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アジアぶらぶら顛末記 |
アジアぶらぶら顛末記 ネパール編
その2【ポカラの父上様】
カトマンズでの意外な展開に見切りをつけ、荷物をまとめてバスに乗った。行き先は観光地として有名なポカラである。ポカラで更にネパールの‘詐欺師’容疑が深まるのか、それともネパールの神に救われるのか、賭けたいような気持ちになった。
ポカラの町はメインストリートの両脇にゲストハウスとレストランが建ち並ぶ、絵に描いたような観光地だった。バスを降りたとたん大柄の男に通りの端っこに位置するゲストハウスへ否も応もなく連れて行かれた。男はゲストハウスのオーナーだった。ポカラでは当ゲストハウスでおくつろぎくださいというようなことを言われ、カウンター上の登記簿にサインさせられた。どうやら乗ってきたバスの会社とグルらしい。旅人にゲストハウスを選ぶ権利が与えられないとは不愉快だ。こんな姑息な手を使うなんて甚だおもしろうない。ふん、気に入らなければ出ていきゃいいや。そう思ってまずはこの宿にチェックインした。
大観光地のポカラには欧米の旅行者や、香港、韓国、台湾、我が同胞日本の旅行者が数多くいた。しかしながら私が泊まっているゲストハウスには私の他に欧米系の男性2名しかいないようだった。皆どこに泊まっているのだろう。まあ、これだけたくさんゲストハウスがあるんだから、それぞれ分散しているんだろうな。宿の商売も競争なんだなぁ。ああ、だからなのか、ここのオーナーが私に対して始終にこやかで愛想がいいのは。大仏様のような天然パーマ、口髭を生やした太めの親父さんだが、見た目の迫力と違いとても優しい。部屋の設備も悪くないし、結局ポカラの一週間をこのゲストハウスで過ごしたのだった。
このゲストハウスに来て3日ほど過ぎた時、オーナーが手招きして話しかけてきた。
「1階のあの部屋にあなたと同じ日本人が泊まっているよ。」
私が寂しそうにしているとでも思ったのか、こう教えてくれた。確かに1階のフロントに一番近い部屋に背の高い男性がいた。ロビーですれ違ったときに声を掛けてみたら、間違いなく日本人だった。彼も一人旅らしく、話し相手もいなさそうだったので自然と二人で話すようになった。男性は富山県の人で、タイからネパールへ入ってきたと言った。あ、タイなら私も行ったことがありますよ、とタイ話に花が咲き、次の日もロビーで話し込んだ。
ある時、一緒に晩ご飯を食べに行こうと約束したので玄関の所で『富山』さんを待っていたら、オーナーが近づいてきた。
「あのう、その・・・あんまり知らない男の人と仲良くしすぎないようにね。あいつの部屋に入り込んだりしちゃいけないよ。」
オーナーの言葉にしばし呆気にとられたが、その後おかしくなって吹き出した。まるで自分の娘に忠告する父親のような台詞じゃないの。なんだか、赤ずきんちゃんになったような気分だ。それに第一、『富山』さんのことを教えてくれたのは当のオーナーなのにねぇ。だけど、ちょっぴり嬉しい。オーナーは心配してくれているのだ。オーライ!そこんところはちゃんと気をつけますよん。
ポカラ4日目のこと、体調を崩して寝込んでしまった。舗装されていない道路を車が通る度物凄い土埃が立つのだが、それを吸い込みすぎたせいなのか喉がいがらっぽくなり、熱が出、ついには吐いてしまった。医者に行って薬をもらい一日寝ていたが、やっぱり何か食べなきゃもたないだろうと思い、白粥を作ってくれるようオーナーにお願いしてみた。
「オーケー、すぐ作るよ。できたら部屋に持って行ってあげるからね。」
オーナーは快く承諾してくれて、1時間後にまっ白なお粥を持って来てくれた。このお粥のお陰と薬の効果でその後回復し、翌日の午後にはすっかり元気になった。 その日の夜、晩ご飯を食べにゲストハウスを出ようとしたらオーナーが呼び止めた。
「キッチンでご飯食べない?」
え、どういうこと?恐る恐るキッチンに入っていくと、オーナーの親戚だという女の子が二人いて、どうぞと手前の椅子を指した。それに腰掛けしばし待つ。ほどなく給食のプレートのような平たい器にダルバート(ネパールの家庭料理、豆スープとご飯のセット)を盛って目の前に置いてくれた。私は彼女らとともにダルバートをいただいた。レストランで食べるダルバートよりも豆が多く、マイルドで優しい味だった。女の子二人はさすが食べ慣れたもんで、指で上手にご飯をすくい、ひょいひょい口の中に運ぶ。彼女らの手の動かし方はダイナミックでリズムカルであったが、それが妙に優雅に感じた。大きな動作はなんだか作法のようにも見え、彼女らの着ている質の良いサリーが更に食べ方を品位あるものにしていた。ネパールの小笠原流かしらん。私も彼女らを真似してみたが、ご飯をこぼしちゃうわ、すくいそこなうわでうまくいかない。女の子らは私がダルバートと悪戦苦闘している様を見てキャラキャラ笑った。結局ギブアップしてスプーンをもらうことになってしまったのだが。
食事の後オーナーが聞いた。
「おいしかった?」
ええ、とっても。
「じゃ、今度からここで食べればいい。ここだったら安心だよ。もう病気にはならない。」
オーナーは私の体の具合を心配してくれていたのだ。気を遣っていただき恐縮至極。本当にかたじけないことだ。この日からポカラを去る日まで夕食のときはキッチンでご飯を食べることとなった。本当だったらお金を払わなくちゃいけないところなのだが、いいよいらない、とオーナーは受け取らない。なんだかここの家族の一員になったようだった。
いよいよポカラ最終日。次はグルカに行く。公共のバスに乗ることにしたはいいが、どこにバス停があるのかわからなかった。オーナーに聞いても知らない様子。そうか、困ったな。すると、
「じゃ、探してみよう。心当たりはある。たぶん・・・あっちだ。」
オーナーは自分のバイクを出してくれた。後ろに乗せてもらい、彼が知っているというバス停に行った。しかしそこはバスも人も少なかった。
「ちょっと待ってて。聞いてみるから。」
オーナーはそこら辺の人にグルカ行きのバスについて尋ね回った。私はその間リュックを背負ったまま立って待っていた。
突然背中にぐっと重みを感じた。急にリュックが重くなったのだ。どうしたんだろう。後ろを振り返ってギョッとした。大きな犬が前足を私のリュックの上にのっけ、後ろ足で立っているではないか!でっかい犬だ!背の高さが私と一緒だ。顔と同じ高さに犬の顔がある。きっと真横から見たら前へならえの姿勢になっているんだろう。リュックを揺すって犬の前足を振り落としたのだが、ヤツはまたひょいっと前足をリュックにかけ、後ろ足で立つ。よっぽど気に入られたのか。こらこら、私は雌犬じゃないぞ!犬に間違えられるとは情けない!あー犬め!いい加減にせんか!もう一度リュックを揺すぶった。が、犬はしっかりと爪をひっかけているのかびくともしない。
その時オーナーが戻ってきた。犬が私にしなだれかかっている様子を見るや、血相を変えて走ってきた。そして何か大声でわめきながら犬の頭をポカポカ殴った。さすがの犬もゲンコツで叩かれたらたまらない。悲しそうに逃げていった。
「バス停はここじゃないみたいだ。急いで!」
オーナーは再びバイクを走らせて正しいバス停まで連れて行ってくれた。そこにはたくさんのバスが停車していて、大勢の人がいて、多くの家畜も連れられていた。今度は間違いなさそうだ。私はオーナーにお礼を言った。
「またポカラにおいで!気をつけて!」
丸い目を細め、口髭をピクンと上げてオーナーは手を振った。本当に本当にダンニャバード(ありがとう)。こんなにお世話になったのに上等な挨拶ができなかった。グルカへ向かう小型バスの中で他の乗客やヤギとともに揺られながら反省したが、もうどうすることもできない。ネパールに来たばかりの時には出逢えなかった神様に、ここポカラで出逢えたような気がした。オーナーのお父さんのような優しさが雪をかぶったマチャプチャレと同じくらい印象深く残るだろうな。、ずっとずっとヒマラヤの万年雪のように消えないだろうな。
ヤギがバスの中でジャーッとおしっこをたれた。おしっこが飛び散ってそのハネがジーパンの裾についた。これもついでに記憶の中に残しておこう。シミのように。
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アジアぶらぶら顛末記 ネパール編
その1 【本当に神の国なのか】
旅行会社のカウンターでパンフレットをあれこれむさぼり読んでいたら、ネパール旅行のパンフレットにはやたらと魅力的な言葉が踊っていた。“世界の屋根に眠る神々の国”とか“旅人に優しい癒しの国”とか“マチャプチャレのふもとに温かいネパリの笑顔”とか、どれもこれも旅心をくすぐる誘惑的なキャッチフレーズが並んでいる。ヒンドゥの神が宿る彼の国にはありがたい何かが待っている。心癒される何かがある。遙か彼方からあたかも後光がさしてくるような、憧れにも似た気持ちにかき立てられ、ネパールはいつか行ってみたい国のリストに入ったのだった。
更に、世界中を歩き回ってきた旅の達人たちから「ネパールいいよ」「ネパール、行っとく価値あるよ」などと異口同音にネパールを誉め称える言葉を聞けば、もうじっとしていられなくなった。100人が100人ともよい国だと思うなら行くっきゃない!いざ目指せ神の国!いざ行かんカトマンズ!というわけで、ロイヤルネパールエアーに乗り、着いた着いたネパールだあ~!
