|
中国放浪回顧録 |
中国放浪回顧録 その4
【ホータンへの道withやっさん運転手】
「あーあ、またかぁ。」
と、几帳面な大和撫子が長いため息をつくところからホータンへの道は始まる。場所は早朝のカシュガルのバスターミナル。待合室は人でごっちゃごちゃの状態である。やっとゲートが開いても、バスにはっきりと行き先が表示されていないこともあって、人々は皆自分の乗るバスを探しまくって右往左往することになる。私も次々に行き先をきいて回る。そしてやっと見つけた、ホータン行き。しかし、運転手も車掌もまだ来ていない。乗客はバスを取り囲んでひたすら扉が開くのを待っている。と、突然検察係の人が現れた。皆我先に切符を切ってもらおうと彼に殺到する。バスに乗り込むのも競争だ。私も負けじとバスになだれ込む人々の中へタックル。ようやく席にありつき、座れたとしてもすぐになど出発しない。これからが長いのである。
バスの出発時刻は午前8時ということだったが、新彊では定刻通りに出ることは稀に等しい。1時間2時間の遅れはざらである。原因は運転手の寝坊、車の整備の不十分、乗客が大きな荷物を屋根の上にのっける作業にえらく手間取っている、座席をめぐって乗客同士が大げんかなど、さまざまである。私の乗ったバスも例外ではなく、8時をとうに過ぎても出発の気配はまったくなし。実際にターミナルを出たのは10時を過ぎていた。やっぱりこうなるのよねぇ、とため息をつかずにはいられない。
出発までの約2時間の間、私はおとなしく割り当てられた座席に座って待っていた。運転手の兄ちゃんは運転席のドアにもたれかかり、ウイグル族のおじさんたちがあーでもないこーでもないと、荷物を屋根に積み上げているのを見ながら、しょうがねえなぁとつぶやいた。彼はふと私に気づき、
「あんた外国人?日本人だろ。」
と声をかけた。いつも中国人に間違えられる私だが、リュックサックが日本人とわかる大きな決め手となったようだ。
「前においでよ。俺の隣にお座り。」
運転手の兄ちゃん、言うが早いかさっさと私のリュックを運転席へ運んでしまったので、仕方なく私は席を移動した。新彊の長距離バスは、運転手や車掌が座る部分と一般の乗客の席とが引き戸で仕切られている。引き戸の前に座れるのは運転手、車掌、彼らの家族、親戚、友人、知り合いなど関係者という場合が多い。だからなんだかスペシャルシートに座ったような気分になる。
お待たせしました、やっと出発だあ。よっこらしょってな具合でバスが動き出す。出発して間もなくすると、そこはもう殺伐としたタクラマカン砂漠の中。見えるものといったらただ荒涼と広がる大地のみ。その中の地平線まで続く一本道をバスはひたすら走っていく。
「こういう道が何時間も続くんだぜ。」
運転手の兄ちゃんがでっかい声で説明する。年の頃は20代後半ぐらいのこのドライバー、頭を3分刈りにして鳥打ち帽をかぶっており、なかなかスマートで細面。なのにやたらドスのきいた声を発し、元気いっぱいで威勢がいいから見た目とは違って話すと迫力がある。ガラッパチというか、組の若いモンというか、つまり横山やすしのようなノリなのであった。私が北京に住んでいると言うと(当時私は北京で日本語教師だった)、
「北京の生活のことを話してくれ。」 「俺にも日本語教えてくれや。」 「日本の歌を歌ってくれい。」
などなど次々と注文を出してくる。私も暇なんで一つ一つそれに答えた。が、会話がとぎれると、
「おい、何でもいいから話してくれ。黙っていると気が狂いそうだ。うおおおおぉーっ!ぎええええぇーっ!!」
と叫びだす始末。単調な景色の中を走るのだから、ミスターやっさんも気が滅入るのだろう。しかも、毎日のように同じ道を行ったり来たりしているとなおさらだ。なんのことはない、退屈しのぎに私を横に連れてきたのね。まったく、なんてヤツだ。
しかし、バスに乗っている間中、私はミスターやっさんの世話になった。そろそろお昼どきという頃、
「どこで休もうかな、あんたの好きなところで停めてやるぜ。」
なんて言う。そんなこと私が決めてもいいのかいな。結局、葉城という町で休憩となったが、この時もやっさんのてきぱきした指示を仰ぐことになった。
「まずな、あそこに便所があるからちゃんと済ましてこい。それが終わったら食事だ。こっちの食堂で待ってるからな。一緒に食おうぜ。」
まるで私の保護者だ。食堂でもやっさん節がうなる。
「何が食いたい?注文してやっからしっかり食えよ。たくさん食わなきゃ怒るからな。」
食事が運ばれてくると、彼はもりもりご飯を食べながら瓶ビールをラッパ飲み。あっという間に2本流し込んでしまった。運転する身だっちゅうに大丈夫なのかと心配すると、
「こんなもんぐらい平気に決まってらー!」
ギャハハと笑い飛ばす。ところがところが、再びバスを出発させた後何分かすると、案の定やっさんはハンドルを握ったままこっくりこっくり頭を揺らし始めた。私はぎょっとして青くなった。急いでやっさんの肩を揺さぶった。ほーら、言わんこっちゃない!
