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稚拙な表現ではありますが、旅行記などを発表していきたいと思います。
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青春の思い出?若気の至り?
中国大陸をほっつき歩いた旅記録です。
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中国放浪回顧録
中国放浪回顧録 その13

【公安のおじさんと大ゲンカ】

 日本の団体旅行者の皆様方のお手伝いをし、中国の添乗員さんたちのお役に立てるなんて、私ってすっばらしいツーリストやんか!!とうぬぼれておるとろくなことはない。うかつ者の旅行というのは、結局おかしなことに巻き込まれるという運命にあるのだ。

 じゃじゃ~ん、やってきました、雲南省は西双版納のはずれ、ギラギラ光る銀の仏塔をシンボルに掲げているタイ族の村、ターモンロン。景洪の町で出会った一人旅の日本人、Y美ちゃんと一緒である。我ら二人は景洪からおんぼろバスに乗り、ギンギラ仏塔の村目指してレッツゴー。バスの乗客はほとんど地元の方々であったが、雲南省は秘境を求めるツーリストの溜まり場、旅人のゴールデンコースってわけで、我々以外にも外国人が乗っていた。ビールでもひっかけたのか、赤い顔で少々ハイになっている二人のイギリス人の兄ちゃん。 

「らんだぁ~ん(LONDON)から来たのさっ。」

と、正統派イングリッシュの発音で、シティーボーイだぞ、都会っ子だぞとのたまった。実にご機嫌麗しい。

 Y美ちゃんと私はターモンロンに着くと、すぐさま近場の旅社にチェックインした。気のよさそうなタイ族のお姉さんが女将の宿だ。ドミトリー一泊一人2.5元と超安い。ロンドンっ子二人組も我らと同じ旅社に宿をとった。

 では、荷物を置いて早速ギンギラ仏塔見物に出発!もうじき夕方になる。傾きかけた太陽の光を浴びて、Y美ちゃんと私はお散歩気分でてくてく歩く。と、その時、

 「おい、そこの外人娘!あんたらいつ来たんだ?」

と、ぶしつけに聞いてくるヤツがいた。声の主は痩せた色黒の地元のおっさんだ。ギョロッとした大きな目玉で我々をにらみつけるようにして見る。

 「たった今来たんだよ。」
 「ならば、宿は?」

 おっさんは厳しい口調でなおも問いかけた。総銀歯が口を開く度に鈍くいやらしく光る。

 「旅社に泊まってます。」
 「何だと?おまえたち外人はみんなわしの旅社に泊まらんといかんのだ。」

 どうもろれつが回っていない。酔っぱらっているようだ。酔っぱらいの親父などほっといて行こ、行こ。Y美ちゃんと私はしつこく追いかけてこようとしているおっさんを振り払うようにしてギンギラ仏塔へと走った。

 仏塔は美しかった。夕陽を受けてまさに銀色に輝いている。吸い込まれるように青い空へ向かってすっくと伸びている力強さを感じる。仏塔の前には、おのれの髪をギュッとひっつかんでいるタイ族の女性の像が建っていた。髪は女の命なのよっていう意味なのかしらん。確かにこの村では、道の脇を流れる小川に浸かり、自慢の長い黒髪をとかしつけるようにして洗っている女たちの様子が見られる。タイ族の女性にとって髪はシンボルのようなものなのか。となると、私のようなショートカットどんぐり頭ではタイ族女性の仲間入りはできないのだろうか。

 ま、髪の話はどうでもいい。ギンギラ仏塔を堪能した後、Y美ちゃんと私は帰り道を急いだ。あたりが薄暗くなってきたからだ。足早に歩いて旅社に戻った。旅社の入口にはベンチがあって、日本人らしき女性が座っている。おや、おや、ややや、どっかで見たことのある人だけど・・・・・なんと景洪の町で出会ったN美ちゃんではないか。Y美ちゃんと私は手を振って彼女の名を呼んだ。N美ちゃんは私たちに気づくと、なんだかほっとしたような表情を見せた。

 「泊まっている宿があんまりよくないからチェンジしようと思って・・・」

 N美ちゃんの話を聞くとこうだった。彼女はこの村に着いてすぐ旅社にチェックインしたが、そこの親父の態度が非常に悪い。お酒を飲んでいるのか始終酔っぱらったような感じで絡んでくる。それで必要な時以外は親父を避けていたという。しかし、ルームキーはいつも親父が管理していて、部屋の鍵を開けてほしい時にはいちいち親父を呼ばなければならないのだった。ところが、そういう時に限っていつも親父はおらず、親父探しに時間を割くことになるというのだ。ぬぬぬ、その親父というのはもしかして、さっきギンギラ仏塔に行く途中で出会った銀歯親父ではないか?

 「それでね、この旅社に来たんだけど、この村で外国人が泊まってもいい旅社は一軒しかなくて、あの変なおじさんの所しか泊まれないんだって。」

 N美ちゃんは困り切った顔。それじゃ、我らが泊まっているタイ族のお姉さんの旅社には外国人は泊まれないって言うの?

 「そうなのよ。私も外人を泊めちゃいけないなんて知らなかったのよ。さっきね、この女の子が泊まっていた旅社の親父さんが公安局の人を連れて来てたの。外人を泊めちゃいけないって注意されたわ。あの親父さんたら私を脅すのよ。もしあなたたちを泊めたら罰せられるって。でもね、せっかく私の所に来てくれたんだからあなたたちを泊めてあげたいし。」

 私たちの様子に気づいてお姉さんが出て来て先ほどあったことを説明した。おやまあ、なんてこと。

 「だけど、私もうあの旅社泊まりたくない。あのおじさん、妙にスケベで自分の部屋にいやらしいポスター貼ってるし、気味が悪いっ。」

 N美ちゃんはきっぱり言った。そうよね、確かにさっき道で会った時、銀歯親父の態度はいやーな感じだった。私もあの親父の宿ならごめんこうむるぞ。Y美ちゃんも同じだった。絶対親父の旅社には泊まりたくないと言う。どうせ泊まるなら気持ちのいい宿がいいもん。ここがいい、お姉さんなら優しいし。我らの意見はまとまった。

 「ありがとう。ただ、公安に何と言われるか・・・・」

 お姉さんは複雑な心境だ。ああ、そっか。我々外国人が泊まったがために、お姉さんは罰せられるかもしれない。それに私たちだって罰金なんかを払わなくちゃいけないのかも。まぁ、私たちのことはいいとして、お姉さんに迷惑がかかるってのはよくないのである。それではここはひとつ、銀歯親父の気持ち悪さを我慢して、あいつの旅社に3人で引っ越しするとしようか。3人ならば親父一人ぐらい怖くはないだろう。うーん、でもやっぱりいやだな、あの親父・・・・どうしよう。まいったなあと、ふと上を見上げると2階の部屋の窓からイギリス人の兄ちゃんたちが私たちを見下ろし、ヘーイ、あんたたち元気してた?俺たちゃノリノリだよ~っ、てな具合に手を振って見せた。まったく、こっちの苦労も知らず脳天気なもんである。ん?ちょっと待って。外国人って我々3人だけじゃないんだ、このロンドン野郎たちのこと忘れてた。銀歯親父の旅社へ移るとなると、あいつらにもことの次第を説明し、外人部隊はお姉さんの宿を離れなければならない。そんなぁ、どうやって説明するのよ。私は英語が苦手である。しっくはっくしながら単語を並べ、お粗末な英語でもってロンドン兄ちゃんにわけを話してきかせるなんて、思いっきり時間がかかりそうだ。いやだ、いやだ、そんな七面倒臭いこと!!