さぁて、どんな素敵な国なんだろうと期待に胸躍らせて町を巡ってみるも、出逢うものといえば観光営業トークであった。
「トレッキングニ イラッシャイマスカ?」
いえいえ、いたしません、と丁重にお断りしたのだが、
「ドウシテ トレッキングニ イラッシャイマセンカ?」
と食い下がってくる。どうしてって、そりゃあなた、人の勝手でしょうが。私はそんなしんどいことなんてしたくないのさ。ただ自由に町歩きをしたいだけ。それにその“イラッシャイマスカ”とか“イラッシャイマセンカ”とか敬語表現がどうもしっくりこないな。なんでだろうかと思ったら、“イラッシャル”以外はすべて友達に話しかけるような会話調の話し方をするからだった。とにかくトレッキングには行かないと答えると、
「エ?マジデ?ジャア、イツ トレッキングニ イラッシャイマスカ?」
・・・・・だ・か・ら・行かないって言ってるでしょ!会話に疲れるのだった。
トレッキングのお誘いを避けるためカフェに入ってお茶を飲む。すると、隣のテーブルの男が話しかけてきた。
「アー ユー ジャパニーズ?」
そうだよ、日本人だよ、文句ある?
「アイム ネパリ。ユー アー ビューティフル。メアリー ミー、オーケー?」
なっ、何だよ急に!ユー アー ビューティフルまではいいだろう、そうだ、ビューティフルだ。それは正しいぞ。だけど、なんで会ったばかりのあんたと結婚せなあかんのだ。
「だって僕は、ここにいたら一生貧乏から抜け出せない。僕と結婚して日本に連れてってくれよ。ここから連れ出してくれよ。」
このバカ者め!女を口説くのに本心をさらけ出してどうする!そんな下心はちゃんと隠しときなさい!逆タマ狙いならもっと作戦練りな!まったく、この国の男はデリカシーのかけらもないのか!
ああ、こんなとこからは早く立ち去ろう。カフェから逃げるようにして今度はダルバール広場にやってきた。広場の石段に腰掛け、ここなら落ち着きそうだなと一息つくも、
「ニホンジンデスカー」 「ネパール ハジメテ?」
流暢な日本語を操るネパールの男性が4,5人近づいてきた。な、なんだ、こいつら!
「コレカラ ドコ イクノ?」
なんだよ、馴れ馴れしいな。どこへ行こうと私の勝手だ。しかし、なんでそんなに日本語が上手いのか?
「ワタシノ カノジョ ニホンジンネー。」 一人の男が懐から一枚の写真を撮り出し、見せてくれた。そこにその男と一緒に写っているのは東アジア系の女性だ。この人があなたの彼女?
「ソウ。トモコ。トモコハ ヨク ネパールニ クル。」 「ニホンノ ジョセイ ネパール スキネ。」 「ニホンノ ジョセイ チョー ヤサシイ、ホントニ。」
わあー、やめろ!その俗っぽい言葉!こんなタメ口っぽい日本語だったら、さっきの“イラッシャイマスカ”のほうがまだましだ。だけど、あんたら何か誤解してないか?日本人の女という女がすべて女神だとでも思ってるの?だいたいトモコだってさ、君のことネパールの友人くらいにしか思ってないかもよ。
「ネパールジント ケッコンスル ニホンノ ジョセイ オオイデス。」 「ワタシモ ニホンジント ケッコンシタイヨ。」
こらこら、あんたら、揃いも揃って何を言う。中には甲子園球児が選手宣誓でもするかのごとく片手を挙げて『日本人女性と結婚するのが私の目標です』なんて張り切って叫ぶ者もいる。そんなこと言ったってアンタ、そんなに簡単に夢が実現するのか。
・・・・・それが実現するのだった。この日入ったレストランのマスターの嫁は日本人女性だった。また、サリーを身に纏った東洋風の女性と道ですれ違ったのだが、その人もネパール人に嫁いだ日本人だと後で知ることとなった。なるほど、成功例はそこらへんに結構転がっているのね。ということは、トモコがネパールに永住する日も近いかもしれないねェ。そうか、そういうことだから皆さん俄然日本語学習に熱が入るわけだ!日本語を学ぶ動機がここカトマンズでははっきりしている、と思わずメモっちゃうのだった。
しかし、日本人女性ってそんなに期待されているのか。
「そうよ。たとえ中古車だって日本製は質がいいのよ。」
とは、バツイチの後ここカトマンズへ嫁に来た日本人女性の弁。彼女はカラカラと高らかに笑い、冗談よと言いながらもどことなく自信たっぷりの様子で、すっかり開き直っていらっしゃった。そうなのかー。人と車とではちと違うような気もするが、売り手市場のネパールなら、メイドインジャパンは高値で売れるんだな。よーし、自国でどうしても売れ残ってしまったらもう一度この国に来よう、とまたメモる私であった。
それにしても、これがネパールの現実だとは。本当に神が宿ってる国なんかい!旅人に優しい国なんかい! 町を歩けば下心丸出しのプロポーズ、歯科医院に入れば法外な治療代の請求、風邪引いて内科へ行けば必要以上に胸をタッチするスケベ医者・・・これがありがたいのかネパールめ!これが温かいのかカトマンズめ!何が笑顔だ!何が癒しだ!あのパンフレットに書いてあったウキウキするような言葉は全部嘘っぱちだったじゃないか!旅行会社も相当あくどい。 スワヤンブナート寺院に描かれた半開きの眼に向かって「詐欺師め~!」と拳を振り上げ叫ぶ私だった。
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アジアぶらぶら顛末記 |
アジアぶらぶら顛末記 ベトナム編
その4 【尼寺でランチ】
話はちょっと後戻りする。ヒリと運転手さんの三人でドライブ旅行をしている最中のことである。 ニャチャンを出て更にやや南下した辺りで急に車が動かなくなった。
「あれ、おかしいなぁ。エンストかぁ?」
運転手さんは顔をしかめ、車を降りるとボンネットを開けて故障した箇所を調べた。ちょっといじってまた車に乗り、エンジンを掛けるもうまくいかない様子。
「二人とも外に出てちょっと待てて。」
運転手さんは本格的な修理に取りかかった。ヒリと私は指示通り外に出て、運転手さんが車の下にもぐったりボンネットの中を覗きこんであっちこっちいじくってたり大格闘しているのを眺めていたが、こりゃ長期戦になるぞと確信した。ギラギラ照りつける南ベトナムの太陽は容赦ない暑さで迫ってくる。じっとしているだけでも額から汗が流れ落ちた。ヒリと私は影を求めて少し移動した。
車からちょっと離れた場所に建物があった。これはいったい何なのか。ヒリが中に偵察に入った。が、すぐに出てきた。
「ここは尼寺だよ。僕は入れないけど、君は入ってみれば?」
ヒリに促され私はおっかなびっくりお寺の中に入ってみた。お邪魔しま~す、失礼しま~す・・・恐る恐るお堂の方に近づいてみる。すると、誰かが私に気づいた。あ、挨拶しなきゃ。「ザオヂー」と会釈すると、お堂の中にいた女の子達が集まってきた。彼女らからの興味津々の視線を浴び、あらあらどうしましょうと立ちすくむ。しかし彼女らは私を責めるどころか笑いながら手招きするではないか。え!いいの?更に迷っていると女の子達の後ろにいつのまにか年配の尼さんが立っていて、彼女まで優雅な手つきでおいでおいでしているのだった。
靴を脱いでお堂の中に入り、ひとまずここは自己紹介だなと思い、尼さんに話しかけた。私は日本人であり、今中国で働いているのだが冬休みなのでベトナム旅行に来たわけで、現在優しいベトナムの方とともに車で移動しているところなのだが、ここでエンストしてしまい・・・・と、不得意な英語で説明したのだが、尼さん、ちっとも聞いちゃあいない。と言うか全く通じていない様子。私の英語のひどさもさることながら、尼さんのほうも英語がわからないんだろう。それでも尼さんはにこにこ微笑み、お寺の中を一通り案内してくれた。
私が歩くと女の子達が金魚の糞みたいにぞろぞろついてくる。彼女らは最初のうちこそ遠巻きにして見ていたが徐々に距離が縮まっていき、しまいには彼女らに手を引かれてお寺の中を歩いていた。4歳くらいの幼い子から小学6年生くらいのお姉ちゃん格まで、合わせて10人くらいに取り囲まれて尼さんの行く先をついていく。女の子がこんなに集まれば「キャー」とか「ワー」とかいう声が常に発せられ、お祭りみたいに賑やかだ。
