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中国放浪回顧録 |
中国放浪回顧録 その34
【真面目な景徳鎮】
中国の陶器といえば景徳鎮。これは日本においても周知の事実である。だから景徳鎮が中国のどこに位置するのか知らなくても、我々はその名前ぐらいは知っている。そして「景徳鎮」という言葉を聞くと陶器のイメージから芸術的且つ、渋いいぶし銀の香りが感じられる。桂林や北京など観光名所の町が持つ華やかさや、上海のような都会的センスあふれるお洒落なムードとは異なり、どこかインテリタイプの雰囲気がするのである。それは景徳鎮が我々に教養を与えてくれる分野においてその名を記されているからだ。中国の歴史を語る書物は明代,清代に陶器生産の繁栄期を迎えた景徳鎮を紹介し、中学校や高校の地理の教科書には必ず陶磁器の産地として挙げられ、学生たちは暗記項目としてテスト直前にこの町の名を覚えるのである。けれども、景徳鎮が意外と真面目で厳格な町であることまではどの本にもいまだ書かれていない。ふふん、文部科学省の教科書検定もまだまだ手ぬるいな。
景徳鎮に足を踏み入れた直後、行動の第一歩として市バスに乗ってみた。中国の市バスは2台分を蛇腹でつなげたものが多い。そして前のバスと後ろのバスそれぞれに車掌が一人ずつ乗っているというパターンが一般的だ。が、景徳鎮の市バスには車掌が一人多い3人乗っており、きっちりと乗客を管理している。無銭乗車など絶対見逃さず、どんなに混んでいても、乗客一人一人に切符をちゃんと購入したかどうかを確認するというその徹底ぶりには驚く。なんと抜け目のない町だろうか。いい加減で、どんぶり勘定的な、おおざっぱな中国は、ここ景徳鎮では存在しない。同じ中国でも一風違った感じがする。歩いていても、身が引き締まる思いがするのだった。
さて、せっかく景徳鎮に来たんだから、古窯を見物しに行こうか。芸術魂からではなく、屋台の食べ物をぎゅうぎゅうに詰め込んだ胃を軽くするために思い立ったのだ。我ながらまったく色気のないことである。古陶瓷博覧地は町のはずれにあった。冬場のためか、訪れる人は少ない。故に旅行者然とした私はやけに目立ってしまうのだった。もちろんすぐ係員に日本人と見破られる。ちょっと日本語が話せる係員だったので、こちらとしてはかえって都合がよかった。係員の劉さんに案内していただきながら古窯を見学する。やはり今は季節はずれということで、仕事人は不在。よって土を捏ねているところや、絵付けをしている現場は見られなかったが、仕事場は覗けた。博覧地の敷地内には、展覧室という建物があった。お客さんが少ないためか、展覧室はクローズドになっていたが、劉さんが鍵を開けて特別に見せてくれた。明代、清代などに作られた昔の陶器が展示されており、中には人間がすっぽり入ってしまうぐらいの大きな壺もあった。どの陶器も見事な手により色彩鮮やかな作品に仕上げられているが、その美しさよりも誕生した時代から現在まで存在し続けてきた、それぞれの陶器の誇らしさに心を揺さぶられる。山吹色の大きな鉢の前で劉さんは立ち止まった。
「黄色い色の作品は皇帝のものだったんだよ。皇帝に献上するものはすべて黄色に染めなくちゃならなかったんだ。」
劉さんによると、中国語で『黄』と皇帝の『皇』は同じホアンという発音だから、当時はそういうルールができたんだそうだ。山吹色の鉢は私の前でエヘンと胸を張った。
劉さんの日本語はカタコトであったが、案内業に関しては徹底していた。彼とはこの古窯でさよならかと思っていたら、その後「陶磁館」という陶磁器の博物館と、弟さんが働いているという陶器工場を案内してあげようと言った。はるばる日本から来た私に景徳鎮のすべてを紹介したいようだ。そして更に、景徳鎮市民の生活も見てみたらよかろうという親切心からだろうが、弟さんのおうちへお邪魔し、家庭料理をいただくというオプションまでつけてくれた。まさに至れり尽くせり。劉さんの仕事にかける意気込みが窺えるのだった。
劉さんの弟さんが勤めている工場を訪れた時も、景徳鎮の真面目さに触れた。工場の名は『宇宙工場』。工場内にある展覧室の係員として働いている劉さんの弟さんはとても愛想のいい人で、突然飛び込んできた異国の小娘にも丁寧に工場の中を案内してくれた。すっかりオートメーション化された工場では、決まった型でたくさん同じ形の器ができてくる。ベルトコンベヤーに載ってスピーディーに処理されていく様子は大仕掛けのおもちゃのようでおもしろい。窯も倉庫のような大窯だ。1200度の温度で一度にどっさりと焼かれる。
劉さんの弟さんの話では、工員さんたちには日曜も祝日もないらしい。基本的に休みなく毎日働くというシステムだという。工場の労働は厳しい。むろん休みたければ休んでもいいが、その分日当が支払われないだけの話だとか。こういうことを聞くと、女工哀史のような労働基準法もへったくれもない悲壮な労働条件で気の毒に感じる。来る日も来る日もベルトコンベヤーの脇に立ち、流れてくる陶器を処理していく。黙々と健気に働かなくてはならない景徳鎮労働者の運命をここに見た。これほどまでに陶器にかける情熱が強い町だったとは。工員さんたちの謹直な態度は痛々しいほどではないか。休む間もなく文字通り歯車となってコツコツ働く姿はいたわしいではないか。
ところが、当の工員さんたちには全然暗さなどない。みんな笑いながらおしゃべりしながら作業に勤しんでいるところを見ると、陶器作りは結構楽しい仕事なんだろう。景徳鎮は景徳鎮であって、野麦峠ではないのだ。はぁ、ちょっと安心した。