 よっしゃ、決まった、私の選択。 

「公安へ行ってかけあってこよう!」

 ちゃんと話して公安の人に頼んでみよう。それ!善(?)は急げだ。私はY美ちゃんと連れだって走った。そして同行をいやがる銀歯親父を途中で捕まえ、二人で親父を引っ張るようにして公安局になだれ込んだ。公安局の人は我々の剣幕にびっくりして飛び出してきた。

 「お願いします。あのお姉さんの旅社に泊まりたいんです。」

 へたっぴいながらも中国語で私たちの気持ちを公安のおじさんに訴える。が、公安はこれは規則なのだからと首を縦には振ってくれない。根気強く説明しても、あんたたちは外国人なんだからおとなしく従いなさいと繰り返すばかり。傍らで聞いていた銀歯親父も、ほ~ら、わしの言った通りだろうがとにやにやしている。う~む、勝ち目はないのか。 

「いいじゃないのよ!私たちはこのおじさんの所には泊まりたくないって言ってんの!」

 たまりかねて私は日本語で叫んだ。

 「そう!この人は信用できないの!」

 Y美ちゃんも日本語で応戦だ。私たちは銀歯親父を指さして暴言の限りを尽くした。ギャーギャー、ピーピーわめき散らし、必死の形相でわけのわからない言葉を放つ女二人を前に、公安のおじさんも銀歯親父もたじろいだ。

 「わ、わ、わ、わかった。君たちの好きにしてよろしい。さあ、行きたまえ。」

 公安のおじさんは私たちを制し、許可してくれた。やったー、これでみんなしてお姉さんの旅社に泊まれる。

 「ちょっと待ってくれ、じゃあ、わしの立場はどうなるんだ!」

 今度は銀歯親父が不服を申し立てたが、公安のおじさんにまあ、まあ、まあとなだめられた。この隙に私たちはすみやかに退場。すぐさま旅社に帰ってお姉さんとN美ちゃんに勝利を報告した。これで何も気にすることなく、安心してここに泊まれる、めでたしめでたし。

 しかし、本当は規則違反なんですよね。我々は外国人ツーリストなんだからルールは守りましょう。それにしても異国の地でけんかをする時はやっぱり日本語に限る。反則ワザかもしらんけど。    

(1990年5月)

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中国放浪回顧録
中国放浪回顧録 その12

【えせ添乗員日記 蘭州編②】

 炳霊寺へ行けないとなると、今までおとなしくこの強引なガイド嬢にしたがっていた日本のじじばば軍団も黙ってはいなかった。

 「そんなの約束が違うじゃないの!」
 「炳霊寺へ行くっていうから楽しみにしていたんだよ!!」
 「そうだよ。蘭州では炳霊寺見学って、日本で聞いていたんだ!!」
 「何とかして行ってちょうだいよ!!!」

 おやおや、きっちり決まっているもんだと思っていた観光のコースって実はいい加減だったのね。どこの旅行会社か知らないが、日本のツーリズムも結構アバウトなもんだ。こんなにも連絡がとれていないとはさーすが中国!と感心している場合ではない。NOと言えないひ弱なお年寄りも約束違反となると豹変し、老年パワーがどどんと炸裂だ。みんなでガイドを取り囲み、掴みかからんばかりに責め続ける。これには四千年の歴史に培われた中国人もたじたじ。ガイド嬢はすっかり困り切った顔で私に助けを求める。寺への船が出ないぶん、ここで一発私が助け船でも出すとするか。

 「炳霊寺へは本当に行けないそうですよ。私も別の旅行社で問い合わせてみたんですけれど、行けないからって断られたんです。」

 お客さん達に事情を話したのだが、老年パワーは反撃の手を緩めない。

 「じゃあ、明日は何をするんです?」
 「買い物なんていやですよ!」
 「話が全然違うじゃないか!!」
 「蘭州のCITSに文句言ってやる。帰国したら日本の旅行社にも抗議しなけりゃね!」

 怒り心頭の彼らをまぁまぁとガイド嬢とともになだめ、何かいい考えないかなぁなどとなんで私が悩まなあかんのかわからんが、とにかくガイド嬢もお客さんもお互いが納得できる何かをひねり出さなければならない。ご一行様には

 「船が出ないのに無理して行って、こんなところで事故にでも遭ったら大変ですからね。」

と言いきかせ、ガイド嬢には

 「とにかく炳霊寺には行けないんだから、近場でおもしろそうな所へ連れて行ってあげたらどう?」

とこそこそ耳打ちし、蘭州の地図を広げてみた。劉家峡ダムがわりと近い所にあると気づき、ここに皆様をご案内してはどうかとアドバイス。

 「んー、しかし、ここおもしろいですか。水ありませんかもしれません。」

 ガイド嬢の懸念をよそにお年寄りたちは

 「そこ、いいねえ。」
 「炳霊寺へ行けないんだったらそこにでも連れて行ってほしいよ。」

と乗り気になった。しかし、ガイド嬢は不服そうに顔をゆがめた。

 「ま、いいじゃないですか。おもしろくなくてもね、皆さん行けば納得しますよ。」 
 
 私は彼女の肩を軽く叩いた。
 「そうですね。後で運転手と相談します。明日ダムへ行きます。しかし今日はこれから何をしますか。まだ買い物の店ありますね・・・・」
 
 この期に及んでまだ提携先の店からコミッション獲得のノルマをこなそうとするのか、お嬢さん!これ以上お年寄りを怒らせたら、みんなあんたの言うこときかなくなるで。ギロリと突き刺さる視線を受けて、ガイド嬢はもう何も言わず、それじゃあこの後は自由行動&休憩ということに収まった。自由行動といってもお年寄りが知らない土地で個々に動けるわけがなく、結局みんなで固まって行動することになった。山を下り白塔山公園を出ると、そこはもう町に横たわるように流れている黄河が間近に見える所である。河には遊覧船も行き来している。

 「あれに乗ってみましょうか。」

 私のとっさの提案にお年寄りグループは大賛成。ガイド姉ちゃんはマイクロバスの運転手に船着き場で我々を待つよう指示してから、みんなを船に乗せてくれた。黄河をゆったりと滑る遊覧船に乗った日本人客たちは、すれ違う筏こぎのおじさんに手を振ったり、川辺の景色をカメラに収めたりして大はしゃぎ。この計画は意外と成功である。

 船を降りてぶらぶら行くと小さな果物屋があった。季節の果物が店頭に並べられ、行き交う客を待っている。ご一行様は店の前で立ち止まった。 

 「うまそうだな。どれ、ひとつ買ってみるか。」

 お年寄りたちはどれがいいかと品定め。ここでも私はつい口を出す。

 「白蘭瓜(バイランクア)がありますよ。これって蘭州名物の果物なんです。」

 私は手毬ぐらいの大きさの白っぽい瓜を手に取って、おじいさんたちに見せた。

 「ふうん。日本じゃこんなのないねぇ。よし、買ってみよう。」

 おじいさんが財布を開くと、またもやガイド嬢は抜け目なく、お客のFECとおのれの人民元を交換して果物屋の親父に渡した。

 「これは何という果物ですか。」

 ガイド嬢は私にきいた。

 「白蘭瓜よ。あなた知らない?」
 「知りません。初めて見ます。」
 「蘭州じゃ有名な瓜。」

 長春で育った彼女が知らないのも無理はない。だけどあんたもガイドなら覚えときなと心の中でつぶやいてやった。ガイド嬢は白蘭瓜を手にとってまじまじと見つめていた。

 時はすでに夕方近くになっていた。明日は炳霊寺へは行けないが、買い物を兼ねた市内見学を避け、マイクロバスで劉家峡ダムくんだりまで行くことになったご一行様は、腑に落ちないながらも一応ご納得。これにて一件落着というわけで桜吹雪でも撒きたい気分。夕げの時間までホテルで休憩ということになり、なぜか私もご一行様のマイクロバスに乗っけてもらい、彼らの宿泊先である金城賓館まで同行した。

 「いろいろ私らを助けてくれてありがとう。あなたも長いこと旅行して日本が懐かしいでしょ。ちょっと寄っていきなさいな。いい物があるよ。」

 おばあさんから優しい言葉を頂戴し、遠慮もせずに私はお年寄りたちの部屋について行った。おじいさんおばあさんたちは部屋に入るとおのおののバッグを開け、夕飯前だというのに日本から持って来たお菓子や非常食を口に運んだ。

 「あー、やっぱり日本の食べ物って落ち着くね。」
 「中華料理もいいけどね、毎日続くと胃にもたれてさ。」

とか言いながら、おじいさんがグイッとあおったのはワンカップ大関だった。梅干し、味付け海苔、インスタントラーメン、インスタントみそ汁、永谷園のお茶漬け、柿の種、おかきにせんべい・・・・・ドラえもんのポケットのように次々いろいろな日本食品が出るわ出るわ。

 「ほら、これどうぞ。持って行って。中華料理に飽きたらあんたもお食べなさい。」

 ご一行様は自分たちの食料を分け与えてくださり、久しく日本の味を忘れていた私は思わずじーんと胸が熱くなった。

 夕食も皆様と一緒だった。ガイド嬢が私を誘ってくれたのである。ホテルのレストランでの食事だったが、円卓についたお年寄りグループの隣でガイド嬢と運転手と私3人でテーブルを囲んだ。

 「今日は助けていたたきましたね。どうもありがとございます。日本人のお客様、難しいですね。でも、いい勉強です。」

 そうそう、がんばってくだされよ。いろいろな日本のお客さんのガイドや通訳をして優秀な添乗員になっておくれ。それにしても中国でツアー客になってガイドに従うのも大変であれば、日本人客を案内するのもかなり大変なのね。おっと、エラそうに言ってしもうたが、ご一行様からは日本食をめぐんでもらい、ガイドと運転手とともに経費で落ちる晩ご飯をご馳走になって、ちょいといい思いをしてしまった。しかも中国側からも日本側からも感謝され、ふむ我ながらなかなかいいことをした。お役に立てたじゃないですか。めでたし、めでたし。

 しかし、翌日本当にご一行様が劉家峡ダムに行ったかどうか確認はしていません。あしからず。

(1988年7月)