そんな時尼さんが、あ、そうそうというふうに、部屋の隅にしつらえた飾り棚を指さした。そこにはミニチュア座布団の上にちょこんと鎮座ましましている一塊の木片があった。大人の握り拳くらいの大きさだ。尼さんは恭しくその木片を手に取り見せてくれた。匂いを嗅いでみろという仕草をするのでその通りにすると、なるほどなんともかぐわしき上品な香がする。白檀のお扇子の匂いに似ているな。そう、これは香木だった。なのに私は香木の価値をよくわかっていなかった。教養の‘あふれた’人なら「これは珍しい、立派な香木ですね」とか、「おお、見事な香木、希少価値ですね」などとコメントもできようが、悲しいかな教養の‘ありふれた’凡人ゆえ、「ああ、いい匂いの木だ」「トイレに置いたらいいですね」くらいにしか感想がわかなかった。ずっと後になって伸助の『なんでも鑑定団』を見て香木のありがたみがわかったのだが。
こんな物知らずの私に尼さんも女の子達も親切にしてくれた。ほらほら、こっちおいでというように広間に招き入れてもらったら、そこには長いテーブルがあった。テーブルの上には等間隔にきちんと箸が並べられている。今から食事タイムなのか? 座りなさい、と尼さんに促され、遠慮がちにテーブルの角の方についた。すると、もっとこっちこっちと女の子達が手を振る。しょうがないので移動だ。テーブルの中ほどに位置づけされる。
やがて料理がどんどん運び込まれ、お膳の上は賑やかになった。お寺であるゆえもちろん精進料理だ。野菜の煮物を中心としたおかずが何種類か鉢に盛られて出てきた。尼さんも女の子達もそれぞれの席に着き、ちゃんと正座をした。
「アンゴーン、アンゴーン(ご飯よ)!」
尼さんが私に向かって、また女の子達に向かって食事開始の合図をした。それでお箸を親指で挟んで真横に持ち、日本語で「いただきまーす」と叫んだら、女の子達はくすくすきゃらきゃら笑う。鈴の音のような可愛い笑い声の中、私は尼寺ランチをいただいた。柔らかく煮込んだ野菜は日本の田舎風煮込みによく似ていて、懐かしく大変おいしい。私がパクパク食べる様子を見て、尼さんは目を細めてまた
「アンゴーン、アンゴーン!」
と笑った。“この煮付け具合がとてもいいですね”とか“懐かしいお味で、お婆ちゃんを思い出します”とか言いたかったのだが、そんなベトナム語は知らないので結局「ガンモーン(ありがとう)」としか言えない。ガンモーン、ガンモーンと連発しながら食べていると、横からご飯のお代わりを茶碗に入れられた。確かにおいしいから食が進むのだが、こんなに食っちまっていいのだろうか。尼さんは「アンゴーン!」とまた叫ぶ。よーし、こうなりゃ皆の気が済むまで食べてやろう。
ごちそうさまをした時はお腹がはち切れそうだった。腹八分目が仏教の教えではないのか。十分目を通り越して十二分目か十三分目だ。げっぷを我慢しながら後片づけを手伝う。女の子達は手分けしてきびきびと手早く食器を洗い、テーブルを拭き上げた。
おっといけない、ヒリや運転手さんのことを忘れていたな。私はここでお昼をいただいちゃったわけだが、この間運転手さんは修理に奮闘し、ヒリは炎天下で汗を垂らしながら待ち続けているに違いない。腹一杯になってから彼らのことを思い出すなんて、まったくいい気なもんだな。
「それじゃ、帰ります。」
尼さんと女の子達にお別れの挨拶をすると、彼女らはにこやかに手を振ってくれた。なんのことはない、私はこの尼寺に突然押しかけ昼飯を食って出てきただけじゃないの。虫のいいヤツというか、ちゃっかりしているというか、我ながら呆れてしまう。
尼寺を出たところで運転手さんとヒリは待っていてくれた。もう車は直ったようで、二人とも車の中でお喋りをしていた。
「楽しかった?」
ヒリが聞いた。
「うん、とっても。中で昼ごはんいただいちゃった。」
申し訳ない、運転手さん、ヒリ・・・・
「そう。よかったじゃない!」
ヒリは自分だけご飯にありついた私を非難しなかった。運転手さんは再び車を走らせた。
それにしても・・・・・あんなにたくさんご飯をいただいちゃってよかったのかな。質素を旨とするお寺ではご飯は感謝しつつ大事にいただくもの。尼さんや女の子達の食料をピンハネした私は罪深き旅人だな。 女の子達も身寄りのない子達や、口減らしのために預けられた子達なのかもしれない。尼さんを母親代わりにお寺に身を寄せる彼女らが作った食事を簡単に巻き上げちゃうとは如何なものか。いただき過ぎちゃったから少しお返ししましょうか、というようなこともできないし。・・・・反省だ。 後部座席の窓を開け、尼寺の方を振り返る。もう二度とお会いすることもないだろう尼さんと女の子達にもう一度「ガンモーン」とつぶやいた。そうだ、後ほどお礼の手紙を書いて送ろう。あ、でも、住所知らないや。うぬっ、お寺の名前も確認しなかったではないか!あ~、なんと間抜けな私。再び反省する。修理が終わった車は軽快に南へと飛ばしていた。
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アジアぶらぶら顛末記 |
アジアぶらぶら顛末記 ベトナム編
その3【越僑大学生】
フエ最後の日の朝、ホテルで朝ご飯を食べていると一人の男が話しかけてきた。
「これからホーチミンまで車で行くんだけど、一緒にシェアしてくれる人を探していんだ。君はどう?」
見ると若い男だ。子どもでもない。清潔そうだから乞食でもない。シェアしてくれる人を探していると言うのだから旅行者に違いない。しかも結構いい男だ。待ちに待った「ラマン」の人か!?いや、待てよ。わたしゃどうも調子に乗ると悪い結果を招きやすい。ここは押さえて押さえて。色気を出すとかしなを作るとか、女の武器など微塵も出すまいぞ。
私が押し黙っているものだから、相手は向かい側に座って自己紹介をはじめた。
「僕はベトナム人なんだ。と言ってもベトナムにいたのは赤ん坊の頃の話。その後はオーストラリアに移り住んで今に至ってる。僕、シドニーの大学に通ってて、今夏休みを利用して(あ、そっか、南半球じゃ今がサマーバケーションなんだ)初めて自分が生まれた国に帰ってきたんだ。車を雇って北から徐々に南下していき、町を見ていこうと思ってるんだけど、一緒に行ってくれる人がいなくて。一人でずっと車を雇うのも大変だし、だから・・・・」
ほほーっ、ベトナムの若い男だー!そんでもってベト僑、いや越僑!!きのうまで夢に見ていたインテリベトナム青年の登場だよ~!!カランコロン、カランコロン(鐘を鳴らす音)!おっと、落ち着けー!落ち着け、私!今彼を毒牙にかけるのは、いや違った・・・餌食にするのは、・・・じゃなくて、その気にさせるのはまだ早い。ぐっとブレーキ踏んでまずはこの人の話を聞こうじゃないの。
「もしよかったら一緒に行かない?」
越僑はもう一度尋ねた。彼が誘ってくれたのも私が真面目そうに見えたからではないか。その期待を裏切るのは武士道の道を歩んできた日本人としてできぬことだ。あ、もしかしたら私のこの凛とした美しさが彼の気を惹いたのやもしれん。ううん、きっとそうだ。大人の女の色香につられたミツバチ君よ、この魅力でもってあなたを参らせてみせましょうぞ、くっくっく・・・おっと、いかんいかん、もう調子に乗るまいとさっき誓ったばかりじゃないか。よだれをふいて姿勢を正す。ベトナム人大学生のお誘いに、大和撫子は慎ましやかに恥じらいながら「はい」と返答いたしましてよ。
越僑大学生の名はヒリといった。オーストラリアではヘンリーと呼ばれているそうだが、この際名前などどうでもいい。楽してホーチミンまで行けるのだ。その間じっくり時間をかけてヒリを弄ぼう・・・じゃなくて、じっくり観光しよう。
こうして私はヒリが雇った車に乗り込んだ。運転手さんは初老のおじさんで、少し英語を話した。ヒリは助手席に座り私は後ろのシートを一人で広々と使えた。運転手さんも、眠くなったら横になって寝ればいいよ、と言ってくれた。ヒリと運転手さんはベトナム語でずーっと喋っていた。ベトナム語は声調が5種類くらいあるみたいだし、鼻から空気がフ~ッと抜けていく鼻音が多いようだし、聞いていると言葉というより歌のように感じる。そんな彼らの歌うようなお喋りを聞いていると、実際何度も眠りに引き込まれたのだった。
私たち3人はフエからダナン、ニャチャン、ホイアン、ダラッ、ホーチミンと徐々に南へ下っていった。途中で休憩を入れながら、食事しながら、宿泊しながらののんびりしたドライブだ。食事の場所はいつも運転手さんがいい場所を選んでくれた。やっぱりベトナムの人と一緒だとこういう点、得である。 海の町ではおいしい魚や貝の海の幸をたらふく食べ、観光地では洒落たオープンカフェ風のお店に入り、ダラッではホビロン(孵化寸前の鶏の玉子を茹でたもの)をつまみに名産の甘ったるい赤ワインを飲んだ。上げ膳据え膳ですまないと思いつつも、ベトナム語がわからないのでどうしようもなかった。オーダーから何から何まで運転手さんに頼るより他なかったのだ。