景徳鎮で泊まった宿は景徳鎮飯店だった。ホテルの向かいの通りはずうっと奥まで陶器街になっていて、皿、マグカップ、花瓶、きゅうす、人形など、ありとあらゆる陶器が並んでいる。見ているだけでも楽しくなってくる。更に、このホテルの前のロータリーには小吃(中華式スナック)の屋台がたくさん出ている。焼きそば、汁そば、焼き餃子、水餃子、小龍包、揚げ餅など、た~くさんの食べ物の誘惑に乗り、ついつい食べ過ぎちゃう。やっぱり私は花より団子、陶器より小吃だ。こんなすてきな環境に囲まれた景徳鎮飯店だから大いに気に入った。一泊12元の3人部屋のドミトリーに泊まっていても十分幸せだったのだ。そしてこのホテルでも私は景徳鎮の真面目さと出会ってしまった。
景徳鎮第一日目の日、お散歩から戻って部屋に入ろうとする私めがけて服務員のお姉さんが走ってきた。
「あなたの部屋を隣に変えました。お客さんが少ないから部屋が余っている状態なんです。さっきの部屋は他の人がいたでしょう。知らない人と一緒だったら面倒なこともあるでしょうから。どうぞ一人で部屋を広々使ってくださいね。」
なんと、お姉さんは気を利かせてくれたのだ。そう言えば最初にチェックインした部屋には一人先客がいた。一番窓側のベッドに荷物が置かれていたのだ。リュックの模様や英語の本が何冊か置いてあるところを見ると、きっと欧米の旅行者だろう。部屋に戻ってきて先客に会ったら苦手な英語で話さなくちゃならないな、なんてちょっと緊張していたのだ、実は。よかった、お姉さんが親切で、気の利いた真面目な人だったので、私は下手くそな英語を駆使しなくてもすんだのである。
チェックアウトの時もお姉さんは勤勉ぶりを発揮してくれた。私は次に武夷山へ行くため、南方へ向かう列車に乗らねばならなかった。この列車が景徳鎮の駅を出発するのは早朝で、午前5時に切符を売り出すという。この時間に駅に着くには4時には起きておかなければならない。朝早くチェックアウトをすると、服務員の機嫌を著しく損ね、円滑にチェックアウトできないかもしれない。そこで私は前日の夜にチェックアウトの手続きを済ませておこうと考えた。服務台に掛け合うとお姉さんは言った。
「まあ、そんなに早く出ていくなんて大変ですね。私、明日の朝4時にモーニングコールしましょうか。」 「えっ、そんなことしてもらえるの?」
ドミトリーの客にはサービスが悪いと相場が決まっている。そう思っていたので驚いた。
「もちろんですよ。仕事ですもの。」
お姉さんはにこやかに答えた。だが、忘れるのが得意な中国のホテルのことである。当てにしすぎてはいけない、と自分に言いきかせる。
翌朝4時きっちりに部屋の電話が鳴った。お姉さんは約束を守ってくれたのだ。
「起きてください。時間ですよ。」
爽やかな声だった。仕事とはいえ、律儀ではないか。思わず深く感動する。お姉さん、疑って悪かった。景徳鎮の人はやっぱり真面目なのだ。
「気をつけてね。また景徳鎮に来てください。」
服務台へ鍵を返したら、彼女はすがすがしい笑顔で送ってくれたのだった。
景徳鎮は陶器の町としてその名を世界に知らしめた。この町で生まれた作品は世界各地へと送り出される。景徳鎮の特徴は薄さであるとか、透かしの入った優雅な模様であるとか、ちょっと焼き物に詳しい人ならそのうんちくを傾かせる術を知る心憎い町である。よって世の人が知る景徳鎮の看板はすべて陶器絡みなのだ。だがしかし、素顔の景徳鎮の秘密についてはほとんどの人間は知るまいて。ふふふふふ。こっそり優越感に浸り、一人ほくそ笑みつつ駅へと向かう私であった。
(1990年2月)
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中国放浪回顧録 |
中国放浪回顧録 その33
【怪しいマッサージ室に潜入②】
足壷マッサージは別のブースでするらしく、私は一番奥のブースへと移された。そこにはゆったりとした長椅子があって、靴下を脱いで座るように指示された。驚いたのはこのブースはどうやらマッサージ嬢らの控え室になっているらしく、ロッカーがあったり、ハンガーがあったりしてごちゃごちゃしていることだった。ハンガーには見るからに高級そうな毛皮のコートや革のジャケットが掛かっていて、すべてマッサージ嬢のものと思われた。
「まず足を消毒するからズボンを膝までまくり上げてね。」
さっきのけばネエちゃんとは違う女の子が入ってきた。彼女もセーターにジーンズという格好で、化粧をしており、髪を腰のあたりまで伸ばしている。けばネエちゃん2号だ。彼女は洗面器の中にぬるま湯を入れ、それに漢方薬臭い匂いのする茶色い粉を混ぜた。
「この中に足を入れてね。」
言われるまま私は洗面器の中に足首まで突っ込み、しばらく待っていた。5分ほどしてけばネエちゃん2号が戻ってきた。さっき全身をマッサージしてくれたネエちゃんも後から入ってきた。けばネエちゃん2号は私の前にかがむと、タオルで丁寧に私の濡れた足を拭いた後、左足を乾いたタオルでぐるぐる巻いて冷えないようにしてから、右の足の裏から指圧を始めた。けばネエちゃん1号は2号のすぐ横にしゃがんで、揉む様子をじっと観察している。2号の方が先輩なのだろう。
足の裏の壷は体のすべての器官につながっていて、弱っている器官の壷を押さえると痛いと言われている。体験者が「気持ちいいけど、かなり痛い」と言っていた通り、ネエちゃん2号の細い指先が足の裏の肉にくい込む度に、痛みがグワーッと押し寄せる。
「う・・・ん、胃が弱ってるみたいね。じゃ、ここはどう。痛い?」