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中国放浪回顧録
中国放浪回顧録 その11

【えせ添乗員日記 蘭州編①】 

 中国でどこがよかったですかという質問をよく受けるが、たくさんありすぎるから答えるのは非常に難しい。が、好きな場所というと案外簡単に答が出てくる。この好きな場所ということについては誰もきいてはくれぬが、勝手に答えちゃうとそれは蘭州の白塔山公園の中にある喫茶室であ~る。お茶券を買うと魔法瓶一本渡され、お茶の葉、氷砂糖、桂園の実が入った蓋碗(茶碗蒸しのような器の茶碗)が出てくる。魔法瓶のお湯を自分で好きなだけ注ぎ、2分ほど待ってからゆったりとお茶を楽しむ。山の上の喫茶室の窓からは蘭州の町を見下ろせるだけではなく、町の中央を流れる黄河が拝め、鳥の行き交う様も観察できる。一杯目のお茶を飲み干し二杯目のお湯を注ぐと、今度は氷砂糖がほどよく溶けて適度な甘さになっている。マウンテンパークにおけるイカしたティータイム。こんなくつろいだ豊かな気分になれるのは私の中では十分贅沢である。あ~、なんて満ち足りた午後なんでしょう。もうすっかり自己陶酔の世界。

 ところが、このせっかくのいい気分をうち破るかのようなカタコトの日本語が聞こえた。

 「はい、こちです。こちです。皆さん、早く来てくたさい。」

 中国人の若い女性添乗員の声だった。むむむ、日本人のツアー客を率いてこちらにやってくる様子。静かだった白塔山は添乗員嬢のキンキン声に導かれて、どやどや押し寄せて来る団体客によって占拠されるのだ。ったく、ムードぶち壊しである。しかし、喫茶室の前に現れたのはガイドの姉ちゃん一人。日本人らしき団体はいない模様。ん?どうなってんの?

 「皆さん、こちですよ。はいー、早くねー。」

 ガイド嬢が手招きする先を見ると、まだ山道の階段の下の方から日本人のじいさんばあさんがぜえぜえ言いながら上ってきているところであった。若く元気なガイドの歩く速度には追いつかないのは当然で、老人たちは汗を垂らし、息を弾ませ、よたよた歩いている。

 「あぁ、くたびれた、くたびれた。」
 「まるで山登りだな。」

 やっとガイド嬢に追いついた日本人客たちは地面にはいつくばるようにしてへたっている。ようやくここまで上ってきたばかりだというのに、元気な添乗員は

 「はいー、ここでちょと、買い物します。」

とせかすのであった。ぬぬぬ、いったいこのツアー、どうなるんだろと、よせばいいのにお節介心がむくむくと頭をもたげ、つい老年ツーリストに話しかけてしまった。大勢いるのかと思ったらそうではなく、聞けば男3人女3人とこじんまりまとまったツアーで、長野県から来たという。ガイド嬢はというと若干20歳、長春の大学で日本語を学び、2ヶ月前からここ蘭州のCITS(中国国際旅行社)で働いており、今回でガイド経験2回目という新米もいいところの姉ちゃんであった。

 「はいー、早く歩いてくたさい。」

彼女は自分の体力と客の体力の差などまったく考えておらず、鬼のように老人たちをせかす。まあまあ、もう少しゆっくり・・・・と、なんで私が中に入ってなだめなあかんの。

 小休止が済んでから一行は再び歩き出した。心配なので私も思わず彼らにくっついていってしまう。白塔山公園の険しい道をガイド嬢を先頭に進む。彼女は足の運びも速くサッサッと軽やかだ。が、一方の老年ツーリストはちょっと立ち止まって景色を眺めてみたり、

 「ガイドさんや、この山は何メートルぐらいあるのかしら。」

と問うてみたりする。しかしガイド嬢は、

 「この山ですか。・・・知りません。」

 と堂々と言い放つ。おいおい、ちょっとは勉強しておけばどうなんや。ますますこの一行が心配になる。

 やがて我々は公園内の売店の前に来た。

 「さあ皆様、ここで買い物しますー。」

 ガイド嬢は手をたたき、元気な声で日本人客を店に招き入れようとした。が、老人たちは

 「今買ってもねぇ、荷物になるだけだし。」
 「買い物なら帰る直前に上海でまとめ買いするよ。」

とぶつぶつ。聞けば彼らの旅のルートは、上海→敦煌→ウルムチ→トルファン→蘭州→上海という典型的なシルクロードコースで、エキゾチックムード漂うウルムチ&トルファンと敦煌の莫高窟見物に重点を置いたコースであり、いわば蘭州はおまけ、もっと言ってしまうと通過点にすぎない場所なのだった。従ってここでしこたま買い物する必要も意義もないのである。しかしガイドの姉ちゃんは、この店で買い物するのはもう百年も前から決まっているような口ぶりで、

 「はいー、急いでー、買ってくたさいねー。」

と強固な姿勢を崩さない。姉ちゃんの買わさいでかという執念に負けて、ひとりのおばあさんがそれじゃあキーホルダーを買いましょうかと財布からFEC(兌換券)を出した。すかさずガイド嬢、さっとそれを取り上げ、自分の財布に詰め込むと代わりに人民元を取りい出して店員に渡す、という早ワザをやってのけた。ははーん、外貨はCITSがきっちり獲得しようって腹やな。更にガイド嬢は叫ぶ。

 「はいー、皆様もっと買い物しますー。」

 どうやらCITSはこの店からコミッションをなんぼかもらっている様子。日本人ツーリストはもう買い物はたくさんだとボソボソ話している。はっきりNOと言えない日本人してしまっているご一行様に代わり、私はつい茶々入れしてしまう。

 「皆さん買いたくないって言ってるんだからしょうがないでしょう。」
 「そうですか。はいー、わかりました。」

 ガイド嬢はあっさり引き下がった。なんや案外素直じゃないかと思いきや、

 「そうですねー。明日は一日蘭州の町を見物します。そして買い物しますねー。」

 なんと彼女はにこやかに計画を明日へと移しただけだった。なんだってェ!と驚く長野のお年寄りの皆様。

 「あら、明日は炳霊寺へ行くんじゃないの?」
 「買い物はもういいよ。買う物ないよ。」

 日本人客のブーイングにもめげず、ガイド嬢はきっぱりと一言。

 「私たちは炳霊寺へ行きません。」

 えーっ!そんなー、そんなー!と老人たちの間でどよめきが起こった。彼らにとって通過点でしかない蘭州での唯一の楽しみは炳霊寺だったのである。

 「今、川に水がありません。だから船できません。炳霊寺へ行きません。」

 姉ちゃんは繰り返した。炳霊寺は蘭州から西へ70㎞ほど行ったところにある、崖っぷちに仏像の彫刻が施されているダイナミックな寺院である。私もこのワイルドな仏像の姿を拝みたくて蘭州飯店のインフォメーションコーナーへ問い合わせてみたが、強引ガイド嬢が言うように寺へは船でしか行けず、今は川の水が少なくなっているため船が運航できないという説明であった。中国での旅は人によってキャッチするインフォメーションが異なるので、私だけが間違った情報をつかんではいやしないかと疑ってみたものの、香港人ツーリストも同じ理由で炳霊寺行きを断念したということだったので、やはり本当に行けないようだった。

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中国放浪回顧録
中国放浪回顧録 その10

【えせ添乗員日記 福建編】

 女に生まれりゃ男にもてるのはそりゃあそりゃあ嬉しいもの。しかしこれは寄って来る男がキムタクだとかソリマチ級のレベルであればの話だが、ゲゲゲの鬼太郎に出てくるネズミ男のようなヤツだったら、かえってげんなりするものである。だいたい見てくれもよくなく、美人につきものの言い寄られるなどという喜びというか悩みも経験したことがなく、『きのうさぁ、ナンパされちゃったぁ』なんてことははるか縁遠い私にとって、異国の地で得体の知れないネズミ男クラスから次々声をかけられるっちゅう体験は、慣れてないもんだから疲れるのだった。

 つまり、泉州ではこういうことでまいっていた。泉州の印象はというと、町の北に位置する老君岩のじいさんの顔の恐ろしさでもなければ、狭い道に車と自転車とリンタクがひしめくように走っている様子でもなければ、福建省独特のちょっと小粋な町並みでもなかった。花や食品を売りに来る恵安の乙女たちの一風変わったスタイルもかすんでしまうぐらい、泉州での強烈な思い出は、“なーんでこの町の男性はかくも積極的なのか!”なのであった。歩いていたら自転車でスーッと近寄ってきたおじさんに拉致されそうになるわ、別のおじさんにはすれ違いざまに手を握られるわ、入った喫茶店では隣のテーブルの兄ちゃんからウインク攻撃を受けるわで、ほんまに泉州の男の人って老いも若きもラテンの乗りだ。