「いやぁ、悪い悪い、眠ってしまいそうだったぜ。もしまた俺が寝てしまいそうになったら、たたいて起こしてくれ。」
やっさんめ、あっけらかんとした調子で私にこう頼んだ。ちっとも悪びれてないんだから。ったく、もお!こういうわけで、やっさんがうつらうつらしだしたら、私がどついて起こすという状態がしばらく続いた。引き戸の後ろにいる乗客の皆さんは知らぬが仏。
バスは相変わらず殺風景な砂漠の中を突き進んでいく。時折強い風が吹いて地面の砂を激しく巻き上げ、グルグル渦巻きを作りながらうねっていくのが見えた。目の前に広がる果てしない漠々とした大地の迫力に圧倒され、タクラマカンに畏敬の念を覚える。じりじり焼けつくような真夏の太陽の下でこんな所を走るのだから、長距離バスを運転するのは大変なことだ。しかし、やっさんは疲れたなんて言葉を全く口にしない。それどころかますますご機嫌にテンションが上がっていく。そして、私にも乱暴ながらも何かと気を遣ってくれて、親切にしてくれたのだった。
ホータンに着いたのは夜の10時。12時間のバスの旅を終え、私はやっさんと固く握手をした。
「おう、また俺のバスに乗りなよ。」
と、やっさん。はははははは、パワーが十分あったら是非そうしたいものだわ。
(1992年8月)
スポンサーサイト
テーマ:エピソード - ジャンル:小説・文学
|
中国放浪回顧録 |
中国放浪回顧録 その3
【ヤンピーファーに乗れた!】
中衛の黄河を間近で見ようとトコトコ歩いて行くことにした。まっすぐ南へ行きさえすれば黄河に着くらしい。じゃ、さっそく出発。歩き出すとそこはもう農村地帯だ。とうもろこし畑や小麦畑が広がり、緑がたいそう美しい。農民がロバを引いて通ったり、農作業をしたりする姿を見ながら黄河への一本道を進む。道の両側にはポプラ並木が続いている。並木の終点には大黄河が堂々と流れていた。
中衛賓館のおばちゃんは黄河まですぐだと言っていたが、1時間余りかかった。やはり思った通り川幅が広い。しばらくの間この泥色の河の帯を感動しつつ眺めていたので気づかなかったが、私のほかにもう一人黄河見物に来ている人がいた。少し離れたところにおじいちゃんが立っていて、双眼鏡で対岸を見ているようだった。彼も私に気がついて、
「あんた、さっきせっせと 歩いておったじゃろう。わしがこれで追い越したの、知っとったかね。」
と、話しかけてきた。見ると、おじいちゃんのそばにバイクがあった。といっても自転車にエンジンをつけただけのものだったが。
「あんた、この辺の人じゃなかろう。東北の人かね、上海の人かね。」
日本の者だと答えたら、
「ほほう、里帰りか。親戚がここにおるのか。」
私を中国人だと信じて疑わない。旅行で来た日本人で、中衛も初めてだと言ったら、
「はは~ん、あんたのお母さんが華僑なんだね。」
ときた。いいえ、違うの、違うのよと、ようやくわかってもらったのだが、おじいちゃんはこの事実にひどく驚いた様子だった。
しばらく二人でおしゃべりしてから町に戻ろうということになった。帰りはおじいちゃんのバイクの後ろに乗っけてもらってラクチン。ホテルに帰るつもりだったが、もうお昼になっていたため、
「わしの家に寄って飯でも食べなさい。」
と勧められ、素直に従うことにした。私の辞書には遠慮という言葉はない。
おじいちゃんの家には奥さんと息子さん、そして息子さんのお嫁さんがいた。家族の皆さんは突然登場した日本人にびっくりしていたが、何もないけれどお食べ、とマントウだの漬け物だの、にんにくだの出してくれた。にんにくは生でがぶりとかじる。これは北方中国の習慣だ。