イテテテテテテ、強烈にこたえる。私が顔をしかめているのを見て、 「かなり臓器が疲れてる。よく休んだ方がいいわ。」
と、少し力を緩めてくれた。しかし、2号も華奢な女性なのにかなり力持ちだ。
「この仕事をしてどれぐらい経つの。」
お互いに緊張が解けてきたので、質問してみる。
「一年ぐらいかな。」
2号が答えた。そばにいる1号は
「半年になるわ。」 と言った。
「按摩をマスターするのって、ずいぶん大変なんでしょう。」 「ううん。3ヶ月ぐらいでできるわよ。足壷の方はもうちょっとかかるけど。」 「だけどこうやって毎日お客さんの体をマッサージするのって、体力もいるししんどいでしょう。」 「そんなのへっちゃらよ。お金のためだもん、なんだってやるわ。」
2号は平然と言ってのけたが、『お金のため』と言った時は目の端が鋭くなっていた。
「へえ、この仕事そんなに儲かるの。」 「ええ、まあね。」
そうでしょうとも、ハンガーにぶら下がっている豹柄の毛皮が何よりの証拠だ。私が北京で仕事をしていた時、最初の月給は800元だったと言うと、けばネエちゃんたちは信じられないという顔をした。
「ウソよ。そんなのではとても暮らしていけないわ。」 「それにあなた日本人でしょ。外人ならもっともらえるはずじゃない。」
安月給で悪かったね。月給800元の話はだいぶ前のことだが、それでも驚くところを見れば彼女らは相当稼いでいるのだろう。
「あなたたち、北京の人?」
1号はうなずいたが、2号は東北出身だと答えた。
「何歳なの?」 「24よ。」
と1号。2号は
「27歳。」
と答えた。外見よりも老けている。若作りをしているのか、結構おネエさんだった。
「オーイ、客が来たぞ。いつものヤツだ。誰か出てやれ。」
突然さっきの受付の男の声がした。けばネエちゃんたちはお互い顔を見合わせて、いやぁねという表情をした。ぬぬ、いったいどんな客が来たのか。我々のブースにショートヘアーのネエちゃんが入ってきた。やっぱりお化粧が行き届いている。けばネエちゃん3号だ。彼女は自分の荷物をロッカーの中に入れた。
「あんたがやるの?」
2号はショートヘアーのネエちゃんに訊くと、3号は「そう」と軽く答えてばたばたと出て行った。1号と2号はまた顔を見合わせ、肩をすくめた。
『いつものヤツ』と言われた客と3号は我々のブースの隣に入ったようだ。話し声が聞こえる。客は男だ。声からすると、若くない。おっさんである。おっさんと3号は何やら話をしているのだが、低い声でしゃべっているからよく聞こえない。2号の手は私の足を揉んではいるが、彼女の耳の神経は完全に隣のブースの方にいっている。1号も耳を澄ませて隣の会話をじっと聞いている。私たち3人の耳はすっかりダンボちゃんの耳になっていた。
「外国人のお客なの?」 「うううん。中国人よ。毎日来るの。」
そう言うと、1号と2号は意味ありげに口の端っこで笑った。毎日こんな所へ来るなんて、相当お金を持っている人なのだろう。私なんか今日は特別投資と思って来たんだからね。常連さんはけばネエちゃんたちにとってはいいカモなんだろう。しかし、彼女らのいかにもいやそうな顔から察するに、おっさんは嫌われているようだ。
「どんな人なの?」
私の問いに1号も2号もはっきり答えず、ただにやっと笑って首を横に振るだけだった。当の本人が隣のブースにいるので、はっきりと問いただすことはできなかったが、ここの按摩師たちは若くてきれいなネエちゃんが揃っているから、鼻の下を伸ばしたスケベ親父に違いない。おっさんめ、按摩だけではなく何か特別なサービスでも強要するのかな。頭の中で勝手に想像が駆けめぐる。
そうであればここは健全な『按摩室』ではない。が、私は女性客ということでけばネエちゃん1号、2号は安心しているよう。また、マッサージ嬢がよっぽど変な趣味でもない限り、身の危険もないだろう。隣のおっさんのことは気になるが、私は下心などないまっとうな客だ。足の裏を2号に預け、しっかりと壷を押さえてもらおうじゃない。マゾっぽいようだが、揉まれる度に生まれ出る鈍い苦痛に耐えるのも、なんだか妙に心地よい。 「うん、やっぱり内蔵機能が弱ってるかしら。疲労には休息が肝心だから、あんまり無理しないことね。」
2号は最後にこう締めくくり、足壷マッサージは終了した。
「そうそう、それにあなたのタイツ、ちょっと薄いよ。ほら、私がはいてるこういうやつ、厚手で冬にはいいのよ。隣のショッピングセンターで売ってるわよ。30元ぐらいかな。冷えから体の調子が悪くなるから注意しなきゃ。」
1号からも教育的指導をいただいた。1号は自分のズボンをずり下げて、はいているタイツを見せてくれた。それはもろに肌色のラクダのパッチのごとき布地であった。
「しんどいようならまたおいで。私たちいつでもここにいるから。」
けばネエちゃんたちはにっこりとして、営業も忘れなかった。
華僑村の健康センター按摩室は確かに怪しい世界だった。が、按摩はきっちりやってくれるし、足壷マッサージもなかなかよかったので、ツボはツボでもけばネエちゃんの思うツボにさえはまらなければ、話の種にはおもしろい所かもしれない。ありがとう、けばネエちゃんたち。つまらないものだけどと、帰り際に1号と2号に貼り付けタイプのインスタント懐炉をあげたのだった。大いに喜ぶ彼女らの顔は、もはやしたたかなホステスの表情ではなく、かわいい20代の乙女の笑顔に戻っていた。 (1998年12月)
テーマ:エッセイ - ジャンル:小説・文学
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中国放浪回顧録 |