 こりゃー疲れたと金泉酒店のロビーに避難。椅子に腰掛けふと隣を見ると、座っていたのは日本のツアー客らしきおじさんだった。おおっ、日本人だっ。中国旅行の際日本人に出会うと、なーんだ同類に会っちまったと少々つまらなくなるのだが、この時ばかりは日本人に会えてほっとした。そして私の方から

 「あのう、日本の方ですか。日本のどこからいらしたんですか。」

などと積極的に話しかけてしまった。ツアーの皆様方は長崎県から来た年輩のご一行様であった。中国のツアーで泉州を訪れるというのはこの頃まだ珍しかったので、彼らの旅のルートをきいてみると、上海→アモイ→泉州→福州→上海という海のシルクロード満喫コースである。もうすでに3回か4回を数える中国訪問という皆様、ツアーとしての名所・旧跡は行き尽くしたんで、今回はちょっと違ったところを訪れたいというような趣旨であった。なるほど、福建もまた独特の趣があっていいですよね、などと相づちを打っていると、

 「今日はね、元宵節(旧暦の一月十五日)なんです。だから今晩何か催しがあるそうですよ。私らもそう聞いて楽しみにしとるんです。もしよければあなたも一緒に見ませんか。」

と教えてくれた。ほほーっ、ラッキー。泉州でそんなイベントがあるなんて知らなかった。ステキな情報だ。この町に来てよかったぞ。うっとうしい町だと思っていたが前言撤回。というわけで、晩ご飯を済ませてから長崎のご一行様にジョイントさせてもらうことになった。

 夕刻再び金泉酒店へ行くと、皆様はすでにロビーで出発を待っていた。あとはガイドさんが来れば勢揃い。ガイドさんを待つ間ご一行様と話していたが、皆さんは遠足の前の日の小学生のようにうきうきわくわくそわそわと、本日のイベントを待ちわびている。ビデオ、カメラ(もちろん三脚付き)、テープレコーダーなど、思い出を記録に留めるありとあらゆる機械類の準備も万端に整え、気合いの入れようが窺えるのだった。それほどエキサイティングなイベントなのかとこちらもドキドキしてくるではないか。

 ところで私は泉州に来る途中でバスの中からパレードを見たが、その様子をご一行様に話すと、

 「そう、そう、それ。それなんです!それがどうやら大々的に今晩この泉州の町でやるって聞いたんです。それを見るために私たち来たんですから。」

と、おばさんが頬を紅潮させて説明した。ほほう、この前見たパレードの規模の大きいやつだったら、さぞかし町中にぎやかになるだろう。これはいよいよおもしろくなってきた。期待に胸を膨らませ、元宵節の大パレードを想像する。

 そこへ颯爽とガイドさん登場。

 「遅くなりました。どうもすみません。」

 愛想良く流暢な日本語を話すその中国人は、20代後半ぐらいの笑顔のすてきな女性であった。きちっと紺のスーツに身をかため、髪をアップにひっつめたいでたちにはプロ意識が感じられる。第一印象は百点満点だ。ジョイントさせてもらうので、私はガイド嬢の前にすっ飛んでいって丁寧に挨拶をし、今晩のイベントについて訊ねてみた。ところがそのとたん、彼女の完璧な笑顔はさっと消え、マジな表情で私を見返した。いえね、この長崎のツアーの皆さんはそのパレードやらを楽しみにしていて、私も誘われたから来たのだと説明すると、ガイド嬢、

 「そうですか。私はよく知りませんが・・・」

とうろたえた。はてな?ツアー客が心待ちにするぐらいのイベントならばガイドさんがいの一番に知っているはず。それを知らぬとはまさかイベントってガセネタ?しかしロビーでずらっとお待ちになっている長崎の皆様は、ガイドさんと私の会話が聞こえてなかったのか、カメラを磨いたり持ち物を再点検したりとルンルン気分だ。ガイド嬢もこれはやばいと思ったのか、

 「と、とにかく出発しましょう。歩きながら町の人にきいてみます。」

と無理に笑顔を作った。なんかいやーな予感。

 町に繰り出した我々はガイド嬢の後ろについてぞろぞろ歩いた。ツアーの皆さんは思い思いに町の様子を観察し、立ち止まってシャッターを切ったり、目に入るすべて物の感想を仲間と述べ合ったりしている。私も愉快にこの語り合いに参加したいところだが、そのイベントが本当に行われるのか気がかりで、どうも無邪気になれない。

 けたたましくベルを鳴らしながら、泉州名物のリンタクが我々の側をすり抜けていく。 

 「なかなか便利な乗り物だなぁ。」

お客さんの声を聞き、すぐさまガイド嬢は反応した。

 「乗ってみましょうか。」

 そこで我々は3,4人に分かれてリンタクに乗り込んだ。私はガイド嬢と同じリンタクに乗った。リンタクが動き出すと、ガイド嬢は運転手のおじさんに何やらきいている。福建語なので何をしゃべってるのかわからないが、どうやら今晩町でイベントが行われるかどうか確認しているようだ。リンタクのおじさんは首を横に振って答え、ガイド嬢はがっかりしたような表情を浮かべた。ぬぬっ、ますますいやな予感。しかし、長崎のご一行様のはしゃぎようを見ると、イベントはないかもしれませんなんて言えないようで、ガイド嬢は軽くため息をもらした。

リンタクから降り、我々はまた歩きながら散策を再開した。あたりもずいぶん暗くなってきた。

 「どのあたりであるんでょうね。」
 「いやー、楽しみですな。」
 「ガイドさん、一番よく見えるところに連れて行ってくださいよ。」

 とうとうご一行様は本日の一大イベントについて訊ね始めた。ギクリとしたガイド嬢、一瞬固まる。彼女のこめかみには冷や汗がタラーリ。

 「私もいろいろな人にきいてみましょうか。」

 この気まずい雰囲気を少しでも改善できればとガイド嬢にささやいてみると、

 「そうですね。すみませんが手伝っていただけますか。町の人に確かめましょう。」

 ご一行様にはしばらく自由行動ということにしておいて、ガイド嬢と私は手分けをして本当にイベントが行われるかどうか、そこら辺の人に聞いて回ることにした。交通整理をしているお巡りさん、公衆トイレ係のおばあちゃん、電話番をしているおばさん、時計を売っているおじさん・・・・といろいろな方々にお訊ねしたが、結局皆様“知らん”という答えを発したのだった。ガイド嬢の方も髪を振り乱し、走り回って訊ねていた模様だったが、喜ばしい答えは得られなかったようだ。

 「元宵節は灯籠のお祭でもあります。人民公園へ行ったら灯籠が飾ってあるそうです。そこへ行ってみましょう。」

 ガイド嬢は仕方なさそうに力なく促した。ううむ、泉州での催しをメインイベントとして期待していた長崎のご一行様がこれを知ったら、いとショックなりけりであろう。ご一行様に海のシルクロードツアーを勧めた日本の旅行会社の案内が無責任なのか、毎年行われるはずの催しを何らかの理由で取りやめにした泉州市の気まぐれなのかは定かではないが、きちんと確認ができていない連絡の不行き届きが明るみになったのは事実である。気の毒なのは期待を裏切られ、イベントの楽しみがぬか喜びに終わるであろうお客様と、おろおろしているガイド嬢である。

 中山路沿いにある人民公園では、確かに灯籠がそこここに灯されていたし、地元の老人会(?)の方々による胡弓や笛などの古典楽器の演奏が催されていた。大パレードは夢に終わったが、少しでも日本の風景とは違うものを残しておこうと、長崎のご一行様はカメラを向けたりビデオを回したりするのに必死である。皆さんがちょっとでも楽しめるように、私も三脚を固定したり、ビデオを回すお手伝いをしてすっかり添乗員気分。かわいそうなガイド嬢は責任を追及されるのを恐れ、我々とはやや距離を置きご一行様の様子を窺っている。

 ここで教訓。ツアーといえども中国ではどうなるかわからない。スケジュールを100%信じてはいけない。

 「いろいろお手伝いしてくれてありがとう。これ、ほんの気持ちよ。」

 長崎のおばさんが私のジーパンのポケットに何やらギュッギュと突っ込んだ。FEC(兌換券)50元札だった。こんなつもりでお手伝いしたのじゃないからとお返ししたが、

 「ううん、何かのタシにしてちょうだい。」

と、再びポッケにお札を突っ込まれた。元宵節のパレードはうたかたの夢と消え、ガイド嬢は信用を失い、ちょっと残念な夜であったが、ホテルに戻る頃にはお互い元気を取り戻したようだった。

 今後こういうことが起こりませんようにと祈りたい。アーメン。でも、きっとやっぱり起こるんだろうねと思いながら、次の日の朝、私はいただいた50元のFECで広州行きのバスのチケットを買ったのでありました。

(1990年2月)