「シャーポートウへ行った?」
食事をしながらお嫁さんが私に訊く。はて、シャーポートウ?見たこともなければ聞いたこともない。まだだと答えると、
「せっかく中衛に来たんなら行かなきゃ。ねぇ、連れてってあげたら?」
彼女は義父と夫に言った。
「バイクでそう遠くないわよ。」
お嫁さんは玄関に置いてあるオートバイを指さした。驚いたことに、質素なおうちながらももう一台バイクがある。玄関のは息子さんのものだった。
こうして私は沙坡頭(シャーポートウ)に連れて行ってもらうことになった。息子さんの後ろにまたがり、なんか妙な心境だよんと思いながら出発。おじいちゃんも自分の愛車でGO!沙坡頭までの道は車などめったに通らない。2台のバイクは並んでブイブイ突っ走る。乾いた熱風を体に受け、寂寥感ある道をぶっ飛ばすのは最高の気分。たとえ髪の毛が逆立っちゃってバリバリになってもだ。
30分ほど走って沙坡頭に着いた。なるほど、すでに観光地になっていると見えて、入場券売り場があった。切符をもいでもらって中に入ると、そこは砂山のてっぺんであった。やけどしそうに熱い砂山を駆け下りて、あっ、と叫んだ。私を釘付けにしたのは写真撮影用のラクダでも砂漠の中の果樹園でもなく、黄河に浮かぶ羊皮筏であった。ああ、夢にまで見た羊皮筏が今目の前に・・・・
「乗りたい?」
息子さんにきかれ、正直にうなずいてしまった私。回族が生活に使っているものではなく、観光用の羊皮筏だが、本物には変わりない。本当にこれって毛と肉を引っ剥がし、内蔵を全部取り去った羊の皮をそのまんまの形で膨らませて浮きにしているんだな、ということがわかった。私の乗ったのは14匹分の羊さんの皮袋が木枠の下にロープで結わえられていた。羊皮筏にそうっと乗って座り、しっかり木枠の縁のところを持った。息子さんも心配して一緒に乗ってくれた。
「ちゃんと乗った?しっかりつかまってよ。」
と船頭さん。ちょっと心細くなって、大丈夫ですよねぇ、と訊き返す私。だって、ここの黄河はカーブしているからかなり流れが速いのだ。
「ああ、大丈夫だろう。あ、でもこの間、別のやつが転覆しちゃって4人死んだからね。同じ河でも場所によって流れの速さが微妙に違うんだ。」
船頭さんは悠長に答える。えーっ、うそでしょォ、それを早く言ってよ、それを!もう乗ってしまったじゃないの。アレェーッ、ほんとだ、結構速く進むのね。ひゃあ~、ジェットコースターよりスリル満点。わああ、流されてく。おおい、船頭さん、ガンバってよ~っ。
「本当に今日は流れが速いな。あんまり下の方まで行くとやばいかもしらんから、ここらでやめとこう。」
船頭さんは羊皮筏をグイッと岸に引き寄せた。 ああ、ドキドキしちゃった。下りてからもぜぇぜぇ息をする。船頭さんもお客も死なばもろとも、命がけなのね。
「ちょっと怖かったね。」
息子さんも感想を述べた。やっぱり彼も怖かったんだ。でも、束の間だったれど羊皮筏に乗れたんだ。やったね!後からじわじわと嬉しさがこみ上げてくる。
一通り沙坡頭見物をしてから、私たちはまた来た道をバイクで飛ばして帰った。ホテルの前で降ろしてもらい、お礼を言ってお別れした。すっかりお世話になってしまったおじいちゃんと息子さんに大感謝。そして羊皮筏にも感謝する私であった。
(1988年7月)
テーマ:エピソード - ジャンル:小説・文学
|
中国放浪回顧録 |
中国放浪回顧録 その2 【中衛賓館のおばちゃん】
堂々たる黄河を見たい!