中国放浪回顧録 その32
【怪しいマッサージ室に潜入①】
ここ数年で中国もずいぶん変わった。特に都会は近代化が進み、もはやない物はないと言わしめるまでになった。首都北京の移り変わりもまたしかり。古き良き胡同(横町)は取り壊され、道幅を広げて舗装された。老舗は姿を消し、至る所にデパートやショッピングセンターができた。北京は殻を破って脱皮し、モダンに変身しようと日々努力している。街がきれいに立派になっていくのは喜ばしいことだが、古い物をただむやみに亡くしていくってのはいかがなものか。なんだか寂しい・・・・なんて感傷に浸ってしまうのは、年を取った証拠だろうか。
こんなことを考えながらむなしく冬の北京の街をぶらぶら歩いていると、余計に猫背になってしまう。なんせ今日はマイナス7度なのだ、体も縮こまって肩に力が入るのだった。血液が元気よく循環していないような感じがして、体がぎくしゃくする。こんな時はゆっくり温泉にでも入って按摩なんかしてもらえたら最高なのにな。しかし、中国に温泉を求めるのは間違いだ。温泉につかるならやっぱり日本。ならば按摩はどうだ。整体といえば、中国が本場ではないか。そうだ、どうして早く気づかなかったのだ。せっかく中国に来ているのだから、その道の先生に固くなった体をほぐしていただこうじゃないの。
善は急げ(?)というわけでさっそくインフォメーションを探す。こんな時、首都はさすがに便利である。日本人が大勢住んでいるから日本語で書かれた北京生活情報なるパンフレットがあるのだ。どれどれとその冊子をめくってみると、ほらほらあった、按摩情報。広告を出しているところは結構あるもんね。しかし、ホテルの中の按摩屋はきっとボリデーインに違いない。ではほかにどこかあるかな。ぬぬぬ、華僑村(外国人が住むアパート群の名前)の中に按摩をやっているところがあると書いてあるぞ。温水プールの設備があるところらしいから、健康センターみたいなものかな。ここなら信用できそうだ。行ってみよう。
華僑村は建国門大街という大通りに面した一等地にあった。東隣は五つ星ホテルの長富宮飯店、西隣はショッピングセンター賽特ビル、向かい側は国際クラブと友誼商店という豪華で便利な場所に位置している。何度も華僑村の前を通ったことがあったのに、健康センターがあるなんてことは知らなかった。それではお邪魔しま~すと、華僑村の門をくぐり敷地内に入ってみたが、由緒正しき健康センターなど見つからない。もう一度一回りしてみると、なんだ、門を入ってすぐのところにあったじゃないの。ガラス窓から中を見 ると、確かに温水プールがある。間違いなくここは健康センターだ。だが、想像していたよりも建物は小さい。しかもなんだか雰囲気が暗い。更にだ、プールには泳いでいる人がいない。妙に静かだ。にぎわっているどころではなく、さびれているようだ。むむむ、見当違いだったかな。帰ろうか。いやいや、せっかくここまで来たのだから、入ってみよう。
勇気を奮ってたのもう!と扉をたたこうとしたのだが、おや、どこから入るのだろう、入口が見あたらない。建物を一周回ってようやくわかった、隅の方にチケット売り場のような窓口があり、その横のドアが開いているのだった。しかし、係員がおらん。いったいどうなってるの。ま、いいや、入っていっちゃえ。もぬけの殻になっている狭い事務室の奥を進んでいくと、温水プールにつながっていた。私はプールなどに用はない。按摩をしてもらいたいのだ、按摩を。『按摩室』はどこだ?しかし、一階フロアは全部温水プールになっている。おかしいと思ったら、なんだ、事務室の横っちょに階段があったじゃないの。上っていくと果たしてあった、『按摩室』。けれども、やっぱり誰もいない。どうなってんのだろう、ここは。幽霊屋敷ならぬ幽霊健康センターか?
「按摩ですか?」
ふいに後ろで男の声。ぎょっとして振り返ると、うさん臭そうな兄さんが立っていた。そ、そ、そうだ。私は客だ。兄さんは面倒臭そうに按摩のメニューを見せた。全身コース、半身コース、足壷マッサージコースなどがあり、それぞれ時間によって料金が設定されている。私は全身コース45分、98元というのを選んだ。兄さんはわかったというふうにうなずき、おい、客だぞと控え室に向かって叫んだ。すると、年の頃20歳前後のほっそりした女が現れた。へ?あなたがマッサージ師?ネエちゃんは「そうよ」と言った。私はてっきりマッサージの先生は年を取ったじいさんかばあさんだと思っていた。仕事人と言われる按摩の技術を身につけ、ベテランの象徴である深い皺が顔に刻まれたような人を想像していたのである。そして年季の入った白衣に白い帽子といういでたちで登場するのだとばかり思っていたのに、目の前にいるのは白衣はおろか、普通のセーターとズボンという格好でロングヘアーをなびかせ、しかも長いマスカラ、濃い口紅、青いアイシャドウというけばけばしい化粧の、どこがマッサージ師やというようなネエちゃんである。これなら按摩室というよりクラブかキャバレーのノリではないか。ここへ来たのはやはり失敗か。どうも怪しい、怪しすぎる。逃げるなら今だ。
「どうぞ、こちらよ。」
どうしたものかと迷っている私のことなど気に留める様子もなく、けばネエちゃんは四つあるブースの一つに案内してくれた。各ブースは薄い板で仕切られていて、中には病院で診察の時に使うような細い寝台があった。出入り口はデパートの試着室みたいにカーテンがドア代わりになっている。
「上着を脱いで。」
カーテンを閉めながらけばネエちゃんが指示をする。別に全部脱ぐ必要はないようだ。 「うつむきに寝て。」