テーマ:エッセイ - ジャンル:小説・文学


中国放浪回顧録
中国放浪回顧録 その9

【不良少年との遭遇 福建編】

 福建省の省都、福州の駅前にバスターミナルがある。列車を降りた私はもう少し南にある泉州という町へ行こうと、その足で長距離バスに乗った。真ん中よりちょっと後ろのほうの窓側の席に座り、出発を待つ。まだ乗客はまばらな状態だ。座席が埋まったらきっと出発するだろう。腕時計を見る。夕方5時過ぎ。泉州に着くのは9時をまわるだろうなぁ。うまく宿が見つかるかしら、なーんて気をもんでいると、隣の席に誰かが座った。反射的にその人の顔を見る。おっ!!思わず身構えてしまった。クリクリパーマの髪を肩まで伸ばし、ちょびヒゲをはやした20歳前後の男で、洗いざらしのジーパンにクリーム色のヤッケをはおっている。色黒、やせ型、中背、頬はこけており、ポケットからタバコを一本つまみ出した指も骨に皮が絡まったように細く、爪が伸びている。彼は周りの人のことなどお構いなしにタバコを吸い始め、だらしなく背もたれに寄りかかった。ムムム、なんだなんだこいつは。格好やお行儀の悪さからして待業青年(未就職の若者)で、しかもチンピラではないだろうか。勝手に想像をめぐらし、ちらちら男を盗み見る。ったく、妙なヤツの隣になっちゃったもんだ。更に憂鬱なのは、チンピラはこの隣のヤツだけではなく、私の後ろの席にも同類が二人いた。3人は仲間だと見え、下品な大きな声で会話している。リーダー格のヤツは私の斜め後ろに座っており、やたらとわめいては他の二人に命令している。(福建語だったからよくわからないけど) 

 今さら席をかわるなんてわざとらしいし、かといってチンピラグループとはかかわりあいになりたくないし。私は彼らと目を合わさぬよう顔を背け、窓の外を眺めた。あーん、早く泉州に着いておくれぇ。

 やがてバスは出発し、夕暮れの福州の町を走り出した。私はずっと窓に貼り付くようにして外の景色を見ていたが、しばらくしてから隣のチンピラが私の腕を軽くたたいたので思わず振り返った。

 「これ・・・・・」

 彼はそっとみかんを差し出した。旅先で物をもらうと断りきれない私は、つい遠慮なく受け取ってしまった。どうも、と短くお礼を言い、また窓のほうを見つめた。

 「あの・・・・君はどこへいくの?」

 チンピラはおずおずと私の様子を窺うようにきいた。質問を無視するのもナンだし、泉州、と答え、後は黙ってまた窓のほうへ顔を向ける。

 「君、一人なの?」
 「そう。」

 なーんだ。みかんをきっかけに私としゃべりたかったのね。だけど、さっき後ろの仲間と話してたような乱暴なしゃべり方ではなく、静かな口調だった。チンピラはなおも話しかけてくる。

 「福州の人?」
 「違う。」
 「じゃ、どこの人?」
 「日本。」
 「君、華僑か?」
 「いいえ、日本人。」
 「そう・・・・・」

 チンピラは突然黙ってしまった。びっくりしちゃったんだろうか。ヤツの顔をのぞき込む。彼は私から視線をはずすと、下を向いて落ち着きなく目をしばたかせた。隣に座っている女の子と気軽に話をしようと思ったのに、外国の女だったもんだからいったい何を話したもんかと困惑している、そんな風だった。

 「あなたはどこへ行くの?」

 今度は私がきいてみた。

 「石獅だ。」

 終点の町の名を答えた。

 「遊びに行くの?それとも仕事?」
 「それが・・・・・俺もよくわからないんだ。石獅で何か商売するかもしれないし。後ろの二人に任せてあるから・・・・・」

 まあ、やっぱりいい加減なやつらだったんだ。

 「あの・・・・・日本に行くにはいくらぐらいかかるのかな。」

 チンピラは唐突にきいた。今まで出会った中国人は数々あれど、会って間もなくこんな事をきく人は誰もいなかった。今度は私が驚く番だった。

 「日本へ行きたいの?」
 「うん。」
 「船で行くか飛行機で行くかで費用は違うの。それに行くったってね、簡単には行けないのよ。パスポートとかビザとかいろいろな手続きがいるし。」
 「ふう・・・・・ん。」

 チンピラはわかったようなわからないような顔で私を見た。折しもベトナム難民を装った中国人が、福建省からボートピープルとして日本へやって来るという事件が多発していた頃だったから、チンピラたちの間でも日本行きについては話題になっていたのかもしれない。さすが福建人ねえと呆れてしまう。

 日が沈んでビデオが上映された。このバスには運転席のすぐ後ろの上方部にテレビが備え付けられてあったのだ。1時間もののドラマが次々と放映されるのだが、どれもこれもB級C級ものばかり。やたら人を殺しまくるギャングものやら、中国でよくありがちな勧善懲悪のカンフードラマ、それにエロチックなものもあった。ポルノ禁止の中国、しかも公共のバスの中ってことで、さすがに女性のヌードはないにしても、イヤらしいシーンは随所に出てきた。横のチンピラは官能的な場面になると目を丸くして食い入るように見、またドンパチシーンになると自分も『ドキューンドキューン』と銃声の音を発して大フィーバー。まったく単純なこった。

 夕飯タイムとなり、バスはとある町に停車して30分ほど休憩した。私は食欲がなかったのでバスから降り、そのあたりをぶらぶらしていた。再びバスに乗り込んだ時、隣のチンピラが、

 「さっき、君は何も食べなかったね。」

と言った。おなかがすいていなかったからだと答えたのに、彼は自分のかばんからカステラを取り出して私の膝の上に置いた。なんぼ厚かましい私でも、この時ばかりは固く断った。が、チンピラはがんとしてカステラを引っ込めず、とうとう無理やり私の手に持たせた。

 「あなたの分はあるの?」
 「あるよ。だから君はそれを食べなよ。」

 結構優しいヤツじゃないの。好意を無にしちゃ悪いから、一口、二口とカステラをかじった。チンピラは私の食べる様子を見て、へへっと笑った。

 甫田という町を通った時、パレードとすれ違った。古代の衣装をまとった人たちが大きな竜と一緒に、赤、青、黄色などの美しい灯籠を灯しながら、ドラや太鼓のにぎにぎしい伴奏付きで練り歩いていく。この日は元宵節の一日前だったのでこういうアトラクションがあったのだろう。いかにもお祭といった華やいだ雰囲気に、乗客たちは一斉に窓の外を見やった。私も窓を開けて身を乗り出した。

 「おい、どうだ。きれいか?」

 チンピラの兄貴分がへたっぴいな北京語で私にきいた。

 「日本にはこんなのないだろ。」
 「ほら、見て。あの人の格好。」

 チンピラたちは口々に叫んで私を同調させる。元宵節を祝うパレードは退屈していた乗客たちをたいそう喜ばせた。行進していく人たちが、夜の闇にぽっかり浮かんで幻想的なムードをかもしだし、そこだけ別世界のように映る。やがてそれも見えなくなると、夜はいっそう更けていった。

 10時半頃、バスはやっと泉州に着いた。横のチンピラにじゃあねとお別れを言って、車掌さんに降りますコールをする。バスから降りてくる客を待ちかまえていた力車にすぐ飛び乗り、まさに行こうとする私に向かって、ヤツが窓から顔を出し何か言おうとしている。さようならって言うのかと思ったら、 

 「日本っていい国か!?」

と叫ぶではないの。本当に日本へ行きたいのかしら。

 「いい国よ。」

 叫び返して手を振ると、彼もにっこり笑って両手を振った。おかしなヤツ。チンピラと決めつけちゃって悪かったかな。でも、9分9厘そういうヤツだった。これからどんなヤバイ事をするのか、またはまっとうな道を進むのか、はたまた日本へ来るのかは知らないけど、悪い人ではなかったな。

 それにしても、親切にしてもらったのに、何もお返しができなくてごめんなさい。彼の食料をぶんどってのうのうとしていた私のほうがよっぽどチンピラだったかもしれない。ヤツの小さな親切は元宵節のパレードよりもくっきりと心に残ったのであった。

(1990年2月)

テーマ:エッセイ - ジャンル:小説・文学


中国放浪回顧録
中国放浪回顧録 その8

【不良少年との遭遇 甘粛編】

 列車の硬座(ハードシート)に長時間乗るのはまっぴらよと思っていても、貧乏旅行ゆえ乗らねばならないってのはつらいもんである。青海省はチャイダム盆地の中ほどにあるゴルムドという町から省都の西寧まで列車で24時間、ちょうどまる一日かかる。競馬のスタートさながらダッシュが肝心よという具合に、ゴルムド駅の改札を抜け、空席めがけて突っ走る。始発駅だというのに座席番号なしの自由席制らしいので、いい席取るには早い者勝ち。やったあ、今日は運がいい。私は一番に列車に乗り込めた。窓側の席に陣取ってピースサインでも出したい気分。ところが、喜ぶのはまだ早かった。後から私の周りの席に座った人はみ~んな工人(ゴンレン)と呼ばれる肉体労働者のむくつけき男ども。皆さんそれぞれ自分の布団持参で、つるはしやらシャベルやら仕事の道具もわさわさ持ち込み、車内はわやくちゃだわ、ほこりでもうもうだわ、こりゃあ大変。周り一帯どっさりと労働者で埋め尽くされ、逃げだそうにも驚きの余り力が抜けてしまった。