さてホーチミンに着く前の晩、ダラッを少し南下した町で宿泊することになった。
「運転手さんは友達のうちに泊まるんだって。僕らはゲストハウスに泊まろう。」
ヒリは運転手さんに紹介されたゲストハウスに入っていった。なるほど、運転手さんは友達がいるからわざわざこの町に立ち寄ったのね。ヒリはゲストハウスの受付の人とチェックインの話をしていたが、ちょっと困ったような顔で私の方を振り返った。
「部屋が一つしか空いていないらしいんだ。僕ら同じ部屋でもかまわない?」
えーーーっ!な、なんだって?ヒリと同じ部屋?それはチャンス・・・じゃなくて、そ、それは困ったな。ダナンではヒリと運転手さんが一部屋、私が一部屋だったもんで、今日もてっきり別々だと思っていたのだけれど。男女が一つの部屋に泊まるってことは、ちょっとそれって微妙なことですよ。ホテルに行ったら偶然一部屋しか空いてなかったんです、なんてテレビドラマみたいなシュチュエーション、そうそうないぞ。ひょっとしてこれは神様が与えてくれた絶好の機会かも。あ、いかんいかん、変に想像しちゃうと顔がニヤけてしまう。しゃんとしなくちゃ。私があれこれ考えているのを困惑しているととったのか、ヒリはさらっとした調子で言った。
「大丈夫。心配しないでよ。」
ヒリと私は同じ部屋にチェックインした。シングルベッドが二つ並んだ小さな部屋だった。もう夜も更けている。明日の朝はまた早い。シャワーを浴びてすぐ寝なきゃ。私たちは交代にシャワー室を使い、交代に歯を磨き、それぞれのベッドに入って電気を消した。
「グッナ~イ!」
と挨拶したら
「アイ ホープ ソウ。」
とヒリが返事した。何だよ、アイ ホープ ソウって。あんたは何をホープしてるの。何事もなく無事に朝を迎えることを望んでるの?それともナニかい、セクシーな年上女に押し倒されることをホープしてるの?日本のお姉様に可愛がられたいかい、坊や。今宵二人でうっふんあっはんドラマチックに盛り上がるグッドナイトな展開に持ち込んでほしいわけ?・・・などと考えているうちに深い眠りに落ちてしまった。疲れていたのだ。気がついたら朝だった。
翌日お昼過ぎに車はホーチミンに到着した。フエから続いた我々のドライブ旅行もここで解散だ。ヒリと運転手さんにお別れをする。ヒリとは結局何もなかった。あーん、残念・・・じゃなくて、と、と、当然よ!ヒリはいい人で紳士だからに決まってるじゃないの!同じ部屋に泊まっといて何もしなかったとはけしからーん!などとはこれっぽっちも思っていませんよ、これっぽっちも!これっぽっちもって言ってるでしょ!!何ですって!?ヒリが手を出さなかったのはあんたに魅力がなかったからだろうですって!?お黙り!失礼ね!私の気高くまばゆいばかりの美しさとミステリアスな色気をご存じないの?フ-ンだ、フーンだ、フーーーーンだ!心の中でつぶやきながらも、爽やかに手を振るヒリに、これまた爽やかな笑顔でもって手を振り返したのであった。
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アジアぶらぶら顛末記 ベトナム編
その2【求む!ラマン的な出逢い】
ベトナム出発前、中国の友人や同僚から「ベトナムなんて、なーんでそんな後れた国に行くの?電気が通ってないよ、きっと。懐中電灯持って行きなさいよ、絶対!」とブーイング混じりに言われた。仕方なくリュックに懐中電灯をしのばせてきたのだが、今のところまだコイツの出番はない。電気がないなどという不便な思いはもとより、イヤな思いも困った出来事にも遭遇していなかった。広州のベトナム領事館で受けた丁寧な応対から始まって、ベトナムの旅はトントン拍子に進んでいたのだ。
ハノイのゲストハウス二日目のこと、オーナーの知り合いだというフランス人が遊びに来るからということで昼食会が開かれた。オーナーの妹さんはお料理が得意らしく厨房で腕をふるっていたが、私にも声を掛けてくれた。関係のない私まで海鮮どっさりのご馳走ランチにありつけたのだった。これも日頃の行いのよさが功を奏したと言えよう、なんちゃって。
ハノイの夜はゲストハウスの近くにある一杯飯屋で食事をとった。スープ、炒め物、煮魚などの家庭料理を出す店で、日本の田舎料理を彷彿とさせる懐かしい味わいが気に入り、四日間通い詰めた。店のおばちゃんはとっても親切で、言葉は全然通じなかったがいろいろサービスしてくれた。二日目には頼んでいないおかずまで2,3品出てきて、三日目には値引きしてくれて、四日目にはタダになった。どうも一緒にテーブルを囲んだおじさんが私の分も払ったようだった。ずいぶんたくさん食べたけど、いいのだろうか・・・。ま、可愛さを振りまいたからいいとしよう。
ハノイの次はフエへ行こうと、駅へ列車の切符を買いに行った時もスムーズだった。ベトナムと言えば中国やモンゴルと同じ赤い国。列車の切符購入は行列必至、体力勝負になるだろうと予想し気合いを入れて臨んだのだが、窓口に並んでいる人はたった一人。待ち時間は2分だけで済んだ。窓口の係員さんもつっけんどではなく、親切ですんなりフエ行きの切符が買えた。決死の覚悟だったのにかえって気が抜けてしまったじゃないか。だけどだけど、並ばずに切符が手に入っただなんて万歳したいくらい喜ばしいことだ。
フエ行きの列車に乗る日はゲストハウスのオーナーの息子さんがバイクでハノイ駅まで送ってくれた。歩くとかなり距離があるので、早めに出てのんびり散歩しながら行こうか、シクロを拾って行こうか・・・と迷っていたのだが、こんな申し出があるとはかたじけないではないか。お礼にオーナー親子を玄関で写真撮影した。ちょうどテト(旧正月)前だったのでゲストハウスの玄関先には大きな金柑の植木があって、大層美しく飾られていたのだ。 それにしてもゲストハウスの方には本当にお世話になった。バイクを降りて息子さんに「ガンモーン(ありがとう)」とお礼を申し述べたのだが、もっと丁寧にもっといろいろ感謝の気持ちを伝えたかった。が、いかんせんベトナム語がしゃべれない。言葉ができない分、色気混じりのキスで最後のご挨拶をした、というのは嘘である。
寝台車の同じコンパートメントにはベトナムの母子が乗ってきた。子どもは6歳くらいの男の子で、DOREMON(ドラえもん)の漫画本を持っていた。見せてくれたがふきだしの台詞はみんなベトナム語で(当たり前か)わからんかったが。お母さんは物静かで優しい感じ。あまりぺらぺら話すタイプではなく、私にあれこれ問いかけてくることもなかった。どっかの国の人みたいにあんたの着ているその服いくらなのかとか、日本では一ヶ月の給料はいくらなのかとか、お金関係の話題もなくつつがなく列車生活が終わった。
フエに着き、街角のカフェでコーヒーを飲んだ。店のおばさんが私の向かい側に座り話しかけてきた。
「あなた、フランス人?」
一瞬コーヒーを吹き出しそうになった。ベトナムの人は外国人=フランス人とでも思っているのだろうか。だが、フランス人かと問われて悪い気はしないぞ。やはりこの美貌、この立ち居振る舞いのエレガントさがおばさんをしてフランス人ですかと言わしめたのだ。私の上品さは隠そうと思っても隠しきれないものなのね、おっほっほっほっほ・・・・
ところでフランス人といえば、ベトナムを舞台にした恋愛小説「ラマン」を書いたマルグリット・デュラスである。デュラスのこの自伝的物語は折りも折り、映画化されて話題になっているところだ。こんなドンぴしゃのタイミングにベトナムに来たのも何か因果があるのかもしれぬ。しかもだ、こっちに来てからというもの、次から次へといいことばかり起こり、運の方も右肩上がりに上昇している。やっぱり「ラマン」の国は最高だ。こんないいことずくめ、多くのラッキーに恵まれるってことは、つまり幸運の頂点にはラマンチックな出逢いが待っているに違いない。ああ、その運命の人は今何処?ほら、私は今このカフェで物憂げに髪をかき上げあなたを待っていてよ。私の前に現れるのは金持ちの華僑?それとも国の未来を背負って立つベトナムのインテリ青年?あら、背後に人の気配が・・・。早くもダーリンとなる殿方の出現か?