思い立ったが吉日、蘭州から中衛へ行こうと突然決めた。確かに蘭州も私が好きな町の一つ。市内に黄河が流れているステキな町だ。でも蘭州の黄河は幅がえらく狭い。 「加古川ぐらいやんか。」 と兵庫県加古川市出身のお兄ちゃんも言ったぐらい迫力がない。そんなこって、もっと幅の広い黄河を求め、心は中衛へと飛んでいく。
「中衛って寧夏回族自治区のはずれでしょうが。そんな所へ行ってどうするんだ、何もないぞ、おもしろくないに決まっている。」 蘭州飯店の同じ部屋に泊まっていた香港人グループにさんざん責めたてられたが、私の決心は変わらなかった。
そして私の狙いはもう一つ。回族が住むこの中国西北部では羊皮筏子(ヤンピーファーズ)という読んで字のごとく、羊の皮でできた筏が見られる。前に何かの本で読んだことがあるが、中衛へ行けばうまくいったらの話、これに乗れるかもしれない、と書いてあったので好奇心がムクムク。
さあ、蘭州から列車に乗って中衛へ出発。が、私が乗ったのは慢車。ちんたら走る各駅停車だった。中衛まで距離的にはそう遠くないのにやたらと時間ばかりかかる。朝出発したのに中衛に着いたのは夕方6時半を過ぎていた。人に道を訊ねながら中衛賓館にチェックイン。フロントで安い部屋を求めようと思ったら、服務員さんのほうが先に言った。
「ドミトリー7元です。」
ちょっとぉ、私一応外国人旅行者よぉ。とっぱなから安い部屋を勧めるなんてひどいじゃないっ。まあ、しゃあないわ。だって、中国旅行を始めてもう2ヶ月たったもんだから、Tシャツはすすけ、ジーパンは洗いざらし、背中のバックパックはばっちくなっちゃって、顔も腕も土方焼け。その上暑かったんで体中汗でびちょびちょ。こんな女を見てスイートルームを勧める服務員がどこにいようか。どう見たって私なんか絵に描いたような貧乏旅行者よ、フン!ま、しかし、希望通りの部屋があたったんだからラッキーラッキー。
ここのホテルの人は皆親切であった。おなかがすいたよぉ、晩ご飯食べたいよぉ、とフロントでじたばたすると、服務員さんが私のリュックをかついで餐庁に案内してくれた。そして、コックのおじさんに、
「この子、日本人なんです。何か作ってあげて。」
と頼んでくれた。もう餐庁(レストラン)は閉まるところだったのだ。
夕食を済ませ、部屋に行く。ドミトリーは離れの建物の2階だった。ベッドが五つ置いてある大部屋だ。お客は私一人。貸し切りみたいだ、嬉しいなあ。さて、大汗をかいたのでシャワーを浴びたくなった。シャワー室はどこかと探し回ったが、ない。トイレは見つかったのにシャワー室はどこを探してもない。ドミトリーの服務員さんにきいてみると、風呂はないと言う。え~っ、うっそー、ショック!汗みどろの私はがっかり。しかし、こんなに大きいホテルなのになんでシャワーがないんだ?服務員のおばちゃんいわく、
「一日おきにお湯が出るの。今日は出ないけど明日は出るわよ。あっちの本館にシャワー室があるから、明日そこへ行きなさい。」
そうか、ここは乾燥地帯の町であった。しょぼんとしている私を気の毒に思ったのか、おばちゃんは突然にこっとして、
「大丈夫よ。私にまかせなさい。」 と言うが早いかタタタタ・・・と一階へ下りて行った。しばらくすると、おばちゃんは大きな金だらいをガランガラン引きずって私の部屋へ持って来た。
「これを使うといいわよ。ちょっと待っててね、今、お湯持って来るから。」
おばちゃんはまた身をひるがえし、どこかへ消えたと思ったら、なみなみとお湯の入ったバケツを運んで来た。ザバーッと金だらいに注ぎ、また階下へ。おばちゃん、そこまでしなくてもいいってば。私が言ってもおばちゃんはただにこにこして、
「いいから、いいから。」
と何度もバケツにお湯を汲んできては金だらいにあけるのだった。
「お湯が冷めてからゆっくり入りなさい。終わったら言ってね。」