 この列車の旅、いったいどうなることかと心配したが、工人の皆さんは気のいい方々で怖い人はいなかった。それに、列車員のおじさんも“超”がつくほど親切で、私が寝ようかとうとうとしかけたら起こしに来て、網棚の上に載せてあるリュックをちゃんと見張っているようにと注意するのだった。おかげで列車に乗っている間中一睡もできなかったが。

 工人の皆さんは明け方になると列車を降りてしまった。嵐のように去ってしまったおじさん、お兄さんと入れ替わりに、20歳前後の若い男が3人私の向かいの席にドカッと腰をおろした。二人掛けの椅子だが、詰めると3人座れないこともない。3人ともどことなく不良っぽく、腕や手の甲には入れ墨のような妙な絵が描いてあった。座り方もだらしないし、飲み物を売りに来た列車員にいちゃもんをつけたりしている。特に私の真向かいに座ったいがぐり頭の男の子は最もお行儀が悪く、窓のところについている小さなテーブルの上に靴のまま足を上げたり、私の座っているすぐ脇まで足を伸ばしてきたりする。なんて失礼なヤツだ。 

 青海湖近辺の各駅では、プラットホームで魚の干物を売っている。青海湖の名物なのだろう、売り子のおばさんたちが手に手に干物を持って列車に乗っている人たちに、いりませんか~、と呼びかける。乗客たちは身を乗り出して品定めをし、買う気のある人は値切ったりしている。

 「いくら?えっ、高いよ。もっと安くしてってば。」

 いがぐり頭もしきりに交渉しているが、おばさんのほうもがんばって、なかなか負けてくれない。

 「ちょっと、その魚見せてくれよ。」
 「だめよ。お金を払ってからじゃないと渡せないよ。」
 「いいから見せろって。」

 いがぐり頭は素早く手を伸ばし、おばさんの手から干物を奪ってしまった。

 「返しなさいよ!」
 「買うって言ってるだろう。」
 「じゃ、ちゃんとお金払いなさい。」

 彼は胸のポケットから小銭を出してひらひらさせると、ぱっとおばさんに投げつけた。

 「足りないわよ、これじゃあ。」

 おばさんはお金を拾いながら大声で怒鳴る。しかし、そのときすでに列車は動き始めていた。おばさんは走って追いかけてきたが追いつけない。いがぐり頭はあっかんべえをするように、ヘラヘラ笑って干物を振る。んまぁ、なんて強引な買い方!騙し買いだ。彼はさっそく干物をかじった。実にワイルドな食べ方で、あっという間にたいらげてしまった。魚を食べ終えると、また私のお尻のすぐ横に靴のままの足をドンと置いた。まったく腹立たしいヤツだ。ムカついたのでにらんでやる。が、彼はいっこうに気にしていないみたい。不愉快なヤツの顔なんて見たくもないから、私はムスッとしたまま窓の外の景色を眺めていた。

 すると突然、いがぐり野郎が話しかけてきた。

 「あんたのその上着、広東で買ったのかぁ?」

 彼は私が着ているジージャンをじっと見据えている。ジージャンは中国でも普及していて若者は好んで着ている。私のはデザインがちょっとしゃれていると見たのだろうか、経済発展の進んでいる広東モノだと読んだのである。だけど、おあいにくさま。メイドイン広東ではないのだ。

 「日本で買ったの。」
 「ふーん、日本へ行ったことあるのか。」
 「私、日本に住んでるの。」
 「あんた、華僑?」
 「いえ、日本人。旅行で中国に来たの。」

 不良3人トリオは同時におっと驚いた。急に神妙になった彼らは目をぱちくりさせている。いがぐり頭も思わず私の椅子にのっけていた足を下ろし、行儀よくなってしまった。あららら、私が外国人だとわかったとたんに態度が変わっちゃったぞ。そうよ、やればできるじゃないか。はじめからそうやってきちんと座ってなさいよ。不良トリオの低姿勢に対して、私はちょっぴり居丈高。やったぜ、形勢逆転。今度はこっちの態度がでかくなる番がきたぞと思いきや、予想とは違った展開になっていく。不良たちはポンポンと私に質問を浴びせてきたのである。

 「君、ひとりなの?」
 「そう。」
 「女の子の一人旅?」
 「うん。」
 「どうして友達と一緒じゃないの?」
 「・・・・・・・・・・」
 「一人なんてつまんないじゃないか。あの山きれいだねとか、この食事おいしいねとか、おしゃべりする相手がいなかったら意味ないだろ。」
 「・・・・・・・・・・」
 「それに写真を撮る時も困るだろ。友達と一緒だったらお互いに撮りあいっこできるじゃないか。」
 「そうそう、一人じゃ寂しいし。」
 「第一、一人で旅行するなんて危ないよ。悪いヤツに捕まったりしたらどうするんだ。」 
 「いいかい、俺達はスリなんだ。怖いんだぞ。」
 「そうだ。注意しろよ。」

 3人は笑いながら腕の入れ墨をかざして見せた。はぁ、ごもっともでございます。なんと、気がついたらこいつらに説教されているではないか。しかし、君たち、不良かと思ったら結構まともじゃないの。自称スリの3人組は私から何かかすめ取るどころか、西寧駅に着いてから出口までリュックを持ってくれたのだった。どうもどうも、すみません。こちらがお礼を申し述べる羽目になってしまったのだった。

(1988年7月)


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中国放浪回顧録
中国放浪回顧録 その7

 【日本語を話す村】

 今は昔、まだ海南島が広東省に属していた頃のお話。E子と私はまだ台風の明け切らぬ荒れ模様の海を行く船に乗り、広州から海南島へと向かった。始終大揺れの船内はゲロまみれの修羅場と化していて、甲板に出てうっとりと海を眺めるなんてムードはかけらもなかった。26時間の船旅を終え、海口に着いた時は身も心もぐったり。地面を踏みしめていてもまだ揺れているような感じがする。ううっ、すっかり船酔いして、へろへろ状態だ。

 我々は海口からバスで7時間、島の最南端の三亜という町へ移動。ここは都会きどりのある海口と違ってのんびりしているし、ホテルは安いし、海はきれいだし、果物はおいしいしで大満足。さっそく三輪車(サイドカー付きオートバイタクシー)であっちこっち見て回る。三輪車のドライバーは痩せた色黒のおっちゃんで、私たちが日本から来たと言うと、やたら張り切っていろいろなところへ連れていこうとする。が、ドライブにも飽き、値段交渉も面倒臭くなってきた私たちは、ホテルの前でおっちゃんとお別れするつもりだった。しかし、敵は我々をなかなか放そうとしない。

 「せっかく三亜に来たんだからもっと観光しなさいよ。」

 日当稼ぎ者らしい商魂のたくましさには感心するが、そんなにそんなにつきあってはいられない。いりませんよぉ~と手を振った。それでもおっちゃんは去ろうとはせず、なんやかやと三亜をピーアール。からかい半分もあって、すごくおもしろい所があるんなら乗ってやろうじゃないと言ってみる。そうしたらおっちゃん、

 「わしの家がある村へ行こう。そこじゃあみんなが日本語を話す。」

とのたまうではないか。私とE子は顔を見合わせキャハハと笑ってしまった。熱心に客引きする余り口からでまかせを言ったんやろぉ。疑いの眼差しを向けるとおっちゃんは真面目な顔になった。

 「本当だよ。本当にみんな日本語を話すんだ。」

 おっちゃんがあまりにもムキになるので、いっちょ行ってみるかという気になり、私たちは再び三輪車に乗った。

 「よーし、行くぞ!」

 威勢よくかけ声をかけると、おっちゃんは力強くアクセルを踏んだ。ブロロロロロ、小気味よい音を発しながら三輪車は西に進む。15分ほど走っただろうか、車はスッと速度を落とすと、ある民家の前で止まった。

 「ちょっと待っててね。」

 おっちゃんはその家の2階に駆け上がった。むむむ、果たして彼の言ったことは信用できるのか。

 しばらくすると、おっちゃんが階段の上からおいでおいでをした。何だろう。ドキドキしながら私たちは2階へ上がった。と、そこはバルコニーになっていて、一人のおじいさんが籐の椅子に深々と身を沈めていた。外の景色を見ながら、昼下がりをのんびりとくつろいでいるという風だった。