私の右肩のあたりに手を触れたその人物を確認するべく振り返る。ああ、ラマン的な出逢いの瞬間だ。
「お金、恵んでおくれ。」
そこに立っていたのは金持ち華僑でもなくベトナムのインテリ青年でもなかった。みすぼらしい乞食のオッサンが、汚れた手を私の目の前に差しのべていたのだった。ぎゃあ~~~・・・・
カフェを離れ今度はホテルの近所をぶらつく。今度こそラマンチックな場面に出くわしますようにと祈りを込めて、ややモンローウォーク気味にしゃなりしゃなり歩く。なーに、私には運が味方している。きっと更なるいいことがあるはずだ。その時また背後に人気を感じた。ふふふふふ、今度こそ・・・・振り返ると、あら一人じゃなくて三人・・・おや、子どもじゃないの、え、こんな年下かいな・・・なんて言っている場合ではないぞ。彼らも乞食だ、しかも走ってついて来るじゃないか。逃げても逃げてもついてくるガキども。仕方ないからちょっとばかりお金を渡すも、まだ追っかけてくる。ああああ、振り切るのにとっても苦労しましたとさ。
ったく、なんで乞食にまとわりつかれなあかんのだ!よ~し、気分を変えて観光しよう、観光!フエの観光名所と言えばいの一番に宮殿が挙がるだろう。暑い中トコトコ歩いて黒く聳える宮殿へ。入場券を買おうとしたら売り場のオッサンがむすっとした顔で料金表を指さした。なんと外国人料金が設けられていて、またこれが法外に高い。オッサンは再び偉そうに料金表を指でコツコツとたたいた。ふんっ、外国人だけどこちとら貧乏旅行者なんだ!しかもなんだ、その役人ぶった態度は!フエの目玉だからとつり上げられた宮殿入場料が何故か物凄く高いハードルのように感じた。超えられないハードルはくぐってサヨナラだ。私は回れ右をし宿に戻った。
ステキな出逢いを求めていたのに出会うものといえば乞食とバカ高い外国人料金だけかいな!金持ちの華僑やベトナムのインテリ青年はどこへ行った!?お前らの目は節穴かー!!こう叫んでみても空しさが残るばかり、ああ、我が運ももはやこれまでか。幸運を使い果たしたベトナムで思い知ったのは、調子に乗ってはいけないということだった。ラマンチック、いやロマンチックな出逢いを求め、ゴーマンチックになった自分を反省する。仏の顔も三度まで、ベトナムの運も途中まで、ということでしょうか・・・
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アジアぶらぶら顛末記 |
アジアぶらぶら顛末記 ベトナム編
その1【行く前からポイントアップだ~】
ベトナムへ行こうと思い立った。というのも住まいの広州から近いからだ。市内にはベトナム領事館もある。好条件が揃っているんだから行かない手はない。早速行動開始だ。
先ずはビザを取りに行く。パスポートを手に領事館を訪ねると、係の人達は皆忙しそうに動き回っていた。最初のうちは相手にしてくれなかったが、一人のおばさんが私に気づき大慌てで走ってきた。
「ごめんなさいね。どうぞおかけください。今、引っ越しの準備中でバタバタしちゃって。ちょっとお待ちくださいね。」
彼女はフロアの横にある丸テーブルと椅子を指さし、申し訳なさそうに言った。そうか、お取り込み中だったのね。それにもかかわらずこんなに丁寧な対応とは、かえってこっちがかたじけなく思う。普通領事館の人といえばお役人だから、権威的な態度で事務的なもの言いのヤカラがほとんどなのに、このベトナム領事館では『どうぞおかけください』なんて言ってもらえたのである。ビザを取りに来ただけの人間としてはなんだかこそばゆい。手続きだけなんだから本来ならカウンター窓口で立たされるところ、座って待っていてもいいと言う。これは尋常ではないぞ。おまけに
「お茶です。どうぞ。」
と、綺麗なティーカップにお茶を入れて出してくれた。いいの!?もらっても・・・
「ベトナムのお茶です。召し上がれ。」
はぁ、じゃあ遠慮なく頂戴します。なんだか領事館というよりもどっかのおうちにお邪魔しているような気分だ。ビザの手続きも窓口ではなく、今座っている丸テーブルのところでやった。必要事項を書き込み、パスポートと写真を提出すると、おばさんは
「あなたがパスポートを取りに来る頃には新しい所に移っていますので注意してくださいね。これは新住所です。」
と、移転先の簡単な地図を印刷した紙をくれた。こういう心遣いがじぃ~んと胸に響く。お茶までよばれ、にこやかな笑顔で見送られたら感動しないわけがない。もう行く前の時点でベトナムのポイントがドドドドドドッとアップした。
飛行機のチケットを買いに行った時も対応はよかった。事務所にはおじさん一人しかいなかったが、発券がスムーズだった上、ベトナムに何しに行くのか、ベトナムのどこを回る予定なのかなど、嬉しそうに聞いてくれた。こちらもベトナム語の挨拶用語を教えてもらったりして、エアチケットを買う以上の収穫があった。ベトナム行きに俄然火がつく。
旅立ちの朝、リュックを背負って広州白雲空港にやってきた。ベトナムエアーのハノイ行き搭乗ゲートを捜すと、奥まった場所にそれはあった。が、ゲートのカウンターには係員らしき人は誰もいない。それなのに搭乗ゲートはオープンしたままになっている。搭乗を待つ乗客も見当たらない。もうみんな乗り込んじゃったのかな?おかしいなぁ、まだフライトまで時間があるのに。不思議に思いながらも、もしかしたら自分が遅刻したのかもしれないしと、ゲートを通って飛行機の中に入っていった。
機内に入ってギョッとした。なんと、前の方のシートにスチュワーデスの皆さんが固まって座り、お弁当を食べていたのだ。ありゃりゃ、遅刻じゃなくて早く乗りすぎたのね。この時点でやっと事態が把握できた。ソーリーと言いながら回れ右をし、飛行機を出ようとしたら
「かまいませんよ。お座席でちょっと待っててくださいね。」
と、スチュワーデスさんに呼び止められた。まったく係員はなんでいなかったんだ?ま、ここは中国だし、飛行機はベトナムだ。せこせこ細かくて厳格な日本では決して起こり得ないいい加減な、おっと失礼、珍しい体験である。
しばらくして飛行機は離陸した。乗客はアメリカ人のカップル、商用風の中国人3人。私を含めてたったの6人だ。こんな少人数で飛行機を飛ばしてもいいのか。田舎のバスじゃないんだからね。もしもこのまま乗客10人以下なんて状況が続けば、広州―ハノイ間は間違いなく赤字路線となり廃線になるだろう。おっと、上昇するにつれて機内が冷えてきた。ちょっと、ちょっと、窓に隙間があるってんじゃないでしょうね。かなり寒いぞ。クーラー全開のごとき機内にたまりかね、アメリカ人の女性が毛布をリクエストした。私ももらおうかな・・・なんて思っているとあらあら飛行機が下降し始めた。フライトはたったの30分ほどなのね。いつの間にかハノイ到着だ。
ノイバイ国際空港に降り立つと、広州と変わらぬ空気が流れていた。広州と同じく湿気を帯びた涼やかな冬が立ちこめている。が、人々の話す言葉でここがベトナムであることに気づかされる。 ぼんやり立っていたら、シクロの少年が話しかけてきた。
「どこまで行くの?」
わかんないよ、そんなこと。今から考えるんだから。
「じゃ、僕がいい宿へ案内してあげるよ。」
もしかしたら少年はペテン師かもしれない。見知らぬ旅人に優しく声を掛けてくるようなヤツは要注意だ。袋小路に連れて行かれた挙げ句、お金を巻き上げられるかもしれぬ。警戒、警戒!こんなヤツは避けるべきだ。 しかし、他のシクロは皆ぎすぎすした怖そうなオッサンばかりだ。この少年が一番ましな気がする。よ~し、本当にいい宿なんでしょうねぇ!ひどい宿だったらただでおかないからねー!覚悟を決めて少年のシクロに乗る。騙すなら騙してみろってんだ!大声で泣いてやるぞ。奥の手作戦を胸に秘め、眉間に皺寄せながら座席にどかっと腰を下ろした。な~に、向こうが卑怯な手を使ってきたら、こっちも卑怯な手で受けて立つまでじゃ。
シクロが空港を離れ町中に近づくに従って人の往来も多くなってきた。建物の数も増えてきたからハノイの中心に入ったようだ。少年がこぐペダルのリズムは尚軽快で、少しの狂いもなく進んでいく。少年とはいえシクロこぎのキャリアを感じる。小気味よいペダルの音を背中で聴きながらハノイの町並みを眺めた。
やがてシクロは住宅地のような小路に入り、一軒のうちの前で停まった。
「ここだよ。」
息づかいの乱れもなく、少年は元気よく言った。ふむ、して、おいくら?
「1ドルください。」
そう、1ドルなんだ。はい、どうぞ。米ドル札を1枚渡すと、少年は顔を輝かせ何度もサンキューと言って去っていった。あれ?こんなに喜ぶってことはふっかけられたのかな?本当はシクロ代ってすっごく安いのかも。くっそう、ボラれたか!悔しさが残ったまま宿に入る。門のところに英語で「GEST HOUSE」と書いてあった。普通の家のようだが、確かに宿なんだ。ったく、ここが悲惨なゲストハウスだったら、あの少年を絶対とっつかまえて文句言ってやる!