優しい言葉にすっかり甘え、私はなんと部屋の中で行水することになった。お湯で汗を洗い流せば、おばちゃんの親切が体に染みわたる。こんな一介の旅行者に大変な思いをして行水の用意をしてくれるなんて、とってももったいなく思われる。感謝感激の気持ちで体中じぃ~んとなる。
行水を終え、湯の始末をするべく金だらいを洗面所まで引っ張っていこうと思った。が、ただでさえ重いたらいにお湯が入っているもんだからなかなか動かせない。洗面所は部屋を出て廊下を30メートルほどまっすぐ行ったところにある。うんせうんせ引っ張っていたら、おばちゃんがやって来た。
「いいわよ、いいわよ、私に貸してごらん。」
おばちゃんはたらいの縁をぐっとつかみ、廊下と壁の間から下に向かって中のお湯をザザーッと一気に捨ててしまった。えっ、ちょっと、そんなことしてもいいの?もし下に誰か歩いていたらどうするの。おろおろする私を見ておばちゃんは
「大丈夫よ。」
と平気な顔で笑うのだった。そして、金だらいを引きずって、じゃあね、と行ってしまった。
おばちゃんは回族で、その象徴である白い布の帽子をかぶっていた。年は40歳後半ぐらいか、50歳前半ぐらいだろうか。丸顔で、小柄で、ちょっと太っていた。人なつっこい笑顔のおばちゃんは最後に言った。
「一人で旅行なんかするもんじゃないよ。今度来る時は友達と一緒に来なさい。ボーイフレンドと一緒が一番ね。」
確かにそうよね。 中衛賓館を離れる際、おばちゃんときつく抱き合ったっけ。今度おばちゃんと会う時は彼氏と一緒と約束したが、残念ながらいまだその約束を果たせないでいる私であった。
(1988年7月)
テーマ:エピソード - ジャンル:小説・文学
|
中国放浪回顧録 |
中国放浪回顧録 その1
【恐怖の硬座でインタビュー】
列車の旅・・・・・なんとのどかな言葉の響きだろうか。ほのぼのと、且つ穏やかな情景が浮かんでくるような美しい日本語ではないか。座席に着き、おもむろに窓を開ける。と、心地の良い爽やかな風が頬を、髪を優しくなぜつけながら車内へ流れ込んでくる。次々と変わりゆく景色を、うっとりとした気持ちで頬杖をつきながら眺める。やがて列車は山あいを縫っていく。緑色の自然が心をなごませる。「あぁ、キレイ」女はそっとつぶやくのであった・・・・・チョン!
すべての列車の旅がこうであるとは限らない。女は「あぁ、キレイ」の代わりに「あぁ、キライ」と叫ぶこともあるのだ。
5月半ばのある日、私は上海駅の人混みの中でもみくちゃになっていた。私の手には一枚の切符があった。上海発広州行きの切符である。実はこの切符、上海で泊まっていた回力ホテルのおじさんにとってもらったものだった。大人口を抱える中国では交通手段が少なすぎるため、列車の乗車率は常に100%を超えている。しかも大都市の広州行きとなるとあっという間に切符は売れ、多くの人はお預け状態となる。私もその一人であった。広州まで34時間かかるというから是非とも寝台券がほしいと思ったが、それは甘い考えだったのだ。外国人に優先的に切符を売ってくれる中国国際旅行社(CITS)に行っても無理だった。確実に寝台券が手に入るのは一週間後であると言われた。そんなにのんびり待っている場合じゃなかったので困り果てていると、回力ホテルのおじさんが手伝ってあげようと言ってくれた。ラッキー、ああ助かった、おじさんどうもありがとう。と、頼んだはいいが果たして無事に切符が買えるものか、一抹の不安が胸をよぎった。
翌日おじさんは一枚の切符を手渡してくれた。それは紛れもなく広州行きの切符であった。が、彼は少々申し訳なさそうに頭をかいた。
「切符買えたことは買えたんだけど、硬座なんだよ。それにこれは中国人料金で買ったんだ。ま、あんたは中国人に見えるし、中国語も少しできるから大丈夫だろう。」