 「この人は日本語が話せるんだよ。おしゃべりが終わったら下りておいで。」

 おっちゃんはそう言って、三輪車のところへ戻っていった。その場に取り残された私たちはおずおずとその老人に挨拶した。

 「アナタタチハ ニホンジン デスカ。」

 穏やかな表情を浮かべておじいさんが話しかけた。その言葉はまさに日本語である。

 「ニホンノ ドコニ スンデイマスカ。」
 「大阪です。」
 「ソウデスカ。ナガイアイダ ニホンゴヲハナシテイナイノデ ワスレテシマイマシタ。コドモノトキ ニホンゴ ベンキョウシマシタ。」
 若干たどたどしいところがあるにせよ、流暢な日本語である。
 「ワタシハ ガッコウノ センセイデス。コドモタチニ オシエマス。」

 おじいさんは目を細めながら、本当に嬉しそうにしている。昔を思い出すような懐かしそうな面持ちで笑みをたたえて私たちを見る。そして途中で何度も

 「ワタシノニホンゴ ワカリマスカ。」

ときき、自分のしゃべる日本語が正しいかどうか確かめた。その度に我々は大きくうなずく。

 「アチラニ テラガアリマス。ミマスカ。」

 おじいさんに促され、私たちは村を見学することにした。階下に降りて奥の方へ行くと小さなモスクがあった。ということは、ここは回族の村、イスラム教徒の村?

 「そうなんだ。僕も回族さ。」

 三輪車のおっちゃんがやってきて案内してくれた。モスクを取り巻くようにして家々が建っている。そして家のかげから子供たちが遠巻きにして我々を見ている。へんてこな外国人が来たもんだからみんな興味津々だ。私は子供たちに手招きする。と、みんなゾロゾロ近づいてきた。男の子、女の子、赤ん坊の弟や妹をだっこしている子、南国の太陽を受けた元気いっぱいの小麦色の肌だ。ほとんどの子が裸足のままだった。カメラを向けるとみんなキャーッと言って逃げていく。が、またおそるおそる出てきて私たちをのぞき見る。これを何度も繰り返しているうちに、騒ぎに気づいてか老人たちも出てきた。

 「ニホンジンカ。」

 突然の日本語に私もE子もギクリとする。回族の印である白い帽子をかぶったおじいさんが問いかけたのだった。我々がこっくりうなずくと、今度は別のおじいさんが、

 「ニホンゴ ワカルカ。」

 再びうなずくと、おじいさんたちは嬉しそうに目を輝かせた。

 「オマエ ホントニ ニホンジンカ。」
 「オマエ ニホンゴ ワカルナ。」
 「ソウカ。」

 そこに居合わせたおじいさんたちが口々に日本語を放った。でもちょっと待てよ。老人たちが話す言葉は確かに日本語だけど、えらく時代がかった言い方だなあ。

 「も、もしかして、ここって戦争中、日本軍がいたんと違うんかな。」
 「うん、日本軍がこのおじいさんたちに日本語を教えたんやわ。」

 E子も私もその後の言葉が出なかった。日本軍が海南島にいた・・・・・この南の島にまで来ていたのか。戦争の落とし物を見つけたようで、背筋がスーッと寒くなる。別に私たちが悪いことをしたわけじゃないけど、何とも言えぬ後ろめたい気持ちになった。が、おじいさんたちはとても嬉しそうに私たちを見ている。何十年かぶりでまた耳にし口にする日本語が懐かしいのか、

 「オマエ ニホンジンカ。」
 「ニホンゴ ワカルカ。」

と繰り返した。日本語を話せるといってももうほとんど忘れているようで、同じセンテンスばかりを繰り返している。軍人に教えてもらった日本語だから言葉じりのきつさにこっちは戸惑っちゃうのだが、老人たちの表情は優しく、無邪気な微笑みを浮かべている。私たちはおじいさんたちと子供たちに集まってもらって記念写真を撮った。当時の日本人と比べて、今の私たちは老人たちの目にどのように映っただろう。

 「どうだい。本当だっただろう。」

 帰り道、三輪車ドライバーのおっちゃんか゛得意そうに笑った。そうね。うそじゃなかった。足がすくむほどインパクトのある驚きだったけど、やっぱりこの村に来てよかった。私たちはこの日のことを胸にしっかりと焼き付けて海南島を後にした。

 あれからもう20年近くになる。海南島は海南省となり、同時に中国の経済特別区となった。投資が進み、外資系企業の建物がばんばん建ち、観光にも力を入れて旅行客もぐっと増えた。最近海南島を訪れた人の話によると、三亜もずいぶん変わったらしい。あの村も変わってしまったのだろうか。日本語を話すおじいさんたちは今でもお元気なのだろうか。

 もしもこれから三亜へ行く予定のある人がいたら、是非この村を見てきてほしい。  

(1987年8月)

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中国放浪回顧録
中国放浪回顧録 その6

 【窓から列車に乗っちゃった】

 1990年4月下旬、四川省は峨眉の駅で私は一人汽車を待っていた。峨眉山に登ろうと思ったのだが、頂上付近はアイスバーンになっていて滑りやすいから危ないだの、猿がいっぱいいるからよしたほうがいいだの、女の子一人で行くところじゃないだのと、周りの中国人に登山を阻まれ計画を変更。今日中に雲南省へ行く列車に乗って、早く次なる目的地、麗江へ行こうと思ったのだ。南方面へ行く次の汽車は、夕方6時頃到着だという。これに乗ったら金江で下車。金江から麗江行きのバスに乗り換えだ。金江駅着は翌朝6時半の予定。時刻表を見ながら頭の中で予習していると、誰かが肩をたたいた。

 「ねぇ、その時刻表見せてちょうだい。」

 私の隣に座っていた中年夫婦の奥さんのほうが私の時刻表を指さした。知らない人にも気安く声をかける・・・・これぞ中国ねぇ、と改めて感じつつおばさんに時刻表を渡した。 彼らはしばらく時刻表を眺めてから私に返す時にきいた。

 「あなた、どこへ行くの。」

 金江だと答えた後、私も夫婦にどこへ行くのかと訊ねた。が、どうも私の知らない町の名であった。

 「あなたとは反対の方向よ。北のほうへ行くの。ねぇ、もしかしてひとり?」

 朗らかそうな奥さんは、私の連れがいそうにないので不思議そうに訊いた。正直にそうだとうなずき、ついでに日本人であること、旅行で中国に来たことを言うとこの夫婦、目を丸くして驚いた。女の一人旅は中国人の常識外であるから、びっくりするのも無理はなかろう。

 夫婦は湖南省の人たちで、出張のため峨眉に来ていたらしい。これから四川省を回って家へ帰るつもりなのだそうだ。二人には娘さんがいるという。だからなのか私にも何かと気を遣ってくださった。近くの売店でビスケットや1リットル入りのコカコーラなど買っていただいたりしたもんだから慌ててしまう。恐縮至極でお礼を言うと、なんのなんのといった表情で笑う二人だった。

 1時間ほどこの夫婦とおしゃべりしていたが、そろそろ列車の到着時間になったので、私はリュックをかつぎホームへと向かった。

 「おい、この子を見送っておやり。」

 ご主人が促すまでもなく、奥さんは立ち上がって私と一緒についてきてくれた。南へ向かう列車に乗る人たちは、ゾロゾロ改札口を過ぎてプラットホームに押し出された。が、思ったほど人は大勢ではない。

 「金江までどのくらいかかるの?」
 「12時間ぐらいです。」
 「いいこと、列車が来たら窓からお乗んなさい。」
 「いえいえ、ちゃんと昇降口から乗りますよ。」
 「ううん、だめよ。あなたは外国人だから列車に乗るのにもたついてしまうわ。人より早く乗って席をとらないことには、翌朝までもたないじゃない。」

 確かに途中駅からの乗車だから、席があるかどうかは神のみぞ知る。峨眉駅から切符を買うとすべて“無座硬座”の指定席なしのものしかない。奥さんの言うことはよくわかるが、窓から乗るなんて考えただけでも恥ずかしい。

 列車がゆっくりとホームに入ってきた。果たして席はあるか?ちょっと胸がドキドキする。突然、奥さんが私の背負っているリュックをぐいと引っ張った。

 「ちょっと貸して!」

 彼女は私の背中からリュックをはぎ取って自分の肩にかつぐと、今止まらんとしている列車の中にいる人々に向かって叫んだ。

 「誰か一つ席をとってちょうだーい!ここに外人の女の子がいるの。お願い、まず荷物を受け取ってえぇっ!」

 言うが早いか、奥さんは窓から私のリュックを放り込んだ。と、うまいもので誰かがちゃんとキャッチした。

 「誰かこの子を引っ張り上げて!」

 奥さんの声に私は戸惑った。そんなことまでしなくていいですよ、と後込みしている間もなく、窓からニョッキリたくましい太い腕が伸びてきたかと思うと、私の両脇をがっしりつかんだ。顔を上げてびっくり。なんとその腕の持ち主は強そうな解放軍のお兄さんだった。どうりで筋肉もりもりのはず。あっという間に私の体はフッと浮いて、足が地面から離れた。そして気がついた時には、すでに車内に引き込まれていた。ゲームセンターでよく見られるUFOキャッチャーのクレーンにつり上げられるぬいぐるみのように、私はいとも簡単に、いとも軽々と引き上げられたのである。私の体が完全に車内に入ってしまうと、お兄さんは手を放した。奥さんの指示通り、窓側に一つ私の席が確保されていた。クレーンのお兄さんにも、荷物を預かってくれた人にも、周りの人にもお礼を言ったが、皆いいってことよというような顔をしている。