しかし、このゲストハウスはできたばかりと見えて綺麗な上、宿のスタッフ達は皆親切だった。宿泊客のフランス人のお兄さんも、ここは快適だと教えてくれた。私が通された部屋は設備の整った小綺麗なシングル部屋だった。
少年よ、疑ってごめん。シクロ代1ドルが高かったとしても、穴場的ないい宿に連れてきてくれたのだから結果オーライじゃないか。大当たりと言ってもいい。出発前からハノイ到着まで予想外の事態がいろいろ起きたが、要するに滑り出し順調ってことじゃないの。ベトナムのポイントがぐんぐん上がり続けていることを実感しちゃうのだった。
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アジアぶらぶら顛末記 モンゴル編
その5【ウランバートルバス事件】
初めて訪れる場所で公共の交通機関を利用する時ほど緊張することはない。ましてやそれが外国ともなると、字も言葉もわからんわでどうしようかと困惑する。が、しかし、遠くへ行きたい場合は徒歩では時間がかかるし疲れるしで、バスや電車に乗らざるを得ないことがある。よーし、いっちょ乗ったるかー。どんなバスだ!電車だ!好奇心が膨らむ一方乗り方がわからぬ不安もあり、いつもより心臓の鼓動が大きくなる。ウランバートルで初めてバスに乗った時はまさにそんなスリル満点のエキサイティング状態だった。
市民とともにバスに乗り込んだはいいが、さてどうやって料金を支払うのか。観察していると、みなさん車掌さんと見られるおばさんにお金を払っている様子。そうか、中国みたいに行き先を告げて小銭を出せばいいんだ!だけど、いくらなのかな?ええーい、少し多めに渡しちゃえ。おつりが返ってくるだろうから。緊張しつつも車掌さんに大きめのトゥグリグ札を渡し、「ショーダン(郵便局)・・・」と行き先を伝えた。そうしたらおばさん、何故かくすっと笑い、
「ショーダン?(郵便局ね?)」
と確認し、おつりをくれた。そのおつりの多いこと!お金の入ったバッグから、おばさんは何枚も何枚もトゥグリグ札を取り出し、私の手のひらに押しつけるようにして返してくれたのだった。あれ?支払った金額が大きすぎたのかな。座席に座っておつりを数えてみたら、バス代は3トゥグリグであることがわかった。なーんだ、安いんだ、バス料金って。
ホームステイ先に帰ってバス初体験の話をしたら、おうちの方々はきょとんとした顔をした。ほどなく長女のサラさんが
「今、3トゥグリグって言った?おかしいわね。それは子ども料金よ。大人は10トゥグリグなんだもの。あなた、子どもと間違えられたのよ。きっとそうだわ、ハハハハハハハ・・・」
と笑った。なにー!子ども料金だって!ガキ扱いされたってこと!?考えてみれば無理もないことだった。第一に私は背が低い。第二にたどたどしいモンゴル語で「郵便局」なーんて言っちまった。だから車掌さんは私のことを初めてバスに乗った子どもだと思ったのだろう。ウランバートルの市バスはどこまで乗っても一律大人10トゥグリグ、子ども3トゥグリグ。何も行き先を言わずともよいのだ。そんなこと知らんかったもんなぁ。
その後は1回につき10トゥグリグ払いバスに乗っていた私。要領がわかればウランバートルの市バスは快適な乗り物だ。しかし、油断していてはいけなかった。やがて事件が起こったのだ。
ある日いつものようにバスに乗り込んだ。車掌さんに料金を支払い前の座席に座った。いくつ目かのバス停で乗ってきたおじさんが私のすぐそばに立った。車内は混み始めてきて、空いた席がなくなっていた。おじさんは二言三言、私に言った。が、モンゴル語がわからないのできょとんとしたままでいると、おじさんはまた何か言った。どうしよう、困ったなぁと思っていたら、おじさんはふいに私の腕をつかんだ。そしてぐいぐい引っ張った。びっくりする暇も与えられないままとうとう私は立たされてしまった。その後、おじさんは素早く私の座席に座った。あまりにも唐突な、あまりにも強引な行動に私はただ唖然として立ちつくすほかなかった。
ホームステイ先に戻り、この話ををするとまたサラさんに笑われた。
「あなた、また子どもだと思われたのよ。」
えっ!子どもに間違えられたって?てことはつまり、子どもはバスに乗ったら立っていなくちゃいけないの?
「いえいえ、とっても小さい子なら親が抱っこして座ってもいいけど、ある程度大きくなった子どもは、ほら、普通立つでしょ。」
ふーむ、なるほど。それでおじさんは『お前は子どものくせにのうのうと座って!席を譲りなさい!』とか何とか言っていたのだな。確かにバスの座席に座っているのは大人ばかりだった。小学生くらいの子は皆立っていたなぁ。
それにしても国によって子どもの扱いは違うもんだな。中国では子どもは舐めるようにかわいがられ、子どもがバスに乗ってこようものなら誰かがサッと席を譲ったりする。また子どものほうも乗り物の座席には座って当然と思っているような節がある。が、しかし、モンゴルでは子どもに対して厳しい。違った言い方をすればいつまでも子ども扱いしない、甘やかさないってことかな。どちらがいいのか、どちらが正しいのか、一概には言えないのだろう。言えることは同じ社会主義の国であっても“赤”と“青(蒼)”じゃ子どもに対する考え方が異なるのだ。
この事件があってからバスに乗ったら座らないよう心がけた。まったく、もうじき30歳になろうかっていうのに子どもにしか見られない我が身とはねぇ。情けないったらありゃーしない。青き狼め、「あんた早く大人になれよ」ってメッセージをどうもバイルラー(ありがとよ)。
(この話は1993年7月時点のことなので、現在ウランバートルの市バス料金がいくらなのかはわかりません)
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アジアぶらぶら顛末記 |
アジアぶらぶら顛末記 モンゴル編
その4 【迷ガイド、マドハ】
さて、マドハのお陰で広すぎる部屋から一日10ドルの一般家庭へと宿を移せた私だったが、心配事はもう一つあった。それは帰りの列車の切符のことである。2週間後に北京へ向かう列車で戻りたいのだが、その切符はいつどこで買えばよいのか。再びマドハに相談した。彼女の話によると、前売り切符専用の場所があるとのことで、そこへ行って買えばいいらしい。じゃ、マドハ連れて行ってよ。お願いだから。
「えー、私も行くんですかァ?」
マドハは少し困ったような顔をしたが、わたしゃ“モンゴルヒリッ メーディッヒクィッ(モンゴル語はわかりまへん)”なんだからちょっと通訳しておくれ。
マドハは渋々ながらも一緒に来てくれた。前売りチケット場の各窓口にはすでに大勢の人が押し寄せていた。国際列車の窓口にも多くの人が並んでおり、私たちはその最後尾についた。窓口はまだシャッターが閉まっている。切符が販売されるまでまだしばらく時間がかかりそうだ。ああ、赤い中国も蒼き狼のモンゴルも切符ゲットには根気がいるようだ。よ~し、忍耐勝負だ、体力勝負だ、頑張らなくちゃ。いつ開くかわからぬ窓口を睨みながら腹をくくった。ところが並び始めて10分と経っていないのに、マドハは疲れたとこぼす。
「あの、私座っていいですか?」
彼女は売り場の隅にあるベンチを指さした。いいわよ、しょうがないわねぇ、座ってらっしゃい。ったく私よりずっと若いくせにひ弱なんだから。ま、窓口の人と話す時だけ通訳してもらえればいいから、それまで待機させていよう。
それから10分ほど経った。マドハがベンチを離れこちらにやってきた。
「あのー、これ、日本のお客さんにもらったんです。」
彼女は嬉しげに握っていた手の平を開いた。するとそこに白いイヤリングが現れた。かわいいね。つけてみたら?マドハははにかみながらも頬を緩ませ、自分の耳たぶにイヤリングをつけようとした。ピアスじゃなくて挟むタイプのものだったので簡単につけられるはずなのだが、初めてのイヤリング体験なのか上手くできない様子。おっかなびっくりイヤリングの金具を開いては耳元まで持っていくのだが、上手に閉じられないようだ。
「あの、すみません、手伝ってください。」
とうとうマドハは半泣きで私にすがった。もぉ、しょうがないねぇ、いい年してイヤリングもできないなんて。ほら、耳をお出し。はい、こうやって・・・・そーっと金具を閉じる。両耳ともつけてやるとマドハは喜色満面、ぱーっと花が咲いたように明るくなった。
「どうですか?きれいですか?」
ええ、ええ、きれいですとも。よくお似合いよ。するとはっと思い出したようにマドハはかばんの中から手鏡を取りだし、イヤリングのついた自分の顔を眺めた。おめかしした女の子が我が身を鏡に映してうっとりするように、彼女はためつすがめつ手鏡をのぞき込んではいつもよりお洒落な自分に酔いしれた。そして満足げに「ふふふふっ」と言って再びベンチに戻って座った。
その後5分と経たないうちにまたマドハは私のそばに駆け寄ってきた。今度は泣き出しそうな顔をしている。
「痛い、痛いです・・・すみません、とってください!」
イヤリングに挟まれた耳たぶを押さえ、彼女は悲痛な叫び声を上げた。本当にしょうがないわねぇ。つけろと言ったりはずせと言ったり。だいたい君のようなネンネにはまだアクセサリーを身につけるなんて10年早いのさ。お洒落がわかる年頃になるまでしまっておきなさい。そーっとイヤリングをはずしてやる。マドハはほっと安堵し、笑顔を取り戻すと「ありがとう」と言ってベンチに帰った。アクセサリーなんかしなくても、その丸いほっぺと丸い眼があんたの何よりのチャームポイントだよ、マドハ。
やっと窓口が開き、切符の販売が始まった。並び始めて45分、ようやく列が動き出したぞ。さあ、次が私の番よ。マドハ!急いでこっち来て!ほら、前の人がどいた!聞いて、聞いて、ウランバートル-北京はいくらなの?手元の米ドル札を確認し、ギュッと握りしめる。マドハは係の人とひとしきり話をしてから私のほうを振り返った。さぁて、いくらなのかな?