えーっ、うっそぉ!34時間ずっと腰掛けたままだってぇ。硬座というのは乗った方はご存じだろうが、椅子は薄いビニールで覆われているだけでかなり硬く、クッションはほとんどない。しかも座席の部分と背もたれの部分がかっきり直角である。でも、急ぐ旅だ。仕方がない。腹を決めて乗ったろう。おじさんは人民料金で買ってくれたのだ。2倍の外人料金を払わんですんだのだ。感謝しなくちゃいけないってもんだ。
かくして私は上海駅から決死の覚悟で硬座に乗り込んだ。始発からして席はなく、車内は見渡す限り人人人・・・・・駅に停車する度大勢人が乗ってきては傍らに立つ。通路もどんどん人で埋まっていく。これではトイレに行くにもひと苦労だ。こんなすし詰め状態の中で34時間耐えられるだろうか。しかも人民料金で乗ってしまっている。ばれたりしたら回力ホテルのおじさんの苦労も水の泡。私はかなり緊張していた。想像以上に硬座はキツイ。夜も寝るどころではない。途中から人がたくさん乗ってきたので、地べたに寝ている人や網棚で寝ている人で、すでに車内はぐちゃぐちゃだ。ほんとにリタイヤしかけそうだった。でも、席があるだけ、私などまだましなほうなのだ。
それでもやっぱり押し黙ったまま過ごすのは、苦痛以外の何ものでもない。周りの人に何か訊ねられても、小さい声で短く答えることの辛さといったら。えーい、列車員にさえばれなきゃいいんだー、と同じ席に座っている人たちには私が日本人であることを言ってしまった。さあ、それからが大変。隣に座っていた上海人の夫婦、向かいの席の広東人の若者がいろいろな質問を浴びせてきた。
「広州までは長いからね、しゃべっていたら気が紛れる。」
と、上海人のご主人のしゃべることしゃべること。そして、中国人の質問パターンが繰り広げられる。
「あんたのその腕時計はいくら?中国元ならいくら?」 「日本じゃカラーテレビいくら?」 「豚肉一斤いくら?」
How much攻勢に受けてたち、電卓を取り出しいちいち中国元に換算し始めると、あっという間にそこらの人が我々を取り囲み電卓をのぞき込む。
それから約半時間後、通りかかった列車員に肩をたたかれた。
「あなた、日本人なんだって?」
ガーン、ショック!!ついにばれてしまった。どうしよう、罰金はらわなくちゃなんないじゃない。見つかるならせめてもっと前にみつかってほしかったよ。30時間過ぎてからばれるんだっら今までの苦労は何だったの。疲れと、暑さと、情けなさと、睡眠不足と、周りいったい人だらけの不快さとで、私の頭の中はハレーション。青ざめた私に列車員のお兄ちゃんはにこにこスマイル。
「あのね、実は君のことを取材したいって言う新聞記者がいるんだよ。よかったら列車員室に来てくれない?」
なあんだ、そういうことだったの。私は車輌の端にある列車員室に連れて行かれた。すると、さっき電卓をのぞき込んでいた男の人が立っていた。彼は無錫の新聞記者だったのだ。銀縁のめがねをかけた聡明そうなその青年は、手帳を取り出すとインタビュー開始。きゃあ、どうしよう、これって新聞に載るんでしょう。恥じらいつつも厚かましい私はほいほい答える。中国の印象、中国人の印象、どうしてひとりで旅をしているのか、これからどこをどう回る予定か、などなど一問一答形式で20分ほど話した。その後は列車員のお兄ちゃんたちも交えて座談会。
「僕らに言ってくれたら寝台に換えてあげたのに。」
優しい列車員さんたちは口々に言う。しかし、寝台に乗っていたら硬座の雰囲気などわからなかったろう。
結局3時間遅れて広州に着いた。37時間の硬座の旅。ラストは新聞記者さんと列車員のお兄ちゃんたちと、鉄腕アトムの歌や山口百恵の『赤い疑惑』の主題歌を歌ってにぎやかに終わったのであった。めでたしめでたし、ハッピーエンドの硬座の旅かな。
(1988年5月)
テーマ:エピソード - ジャンル:小説・文学
|
|