彼女はにこりともせず、愛想もクソもない能面のような冷たい表情で事務的に指図をした。言われる通り寝台に横たわると、けばネエちゃんはバスタオルを私の背中にかぶせ、慣れた手つきで首の方から按摩を始めた。こんなに若いネエちゃんで大丈夫だろうかと心配だったが、マッサージの方はなかなか上手で気持ちよい。
「痛かったら言ってね。」
と、けばネエちゃんは最初に言ったが、力加減も私にはちょうどいい。首、肩、背中、腰、臀部、腿、ふくらはぎ、足の裏と順番に丁寧に揉んでいき、今度は仰向けになった。けばネエちゃんは指先に力を込めてこめかみを揉み、次いで首の付け根のところを引っ張り上げるように揉んだ。かなり力がいるだろうに、スリムな体のどこにこんな体力があるのだろうかと感心してしまう。
「ずいぶん凝ってるわね。」
けばネエちゃんは肩から腕にかけてを揉みながら、呆れたように言った。そう、私は肩凝り性なのだ。けばネエちゃんはわかったというふうに、更に指に力を入れ、きゅっきゅっと丹念に私の肩を押した。あ~、こたえる。う~、かいか~ん。マッサージ用の椅子やローラーベッドの指圧より、やっぱり人に按摩してもらうのは最高の気分だ。けばネエちゃんは腿、ふくらはぎの脇、足の裏まで手を抜くこともなくぐいぐい揉んだ。
「時間になったけど、終わる?それとも延長する?」
45分なんてあっという間に経つものだ。せっかく来たんだし、ネエちゃんの按摩は上手だし、30分延長してもらうことにした。彼女は笑顔も浮かべずにこっくりとうなずくと、再び私を俯せにして背中を念入りに揉んだ。はぁ~、夢見心地。思わず眠ってしまいそう。ああ、このまま時間が止まってほしいと思うのだが、30分なんてすぐ過ぎてしまった。
「どう?足壷マッサージやってみない?」
けばネエちゃんが上手に営業をかける。そうねぇ、せっかくだから足の裏もやってもらおう。
「足壷マッサージは別の人がするわ。私はここまでよ。ねえ、私のマッサージうまかった?もしそう思ったらちょっとばかりチップもらえないかしら。」
さすがけばネエちゃん、したたかである。起き上がって靴をはこうとしていた足が一瞬止まっちゃったではないか。
「チップって、どれぐらい払うものなの。ここに来た人はみんな払うの?」
逆にこちらから訊いてみる。
「・・・ん・・・ん・・・・別に今日じゃなくても、また次に来てくれた時でいいわ。」
なんと、けばネエちゃんはあっさり引き下がってしまった。なんでかな?もらえそうもないと思ったんだろうか。
【怪しいマッサージ室に潜入②】へ続く
テーマ:エッセイ - ジャンル:小説・文学
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中国放浪回顧録 |
中国放浪回顧録 その31
【小公共汽車商売(ミニバス)は仮の姿?②】
兄ちゃんの家は自由市場のすぐ側のアパートだった。我々はバスを降りたが、叶英(イエイン)だけが一緒について来ないのだった。アパートとは別の方向へ離れていき、
「私は用事があるから行けないの。お姉ちゃんちでゆっくりして。じゃ、またね。」
と手を振って、にこっと笑った。え、なんで?叶英(イエイン)、どうしちゃったの。しかし、兄ちゃんも運転手さんも去っていく叶英(イエイン)を気にしていない。彼女がいなければ私はちょっと寂しいけれど。
兄ちゃんの家はアパートの一階であった。兄ちゃんが玄関を開けると、中にいた奥さんが駆け寄ってきた。
「この子はね、日本から来たお客さんなんだよ。」
兄ちゃんは奥さんに私を紹介した。
「よく来たわね。さ、どうぞあがって。」
と、にこやかに迎えてくれた奥さんを見てびっくり。ものすごい美人だ。大きな目、形のいい鼻。しかも色白である。が、あんまり叶英(イエイン)と似ていないな。もちろん叶英(イエイン)もかわいくてチャーミングなんだけど、お姉ちゃんには気高い美しさがある。こんなことを言ってはナンだが、こんなにきれいな人がルックス的には決して美男子とは言えない兄ちゃんの奥方だとは思えないのだった。
おうちの中はとてもよく掃除が行き届いていて、家具などの調度品も立派な彫刻が施されている。テレビがある。大きな冷蔵庫もある。一般庶民だと思っていたが、小公共汽車(ミニバス)の商売って結構儲かるのかもしれない。部屋の中を見回していると奥さんがアルバムを持って来た。中国ではお客さんに写真を見せてもてなすということがよくある。このうちも典型的な中国の家庭なんだな。
「ほら、見て。日本に行ったことがあるのよ。これはみんな日本で写した写真なの。」
なに!中国の人は旅行で自由に海外へ行くことなどできないはず。研修や出張など仕事のための渡航というのならわかるが、小公共汽車(ミニバス)関係者が出張や研修で日本へ行くなんてことは考えられない。はて、どういうこと?アルバムに貼り付けられた写真を見ると、なるほど確かに日本で撮った写真である。おのぼりさん的ではあるが、観光名所でこの美人の奥さんが仲間らしき人々とともににっこり笑って写っている。日本に親戚でもいるのかな。
ぺらり。次のページをめくってみると、あれ、あれれ、え・・・・・えーっ!!私はひっくり返りそうになった。
「あの・・・もしかして、この人、奥さんですか。」
私は写真の中の人物を指さして訊ねた。
「ふふふ、そうよ。」 「びっくりしたかい?」