 窓からホームを見下ろすと、奥さんがにこにこしてこちらを見ていた。私が大声で座席があったことを言うと、彼女は何度もうんうんとうなずいた。

 やがて列車はゆっくりと動き出し、峨眉の駅を離れていった。私は奥さんの姿が見えなくなるまで手を振ってさよならを叫んでいた。

 「あの・・・・さっき、あんたの席をとってあげたからさ、ビール買ってくれない?」

 リュックを受けとめてくれた中年のおばちゃんは、実は車内で個人的に缶ビールを売っていたのだった。いいですよ、買いましょう。立ったまま12時間過ごすことを考えたら、それぐらい安いもの。1缶2元5角のビールを二つ買って、さっきの解放軍のお兄さんにプレゼントした。

 それにしても、初めて窓から列車に乗っちゃった。しかも人間クレーンで。峨眉の駅でお会いした皆様、本当にどうもお騒がせしました。

(1990年4月)

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中国放浪回顧録
中国放浪回顧録 その5

 【広州去るときゃひと騒動】

 広州は旅行者泣かせの町である。中国の中で最も経済の発達している町の一つとはいうものの、列車の切符が非常に買いにくい。香港行き、深圳行きの列車のは割と頻繁にあってすぐ手に入るのだが、内陸方面への票(切符)取りとなると振り回されてしまう。広州の人の心は皆南に向いているかのよう。“もう広州では往生しました”“切符買うの大変でした”“ピャオを求めてそりゃあそりゃあ苦労したわ、ほんまにくされ広州め!”と、旅行者は捨て台詞を残して広州を去る。広州を中国旅行の第一歩にした人にとってはまことにキツイ洗礼である。私も例外ではなかった。

 当時、私は広州から西安へ行く予定であった。そこでピャオ入手に早くから行動を起こしていた。まずは、切符の前売りをしている場所へ行ってみた。

 「西安行きの切符くださ~い。」
 「ありません。」
 「四日後のもないんですか。」
 「そんなのもうとっくに売り切れ!これが見えないの!?」

 えらい剣幕で窓口のおばはんに怒鳴られて、彼女の指さすほうを見ると張り紙がしてあった。それには『本日の切符完売』とある。もっとよくあたりを見回すと、この売り場は『五日前から切符売り出し』と書いてあった。ということは、四日後の切符なんてとっくの昔に売れてるわけね。あらま、がっかり。すごすごと退場しようとしたところに、チンピラ風の兄ちゃんに呼び止められた。

 「切符ならあるぜ。どこ行くの?」

 ダフ屋だった。しかし、こいつは250元で売ってやると言うではないか。広州から西安まで、確か120元ぐらいのはずだ。正規の値段の倍以上で売ろうとしている。即座に断った。ダフ屋の野郎はここにいっぱいたむろしていて、皆手に票をいっぱい握りしめている。こやつらが発売と同時に買い占めているのかと思うと、えも言われぬ怒りがこみ上げてきた。

 次にCITS(中国国際旅行社)へ行ってみた。ここの職員はすこぶる愛想が悪い。

 「西安行きのはありません。」 
 「えっ!ここCITSでしょ。どうしてないんですか。一等寝台も扱ってないんですか。」
 「うちは北京行きのならありますけど、西安行きはないんです。」
 「じゃ、どこで西安行きのチケットが買えるんでしょうか。」
 「知りません。」

 くそったれ女職員は能面のような表情でボソボソ答えた。別の旅行社へ行っても、別の切符売り場へ行っても空振りだった。そんなもんあらへんと一蹴されたのである。この日はもうこれだけでくたくた。どっと疲れを背負い込んで、友人宅へ身を寄せた。

 そして翌日。もうダフ屋から買ってやる!と、きのうのチンピラのいた前売り券売り場へ行った。兄ちゃんを捜すと、あ、いたいた。だけど、ちょっと待てよ。こちらから先に交渉したら、足元を見られるかもしれない。あっちから声をかけてくるまで待っていよう。私はダフ屋の前を何度もうろうろした。が、彼らはまったく私に気づかない。どうして外国人だってわからないのよォ。いくら日本人と中国人と似てるからって、ちょっとばかし格好が違うでしょうが。ブツブツ独り言を言って、はたと思い当たった。今日は大雨なので、私はズボンを膝までまくり上げ、サンダルばきといういでたちであった。これじゃー旅行者に見えないわけよね。そこで大急ぎでバックの中に入れてあったウエストポーチを腰に巻き付け、ズボンの裾を足首まで下ろしてうろちょろすると、兄ちゃんの一人が寄ってきた。 

 「どこへ行きたいの?」

 西安だ!3日後の!2等寝台!いくら?え、そんなに高いの?もっと安くしてよ!と交渉していると、いつの間にか兄ちゃんたちが10人ぐらい集まってきて私を取り囲んでいた。

 「あんた、外国人でしょ。じゃ、もうこれ以上負けられないよ。」
 「外人なら兌換券で出しな。」

 悔しいから人民元半分、兌換券半分と言ってやる。

 「それじゃあ売れねえな。」

 こうなったら奥の手。半泣きの顔を作り、お願いン©と言う。

 「この子一人だけだし、こうやって頼んでるから、ま、許してやるか。」

 リーダー格の兄ちゃんが切符を一枚くれた。馬鹿にされているのか、なめられているのか、妙にむかついたのでやつらをにらみつけた。

 「あんたたちずるいわよ、こんなことやって。普通の人が切符買えないじゃない!」
 「でも、結構儲かるんだぜ。あんたも一緒にやるかい。」

 あーあ、気が抜けちゃう。こんなこと言われると怒る気も失せ、つい笑ってしまったじゃないの。ダフ屋の兄ちゃんにバイバーイと見送られ、友人S子宅に戻った。そして、切符入手のいきさつを話していたら、S子の同僚の中国人の先生がムムッとうなった。

 「もしかしたらその切符、偽物かもしれませんよ。広州ではニセの印刷がよく出回っていて、騙されている人がいっぱいいますからね。」

 えーっ!!私は飛び上がった。せっかく手に入れた切符が偽物だとすると、列車に乗れないってことでしょ。そんな殺生な・・・・・ 

 「でも大丈夫ですよ。もし偽物でもね、乗ってしまったらいいんです。見つかったらエーンエーンって泣いちゃえばいいんですよ。」

 そうは言っても偽物かもしれないと聞くと心は落ち着かない。騙されたかもしれないなんて、頭に血がのぼるくらい腹立たしくなってくるではないか。しかし、あたふたしても始まらない。もう買ってしまったんだからしょうがない。偽物だろうが乗ってやろう。そしてばれたらアドバイス通り泣いてやる。そう心に決めて駅へ、いざ。

 西安へ行く日もすごい大雨で、やはり私はズボンを膝までたくし上げ、サンダルをはいていた。背中にリュックを背負い、改札口に並ぶ人の中に混じって検札を待つ。私の後ろには、どうやら西安の人らしい兄ちゃんが二人、大荷物を抱えて立っている。彼らは私を見て言った。

 「君も大変だねぇ。商売なんだろ。僕らもそうなんだ。」

 えっ・・・・・私は絶句。傍らでは私を見送りに来てくれたS子が、しゃがみ込んで悶絶するほど笑っている。 

 「こんなに荷物を背負って。小さいのに一人とは感心だ。」

 兄ちゃんたちは私のリュックサックをしげしげと見つめていたのだ。彼らは私を行商に来た娘と勘違いしたみたい。S子はまだ突っ伏すようにして笑っている。まったく友達甲斐のないヤツだ。そーよそーよ、どうせ私は旅行者には見えませんよー、といじけつつ兄ちゃんたちとともに改札を通ったのであった。

ところで、ダフ屋から買った切符はというと、何のお咎めもなかったところを見ると本物だったようだ。オーバーブッキングかもとはらはらしていたが、私の寝台は他の誰かとは重なってはいなかった。泣く準備をしていたが、ああ、よかった、ほっとひと安心。無用な涙は流さずにすんだぜ。

 広州を去る時は本当に大変。さらば、煩わしい広州め!

(1990年2月)

テーマ:エッセイ - ジャンル:小説・文学