「あの、切符は来週から販売するそうです。」 「・・・・・・・・」
嗚呼、くたびれた。1時間以上並んでいたこの労力をいったい何としてくれる!憤懣やるかたない気持ちを抑え、切符売り場を出た。
「これから遊びに行きましょう!」
マドハはスカッと爽やかに言ってくれる。いいね、あんたは無邪気でさ。ま、君のお陰で前売りは1週間前から販売するとわかったわけだし。次に行く時はマドハなしで行こう。一人で行った方が余計なことなくスムーズに買えそうだ。
晴れ晴れとした表情を振りまくマドハを見ていると、ふと中学2年生の頃の事を思い出した。当時の公立中学校では技術家庭科の時間、男子は技術、女子は家庭科と別れて授業を行っていた。ある時、男子は技術の授業でぶんちん作りの実習があった。書道の時に半紙を押さえる重しとして使うアレだ。クラスに前田君という男の子がいた。彼は不器用なようで、ぶんちんの底が上手く削れなかったらしい。前田君の作品は机に置くとコロコロ転がった。いくら削り直してもコロコロッと転がって、クラスメートにからかわれていた。その後クラスのみんなは役に立たない物のたとえに“前田のぶんちん”という言葉を用いた。へこんで弾まなくなったバスケットボールも『これ、前田のぶんちんやなぁ』と揶揄した。
マドハのガイドも“前田のぶんちん”だな。だけど、前田君のぶんちんは愛嬌があった。転がってしまって実用性としては問題が残るが、どこか憎めないものがあった。それは作った前田君がユーモラスでクラスの人気者だったことによるのだが、マドハも然り。ガイドとしてはあんまり役に立たないのだが、天然とも言えるこのボケようというか、あっけらかんさは腹立たしさを通り越して長所になっている。蒼き狼も様々なのね。
「あの・・・・これ、何ですか。どういう意味ですか。」
歩きながらマドハは手帳を取り出し、あるページを私に見せて言った。彼女の勉強用のメモ帳らしく、そこにはいろいろな日本語の単語が乱雑に書かれていた。マドハが指さした先には“はなくそ”と大きく書いてある。
「きのう、日本のお客さんが“はなくそ”と言うの聞きました。でもこの言葉、辞書に載っていません。」
そうだろうな、これはね・・・・私はジェスチャーも交えながら教えてやった。“はなくそ”の意味を知ったマドハは膝を折り曲げてゲラゲラ笑った。笑いはしばらく収まらない。そう、彼女は16歳。箸が転げてもおかしくなっちゃう年頃だ。いつまでもそうやって笑い転げてなさい。“はなくそ”以上に、マドハが悶絶しながら笑っている姿におもろさを感じる私であった。
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アジアぶらぶら顛末記 モンゴル編
その3【モンゴル少女登場】
ソファーに座り先ほど購入したパンを一口、また一口とかじる。広い部屋にぽつねんと存在する自分を妙に意識しながらの食事。これほど哀愁の漂う姿はあろうか。激しい孤独感に加え食料を得る難しさを思うと、寂しさを超えた恐怖が襲う。これからどうやって食べ物を見つけようか。この部屋には立派なキッチンがあるけど、材料が手に入んなきゃ調理もできないじゃないか。初めて体験する食糧難。暗澹たる気持ちでソファーに深く沈み込み、途方に暮れる私であった。
その時である。呼び鈴が鳴った。誰・・・?恐る恐る玄関の扉を開けると、立っていたのは若い女性だった。
「こんにちは。サローラさんに言われて来ました。」
日本語が上手だ。やはり旅行社の人か。彼女を部屋の中に通した。
「私、マンダと申します。本当はマンドハァックというのですが日本人は発音できません。だからマンダです。」 「旅行社の方ですね。」 「いいえ、私は高校生です。今夏休みですからアルバイトでガイドの手伝いをしています。」
モンゴル少女は嬉しそうに言った。笑顔がカワイイ。丸顔で目がくりっとしていて、ちびまる子ちゃんのようなヘアスタイル。ほんのり赤い頬が愛くるしい。サローラさんは自分の代わりにこのあどけない高校生を寄越したのだった。
「この部屋はどうですか。」
彼女は聞いた。設備は申し分ないが広すぎて自分一人にはもったいないし、できればもう少し安いところがいいと正直に言った。
「そうですか。じゃあ、考えてまた手配します。今日はすみませんが、ここに泊まってくださいね。」
一生懸命に話す彼女の目が更にくりくり輝いた。
「えーっと、マンダックさんは日本語、どこで勉強したんですか?」
高校生にしては会話が上手いので尋ねてみた。
「ふふふふ、マンドハァックですよぉ。ふふふふふ、マンダでいいです。えー、日本語は前に学校で少し習いました。それからあとは自分で勉強しました。」
ほぉ~!独学とは恐れ入った。努力家なんだ、彼女。いやいや、たいしたもんだ。真面目な学生さんだこと。明るくて感じのいい子だし、気に入っちゃった。サローラさんよりずっといいなあ。それにしても確かに君の名を発音すると難しい。子音の多いモンゴル語は発音が複雑そうだ。それに喉の奥から絞り出すように発せられる音も多そうで、日本人にはなかなか真似できそうにない。それでも少しでも正しい発音に近くてなおかつ言いやすいよう、私は彼女を『マドハ』と呼ぶことにした。
翌日マドハは友達の女の子を連れてやってきた。
「今日からこの子のうちに泊まったらいいですよ。一日10ドルでどうですか。」
え、あんたの友達のうちに?いいの・・・・?マドハの友達はこっくり頷いた。あらららら、モンゴルでホームステイするとは思ってもみなかったよ。一般家庭にお邪魔する予定なぞなかったのだが、安い宿をお願いしますと頼んだ手前、このお友達のうちに寄宿するしかない。なんという急展開。マドハに感謝だ。
「午後からこの子のうちへ行きましょう。私は今から仕事がありますからちょっと待ていてくださいね。」
はいはい、わかりました。言う通りにします。マドハよ、もう何だって君に従おうじゃないの。煮るなり焼くなりどうにでもしてよ。午後までおとなしく待っているから、さ、お仕事頑張って行ってきて。
ところがマドハはまだ立ち去ろうとせず、そうそうと言いながら自分のかばんから何やら取り出した。それは赤い液体の入った瓶だった。
「あの、これロシア人の男の子にもらいました。一緒に飲みましょう。」
え?一緒に飲むの?まあいいけど・・・。私は台所にあったガラスのコップを三つ持って来た。マドハは瓶の蓋を開けるのに手こずっている様子。どれどれ貸してごらん、開けてあげましょう。蓋に付いている金具をぐりっとひねって回すと簡単に開いた。と同時にぷ~んとアルコールのいい香が噴き出した。これ、ワインじゃないのよ。ジュースかと思ったのに。マドハの友達はワインならいらないと言った。私も午前中からお酒なんか飲みたくないなと思ったが、マドハは嬉しそうに瓶を持つとコップ1杯分なみなみと注いだ。
「どうぞ。」
ワインがたっぷり入ったコップを差し出されたが、少しでいいからと断ると
「じゃあ、私が・・・」
と、マドハはゴクゴク一気に飲み干した。え~っ、ちょっとマドハ、あんたまだ高校生でしょ。高校生が白昼堂々酒なんか飲んでいいのか!モンゴルの法律はどうなってるんだ!驚く私など目に入らないようで
「はあ~、おいしい。もう少し・・・」
と、マドハは嬉しそうに2杯目のワインをコップにまたなみなみと注ぎ、何の躊躇もなくこれをも飲んでしまった。
「あー、おいしいです。とてもおいしいです。」
屈託のない笑顔を見せるマドハ。だがすぐに
「あ、ちょっと酔いました。あ、頭がちょっと・・・」
と、赤みが増した頬を押さえてうろたえた。そりゃあ勢い込んでワイン2杯も飲んだら、酔いもキューッと回るってもんよ。だ、大丈夫か、マドハ!