奥さんも夫の兄ちゃんもクスクスッと笑った。運転手さんも私の驚いた顔を見て、にやにやしている。なんと、写真に写った奥さんは京劇の女優さんだった。華やかな衣装に身を包み、京劇用の濃い化粧をしてはいるが、写真に写っている人物は間違いなく私の目の前にいる奥さんだ。講演終了後にファンらしき日本人と一緒に撮影したような写真、花束を抱いて微笑んでいる写真、講演関係者と一緒の集合写真など、奥さんはいつも真ん中になって写ってる。ひょっとして奥さんは花形スター?ページをめくっていく度、その推測は確実なものとなった。フィナーレの舞台の上で、奥さんは中央に立っているのだ。看板女優さんなんだ、この奥さんは。私は写真と実物の奥さんを代わる代わる見た。
「ふふふ、見て。これ、日本で買ったのよ。」
奥さんは嬉しそうに炊飯器を指さした。
「これも日本で買ったし・・・これもよ。そしてこれも。」
家の中にある電気製品はほとんど日本製のようだ。
「日本での公演は素晴らしかったわ。日本のお客さんはとても喜んでくれたの。」
なるほど、日本の印象はよかったのね。家族もその影響を受けたのだろう。だから日本から来た私に対して親切にしてくれたんじゃないのだろうか。叶英(イエイン)の気配りは見習わなければならないほど完璧に思えたが、それも私が日本人だったからかな、なーんて変にうぬぼれちゃうな。
「あの子は本当の妹じゃなくて、私の仕事仲間なのよ。」 と奥さん。へっ、じゃあ、叶英(イエイン)も京劇の役者なのか。ただただ驚くばかりの私をよそに、兄ちゃん、奥さん、運転手さんはテーブルを広げ始めた。
「今晩は家でご飯を食べていって。家内がご飯を作るから。」
兄ちゃんは嬉しそうにしているが、こっちはもう卒倒しそうである。
「大丈夫よ。遠慮しないでね。ほら、隣は自由市場なの。すぐ支度できるわよ。」
いやいや、手の込んだ料理じゃないからとか、別に食事の支度ぐらい面倒じゃないからとか、そういう問題じゃないってば。恐れ多くも寧夏京劇団の大スターの手料理をいただくなんて、もったいない話である。これは夢かもしれない。私が気を失いそうになっている間に奥さんがぱっぱとこしらえた鶏のスープ、蒸し魚、レバーと野菜の炒め物料理のうまさや、デザートのスイカの甘さなどはうつつとは思えんのだった。ああ、これこそ夢心地、幸せ気分だ。でも本当に夢だったら、暴れ狂ってしまうほど悔しい。
次の日、私は銀川を去った。駅まで叶英(イエイン)が小公共汽車(ミニバス)で送ってくれた。
「あなた、京劇の劇団員なんだって?」
私の問いに叶英(イエイン)はちょっとはにかんで見せ、それからクスッと笑った。
「元気でね。また銀川に遊びに来てね。」 笑顔で手を振って、彼女はまた慌ただしく小公共汽車(ミニバス)の中に引っ込み、旧市街へ続く道を走り去っていった。しかし、どうして京劇の役者が小公共汽車(ミニバス)の車掌なんぞしておるのだろうか。肝心なことを訊くのを忘れてしまったな。まったく私ときたらどこかまが抜けている。したがってその疑問は今をもって謎のままである。
あれから20年近く経つ。もしかしたら、今頃叶英(イエイン)はお姉ちゃんの跡を継いで寧夏京劇団の花形女優になっているかもしれない。しまった、サインもらっとくんだったな。やっぱり私はまぬけである。
(1988年7月)
テーマ:エッセイ - ジャンル:小説・文学
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中国放浪回顧録 |
中国放浪回顧録 その30
【小公共汽車(ミニバス)商売は仮の姿?①】
銀川はおもしろい造りの街で、新市街と旧市街に二分されている。それぞれの街をつなぐ交通手段は市バスであるが、市バス以上に小公共汽車(ミニバス)が幅を利かせて活躍している。小公共汽車(ミニバス)が何台も街の間を行き来し、びゅんびゅん走っている。車掌の呼び込みの声も元気よく、二つの市街を結ぶ道路を繰り返し繰り返し飛ばしているのだった。
今、私の前を一台の小公共汽車(ミニバス)が止まり、中から香港人と思われる観光客が6,7人降りてきた。みんなラフな格好の若い子だから、バックパッカーだろう。やった、ラッキー、是非彼らに訊きたいことがある。せっかく銀川に来たからには、郊外にある西夏王陵を拝みたいが、そこまではやや遠いので、国際旅行社かどこかでバスを借りなければならない。大勢人が集まればチャーター料も頭割りにすると安くすむんだけど、こういう時一人旅というのは大きな弱点である。そこで一緒に行く人を探すのだ。香港人達に声をかけてみたところ、
「あらま、実は私たち、この小公共汽車でたった今西夏王陵まで行ってきたところなんだ。」
という返事が返ってきた。なんだ、残念。ラッキーは一瞬にしてアンラッキーに変わる。なかなか思うようにはいかないな。が、私たちのやりとりを聞いていた小公共汽車(ミニバス)の車掌が私に向かってこう言った。
「今日一日がんばってあなたの仲間を集めてみて。うまく集まったら明日の朝ここに来てよ。私たち毎日この道を行ったり来たりしているから。西夏王陵ツアーは一日貸し切り料金140元よ。」
車掌はかわいい15歳くらいの女の子だった。しっかりしていて親切だ。是非彼女の小公共汽車(ミニバス)で西夏王陵へ行きたいものだ。
「私、叶英(イエイン)っていうの。もし見つけられなかったら他の小公共汽車(ミニバス)に叶英(イエイン)の車はどこか訊ねてみてね。そうしたら仲間たちがあなたが待ってるってこと教えてくれるから。」
叶英(イエイン)はにっこり微笑んで、じゃあねと走り去っていった。よーし、それじゃあひとつ、個人旅行者を探してみよう。誰か一緒に行きませんかぁ。西夏王陵ツアーに行く人この指と~まれ。私はこの日一日、外人客が宿泊していそうなホテルを巡り歩き、参加希望者を募った。
