漢字が書かれた赤い紙を張り付けた屏風、ウエイトレスのお姉さんのかわいいチャイナドレス。久しぶりに贅沢な雰囲気を味わう。

 朴兄貴は夫婦に私を日本の妹と紹介した。面倒臭いので、本当の妹じゃないとか、朴さんとはちょっと顔見知りになっただけとか、説明はしなかった。下手に言うと、また兄貴にぐちゃぐちゃ言われそうだ。こういう場合、おとなしくしていたほうが賢明だ。

 夫婦は兄貴たちの取引先の人だった。やっとわかったのだが、兄貴ものっぽ夫婦も電気製品を扱う商売をしているのだった。今晩は夫婦側が兄貴たちを招待というシュチュエーションだ。それなのに私まで兄貴にくっついてお呼ばれなんてしていいのか。疑問は残るが、深く考えてももう遅い。すでにご馳走が次々とテーブルに運ばれちゃってるんだから。勧められるまま厚かましくもご馳走を頬張り、みんなで商売の話をしているのを聞き流していた。

 高級料理をおなかに詰め込んだ後、我々はタクシーに乗り込んだ。どこへ行くのだ。私はもういい加減帰りたいぞ。兄貴とのつきあいももう十分だろう。しかし、食べるだけ食べて、ハイ、さいならとはなかなか言い出せない。兄貴も私の様子に気づいたようで、

 「今から夫婦の店に行くんだよ。妹妹ももう少しつきあいなさい。」

 まるで引き回しだ。こうなったらやけっぱち。はいはい、お供いたしましょう。

 タクシーは通りに面した電気屋の前で停まった。今から店内の在庫整理でも始まるのか、それともいきなり商談か。結果はどちらでもなかった。みんなで店内に並べられた商品を脇に片づけると、空いた場所に奥さんが四角いテーブルを置いた。そして、ご主人がその上に大きな荷物を載せた。なんとそれは、麻雀パイだった。これから麻雀大会という段取りだったのだ。仕事はそっちのけで、まずは接待ってことか。

 奥さんは麻雀が大好きと見えて、大いに張り切っている。朴兄貴、崔さん、店で留守番をしていた従業員の兄ちゃんが、奥さんの誘いで麻雀人員となった。ゲームが始まると、4人は脇目もふらず麻雀パイを動かし、もう夢中。あぶれた者は店の売り物であるカラオケセットで遊ぶことになった。たくさんのカラオケ用ビデオを大音量で次々とかけまくり、ご主人と全さんが代わる代わる歌う。あんたも歌えとご主人にマイクを向けられたが、知らないんで歌えない。私はただ、全さんらが歌っているのを横で聴いているほかなかった。が、中国語の勉強にはなったような・・・・・

 それにしてもだ。エコー効かせっぱなしのカラオケのうるささもなんのその、麻雀の方は更に白熱し、4人のテンションは上がり切ってオーバーヒートするんじゃないかと心配するほど。ポン!!チー!!自模(ツモ)!!かけ声にも気合いが入る。

 皆さんが盛り上がってる分にはいいんだけど、私はそろそろ帰らなくては。もう10時を回った。大学の留学生宿舎には門限があるはずだ。それとなく朴兄貴に合図を送るが、

 「まあもう少し待っていろ。タクシーで送ってやるから。」

てな具合である。いいよ、一人でタクシー拾って帰るから。

 「わかった、わかった。あと10分待ってくれ。」

 結局30分ぐらい待つことになったが、それでも朴兄貴は崔さん、全さんとともにタクシーで遼寧大学まで送ってくれた。

 あーあ、疲れた、今日一日兄貴につきあって。でも、朴兄貴はきっと異国の妹に朝鮮族の心意気を見せたかったんだろう。記念に大原街でキーホルダーでも買ってもらえばよかったかな。そうしたら、いっそう兄貴の機嫌はよくなっただろう。送ってくれてどうも、カムサハムニダ。

 「ははは。気にするな。俺達はまた電気屋に戻って麻雀の続きだ。」

 タクシーの窓から手を振って、朴兄貴は笑いながら去っていった。外見の割には若い朴兄貴だったが、日本の若い男性にはない頼もしさ(強引さかしら)を感じたなぁ。

(1990年8月)

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