「あ、どうしましょう、本当に酔いました。あの、あの、すみませんが、この事サローラさんには言わないでください。絶対言わないでくださいね。」
マドハは何度も念を押した。これがサローラさんに知れたらそりゃまずいだろうな。はいはい、わかりました。内緒にしておきましょう。
「あ、もう時間です。お客さんを見送りに行かなければなりません。また後で来ますね。」
マドハはふらふらと立ち上がり、友達に支えられながらよろめきつつ出ていった。そんな状態でガイドの仕事が勤まるのか!酔っぱらって接客してどうする。私が言わなくたってサローラさんにはきっとばれると思うよ。お目玉を食らうマドハの顔が浮かんでくる。ああ、この後のマドハの運命や如何に。
真面目で感じのいい子だと思ったが、仕事前に酒をあおるなんてろくでもない高校生め!早速前言撤回だ。いいガイドさんに会えたと思ったのにねぇ。貧乏旅行者も歩けばマドハに当たる。ホント、ヘンテコなヤツに出会ってしまったぞ。まいった、まいった。今後このいい加減な高校生にお世話になるのかと思ったら不安になる一方、ウランバートルの旅もなんだかおもしろくなってきたなあと、一人ほくそ笑んでしまうのであった。
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アジアぶらぶら顛末記 モンゴル編
その2【ウランバートルでオロオロ】
旅行代理店のサローラさんは歩くのが速い。年の頃は30歳代後半くらい、ぺらぺらの日本語を操り、髪をポニーテールできりっと束ね、タイトスカートに黒のブーツで颯爽としている。いかにもできる女という感じだ。その後ろをリュックを背負った私がよろよろついていく。車に乗せられ着いたところは大層立派なホテルだった。とりあえずチェックインして部屋に入り荷物を下ろした。ドレッサー、幅広のベッド、浴室には清潔そうなバスタブ。なかなかきちんとした部屋だ。ウランバートルでは高級クラスだろうな。
夕食もまずはこのホテルでとった。きれいなテーブルに椅子、壁には鏡がはめ込まれている。インテリアも小綺麗な店内で私は日本から来たツアーのおじいさんおばあさん達のチームに加えられてテーブルについた。そうか、やはりここは団体旅行の客が泊まるような格上のホテルなんだ。 よどみない日本語でサローラさんは日本のおじいさん達に本日の観光の様子を聞いた。日本人ツアー客の‘余は満足じゃ’という答えを聞いて、彼女の表情はお客以上に満足そうだった。日本語のうまさに感心し、私はサローラさんにどこで勉強したのか尋ねた。
「日本に留学しましたから。」
なるほど、で、どちらの学校で?
「東京外国語大学です。」
サローラさんはにこりともせずに言った。だから上手に決まってるじゃんとでも言いたげだった。
ウランバートル随一かというホテルにしては夕飯はパッとしなかった。かさかさした黒パン、しけた野菜サラダ、何かわからんような硬い肉、それとチーズが数種類。これなら外のレストランかどっかで食べたほうがましという内容だった。それでサローラさんに聞いた。
「ここは一泊いくらですか?」 「60ドルです。」
ひええぇぇ~、60ドル!つまり一泊6000円強か。中国暮らしの貧乏教師にはあまりにも贅沢なホテルだ。
「今晩はこちらに泊まりますが、明日からもう少し安いところに泊まりたいのですが・・・」 「はい、わかりました。手配しましょう。」
と言いつつも言葉にはとても事務的な響きがあった。そして、日本人ならたんまりお金持ってこんかい、そんでもってたくさんお金を落として帰らんかい、貧乏旅行者なんて価値ないわい、という表情がありありだった。しかし、こっちはこっちの財布の都合があるのだ、サローラさんよ。
翌朝、高級ホテルをチェックアウトさせられ、私は再び車に乗せられた。走ること十数分、同じような建物が並ぶ一角に入った。間もなく車が止まり、
「ここです、降りてください。」
とサローラさんの指示。急いで降りる。が、彼女は車から降りずに窓から顔だけ出して上の方を指さした。
「あそこです。4階の部屋ですから。1日25ドルです。」
とだけ言い、鍵をくれ、そのまま車を走らせ行ってしまった。
ここってホテルとか旅館とかゲストハウスって感じじゃないぞー。市民が住まう団地じゃないか~。まあ、でも、鍵をくれたんだからここに泊まるしかない。4階まで階段を上り、借りた部屋に入る。中にはキッチン、応接間がある。部屋も三つあり、ベッドやタンスなどの家具も備え付けられている。明らかに住宅だ。部屋が広いのは気持ちよいが、私一人、宿として使うにはこの広さも無駄に感じる。
いや、そんなことよりも今私はもっと大きな問題に直面しているぞ。連れてこられたはいいが、いったいここはどこなんだ?何の説明も受けていないじゃないか。サローラさんめ、ビザをくれた女神かと思ったら、金にならない貧乏旅行者を邪険に扱う冷たい女だったのか!突然「ここはどこ?私は誰?」状態に陥り頭を抱える。現在地がわからなきゃガイドブックの地図があっても役に立たない。仕方がない、外に出て誰かに聞いてみよう。
玄関を出てふと隣のお宅に目をやった。表札を見てびっくり。なんと『共同通信社』と書いてあるじゃないか!ということは日本人が住んでいるのね。よかった~、聞いてみよう!わらにもすがる思いで呼び鈴を鳴らす。中から出て来たのはおじさんだった。
「あ、すみません。日本の方ですか?」 「いいえ、私はモンゴル人です。」
おじさんは流暢な日本語で答えた。そっか、おじさんは共同通信社のローカルスタッフなんだな。
「あ、ごめんなさい。実は私、この部屋に連れて来てもらったのですが・・・」
私は今までの経緯をおじさんに説明し、ガイドブックの地図を見せて現在地を尋ねた。おじさんは親切且つ丁寧に教えてくれ、また、この建物の地下1階に食堂があることも教えてくれた。ああ、ありがたや。捨てるサローラさんあれば拾うウランバートルの共同通信社あり。ああ、救われた。
場所さえわかりゃあこっちのもんだよ、モンゴルの蒼き狼め。よ~し、これから町探検だー。意気揚々と出かけ、あっちこっち歩いてみる。小腹が空いた時のため食料でも買うとしよう。ところが何かおやつでもと思っても、デルグール(商店)には何も売っていない。店の中には店員がいる。商品を並べる棚もある。が、肝心の商品がないのだ。店員さん達は暇を持て余しているかお喋りをしているかだ。これが社会主義の真の実態か。中国よりもずっとひどいじゃないか。店内で茫然としていると、お客さんが入ってきた。しかしお客さんはぱっと見回しただけで回れ右をして出ていった。商品が何もないから諦めたのだろう。
デルグール(商店)を出てぶらついていると、何やら人だかりがしている場所発見!何かを売っているようだ。何だろう。近づいてみると、それはソフトクリーム屋さんだった。ああ嬉しや。即座に列に加わる。だが、私の二人手前でソフトクリームは売り切れた。それっきり商売は終了。並んでいた人達はささっと散っていった。
ソフトクリームにありつけなかった無念さを胸にとぼとぼ歩き、また別のデルグール(商店)に入ってみる。なんとパンが売っているではないか!大きくて平たいパンだ。食べ応えありそう~。大急ぎで一つ購入。はあ~ぁ、やっと食べ物を手に入れたぞ。しかし、食品を買うのがこんなに難しいなんて、蒼き狼も大変なんだねぇ。店を出てパンを手に歩いていると、誰かが話しかけてきた。その人は私が持っているパンを指さし、何か聞いている。おそらくどこで買ったのとでも言っているのだろう。あっちだよと指し示すと、その人は店を目指して小走りに私の元から去っていった。
更にぶらついていると、モンゴルへ来る時同じ列車に乗っていた日本人の男の子とばったり出会った。やあ、元気と話しかけたところ、
「いやぁ、大変な目に遭いましたよ。」
と彼は頭を掻いた。男の子の話によると、今朝規模の大きなデルグール(商店)に入って、店の様子を写真に撮ろうとカメラのシャッターを何回か切ったら、店の人や警察がやってきて取り押さえられたそうだ。おまけにフィルムも没収されたのだと言う。
「まさか撮っちゃいけないなんて知らなかったから。」
男の子は自分の失敗談をハハハハと笑い飛ばした。なるほどね、商品のない店を写真に撮られるのは恥なんだな、モンゴルの蒼き狼としては。
やれやれ、食料品の乏しい場所で食べ物を調達するのって至難の業だ。パン一つゲットできただけでもよしとするか。ああ、こんなことだったら一泊目の高級ホテルのレストランで夕食を食べた時、残しちゃったチーズをタッパに入れて持ち帰ってくるんだったな。 あ、そう言えば、共同通信社のおじさんが団地に食堂があると言ってたっけ。お昼の時間だし行ってみよう。急いで住宅に戻り、地下の食堂へと走る。が、店の扉にはしっかりと鍵がかかっている。あれ、場所を間違えたか。でも待てよ。ドアの前にはメニューらしき札が下がっているじゃないの。確かにここは食堂なんだ。昼飯時にclosedの食堂かい。蒼き狼よ、無駄足という言葉はお前のためにあるんだね。がっくりうなだれ4階の部屋へ足取りも重く戻る私であった。
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テーマ:エッセイ - ジャンル:小説・文学
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