ところがである。こういう時に限って誰もおらんもんなのね。銀川はまだ観光地としてはマイナーな方だから旅行者が少ないのも仕方がないか。だがしかし、西夏王陵はやっぱり諦められない。どうしてもどうしても見ておきたい。次の日の朝、叶英(イエイン)に言われた場所に私は一人立って待った。かくなる上はわたしゃ一人でも行くざんすよ。ヘーイ叶英(イエイン)!私を連れてって。しばらく待つと、一台の小公共汽車(ミニバス)がスピードを落として私に近づいた。バタンと扉が開き、中から叶英(イエイン)が顔を覗かせた。
「あら、どうしたの?あなた一人?」
黄色いミニのワンピースの裾をひらひらさせて、びっくり顔の叶英(イエイン)が外に飛び出してきた。そう。一人でも行くのだ。きっぱりと断言する私をしばし見つめ、叶英(イエイン)は首を傾げた。
「140元よ。大丈夫?」
西夏王陵のためなら140元ぐらい惜しくはない。しかし、もう手持ちの人民元が底をついたので、FEC(兌換券)で払ってもいいかしら。
「いいわ。FECだったら90元でいいわよ。」
彼女は大変良心的である。人民元とFECは公式的には価値は同じだが、実用性、つまりブラックマーケットにおいてはこれぐらいの差が出てくるのであった。実に個人旅行者の金銭感覚を把握している。叶英 、君はただ者ではない。その上彼女は一人でバスをチャーターする私を気の毒がってか、どこからともなく昼ご飯用の肉まんと、飲み物を買ってきてくれた。また、西夏王陵だけではなく、市内の名所も回ってくれると言う。まだあどけない娘なのに、叶英(イエイン)はよく気が利いてサービス上手だ。
トンボめがねをかけた運転手さんも威勢のいいおじさんで、
「あんた一人だったらどこの席に座ってもいいから、自由にして気楽に乗っててよ。一番後ろの席で寝転んでてもいいぜ。」
と、親切なのだった。が、客は私一人ではなかった。もう一人、やや色黒の兄ちゃんが座っておいでである。
「この人はね、私の仕事仲間なの。」
叶英(イエイン)が紹介した。ふうん、小公共汽車(ミニバス)仲間の兄ちゃんか。
「僕がいろいろ案内するよ。よろしく。」
兄ちゃんが愛想良く挨拶した。なかなか感じのいい人だ。まだ地元の人に3人しか会っていない段階で結論を出すのは早いのだが、銀川の人は気さくで親切だ、と思う。
運転手さんの『行くぜぇ』の合図で小公共汽車(ミニバス)は走り出した。20分ほど快調に飛ばすと、ややや、見えてきた見えてきた、何もない荒野にぽつりぽつりとプリン型の西夏王陵が姿を現した。何気なく、且つ無造作に存在しているお墓は見事なまでにワイルドだ。大地と墓と青空だけが目前に迫る。色彩的には茶色とビリジアンブルーの二色だけの世界。シンプルながら鮮やかな景色だ。
が、近寄ってみると、大まかな造りに見えたお墓も実は一層一層丹念に土が盛られている。そして遠くから見たらプリン型に見えたのだが、間近で見ると蜂の巣を伏せたような形なのであった。兄ちゃんと運転手さんは私と一緒にバスを降りて、西夏王陵について解説してくれた。写真も撮ってあげるよと言うので、カメラを兄ちゃんに預け、ただ私は陵墓をバックにして、モデルのようにポーズを撮っていればいいだけであった。
もっとじっくり西夏王陵を見物したかったが、夏の強い日差しの下、砂漠にちょっと立っているだけでも干涸らびそうになるんだから、もう限界だった。うう、暑う~。私たちは急いで小公共汽車に戻った。中では叶英(イエイン)が後部座席に横になって待っていた。
「どうだった?銀川で一番の見どころってだけあったでしょ。」
と、彼女は起き上がり、さっき買ったジュースの瓶を私によこした。本当によく気がつく子である。次に小口子というピクニックセンターのような自然の美しい場所に行った。兄ちゃんの説明によるとここは避暑地なのだとか。緑のお山に小さな花々が咲いている。弁当でも持って、友達とワイワイやりながらのんびりするにはいい場所である。兄ちゃんが記念写真にと、なだらかな丘をバックに私を撮ってくれた。
「おなかすいたでしょ。さ、どうぞ。」
小公共汽車(ミニバス)に戻ってきた私に叶英(イエイン)は肉まんを差し出した。サービスのタイミングが抜群の叶英。しばしみんなでランチタイムだ。
小公共汽車(ミニバス)は郊外から市内に戻り、清真寺、海宝塔、承天寺塔と回った。 やっぱり兄ちゃんがついて降りてきて、説明してくれたり、写真を撮ってくれたりした。これにて銀川一日遊覧ツアーは終了ということになり、私は叶英(イエイン)、兄ちゃん、運転手さんにお礼を言った。見知らぬ旅行者同士でバスをチャーターしていくツアーも楽しいが、一人でチャーターするのもいい気分だ。バスの中ではどこに座ってもいいし、自分の好きなところで車を止めてもらってもいいのだから。つまり、一人だったらわがままがきくってことだ。
「僕の家に寄っていかないか。スイカでも食べよう。」
兄ちゃんが提案した。運転手さんもそれがいいと言うので、兄ちゃん宅に向かって車を走らせた。
「私のお姉ちゃんはこの人の奥さんなの。」
叶英(イエイン)が兄ちゃんを指さした。ということはお姉ちゃんも小公共汽車(ミニバス)の車掌なのかな。家族ぐるみで小公共汽車(ミニバス)の商売をやっているんだろう。
【小公共汽車商売は仮の姿?②】へ続く
テーマ:エッセイ - ジャンル:小説・文学
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中国放浪回顧録 |
中国放浪回顧録 その29
【パトカーでドライブ②】
公安局には昨日のメンバーだけではなく、他にも5,6名ほど集まっていた。寄り合いだろうか。と、そこへ恰幅のいい大柄のおじいさんが現れた。お巡りさんたちはおじいさんを拍手で迎え、恭しく挨拶をした。なんだなんだ、このじいさんはもしかして共産党のお偉いさんか。
「もう退職されたんだが、俺達の領導(上司)だ。」
めがねの兄さんが説明してくれた。どうやらこの領導(上司)は部下たちを激励がてら遊びに来たようだ。というわけで、かつてのボスをお招きしての公安局親睦活動大会(レクリエーション)の始まり始まり。総勢10名(私も入れて)は3台のパトカーに分乗し、ハイキング気分でレッツゴー!はて、今日はこれからどこへ行くんでしょう。
日本で警察の車が連なって走っていたら、道行く人は何か事件が起こったのかと思うだろう。これからパトカーは急いで現場へ駆けつけるんだなと。ところがどっこい、我々の辿り着いたところと言えば、事件現場ではなく、新橋という村にある大きな池であった。
「領導(上司)はこれからここで釣りをするんだ。」
めがね兄さんが教えてくれた。しとしとと小雨が降ってきたのでみんな雨合羽をはおって池のほとりに座り込み、釣り糸を垂れた。ふうむ、この池ではいったいどんな魚が釣れるのかしら。私は領導(上司)の側に寄り、その様子を見物することにした。が、なかなか魚はかからないようで、10分経っても20分経っても釣り糸はびくりとも動かない。うーん、公安局のお偉いさんも、苦戦を強いられている。加油 、 加油(がんばれ、がんばれ) 、と励ましたが、逆に静かにせいと教育的指導を受けた。そうだった、魚がたくさん釣れるかどうかが問題ではない。そんなにせかなくても過ぎゆく時間に身を任せ、静かにのほほんとくつろぐのが施乘での過ごし方としては正しい。
「それじゃ我々はちょっと散歩でもしようか。」
もはやめがねの兄さんはすっかり私の世話係となっている。悠長な釣りチームを待っている間、別の場所を案内するというのである。口髭が立派な兄さんとともに、またパトカーに乗った。今度は口髭兄さんが運転席に座り、私は助手席に座らされた。パトカーの助手席に乗るのは、もちろん初めての経験である。車を走らせる前に口髭兄さん、悪戯っぽく説明を始めた。
「ほら、ここにマイクがあるだろ。これでな、『おい、待て、止まりなさい』って言うのさ。あんたもやってみるか?スイッチを入れたら声が響くぜ。」
市民が驚いたらどうするの!勝手にパトカーで遊んでいいのか。
「これ見て。」
と、更に口髭兄さんは続けた。取りい出した物は、な、な、なんと拳銃だった。もちろん本物である。彼は私の手に拳銃を握らせた。ずしりと重量感がある。ひゃーっ、飛び道具なんて持つのは初めてのこと。新しくはないが、黒光りしていて長年使われた貫禄が感じられる。感心して拳銃を見つめている私に向かって口髭兄さんが言った。
「撃ってみろ。」
えっ!とっさに手を放したもんで、拳銃はぼとっと鈍い音を立てて落ちた。うろたえる私を見て、口髭兄さんもめがね兄さんもケラケラ笑った。完全におちょくられている。まったく、冗談が過ぎるお巡りたちめ。
我々3人は黄平という町に着いたところで腹ごしらえをしようということになった。適当に入ったレストランには兄さんたちの知り合いが火鍋(鍋料理)を囲み、食事をしている最中であった。ようよう、久しぶりだな、元気かおまえらってな具合で我ら3人は自然に火鍋(鍋料理)チームに混ざった。いいんだろうか、勝手にお邪魔しちゃって。躊躇していると早く座れと叱られた。何がなんだかわからなかったが、火鍋(鍋料理)はとてもおいしいので、勧められるままどんどん食べた。人が大勢集まって円卓を囲めば、中国の食事は大いに盛り上がる。鍋以外にも次々と料理が運ばれてきて、みんなで片っ端から取り分ける。
「ほら、これ食べてみるかい。」
口髭兄さんが小丼に入っている赤いゼリー状のものを見せてくれた。賽の目に包丁が入っていて、上に赤唐辛子の粉とネギがかけてある。
「これ、何ですか。」 「ははは、まずは食べてみな。」
兄さんに勧められ、ゼリーをひとつまみ口に入れる。噛むとどろっと溶けて食感がなくなり、液体となって口の中に広がった。ゼリー自体に味はないが、唐辛子が利いてぴりりと辛い。いったいこれは・・・・兄さん、正解を教えて。
「これはな、豚の血を固めたものだ。」
ふえぇぇぇぇ~、とうとう豚の血まで口にしてしまった。どおりでちょっと生臭いと思った。驚きの余り口も利けないであわあわ言っている私を見て、みんなは大笑いした。
長い昼食を終えると私たち3人はパトカーで新橋へ戻った。さて、領導(上司)の釣りはどうなっただろうか。
「ははははは、魚は昼寝が好きなようだな。見てくれ。」
領導(上司)の獲物は3匹だった。それでも楽しめたら幸せ気分。領導(上司)の顔は明るい。
「さあさ、みんなこっちに来てくださいよ。もう準備ができてるんですから。」
我々を呼ぶのは女性のお巡りさんだった。彼女は焚き火を起こして鍋にぐらぐら湯を沸かしていた。いつの間に整えたのだろうか、自炊道具を車に積んできていたとは実に用意周到である。私たちが火鍋(鍋料理)に舌鼓を打っている間、彼女は一人でせっせと水餃子を作っていたのだった。私も餃子を包むお手伝いをし、できたものから大鍋に放り込んでいった。そして、次々と茹であがっていく餃子をみんなでふうふう言いながら食べた。小雨で冷えた体も水餃子で温まる。公安の皆様が大鍋を囲み、湯気の立ったアツアツの餃子を頬張っている姿はなんと平和なんだろう。時間の流れが止まったような昼下がりなのであった。餃子をたいらげると、野外活動はお開きとなった。我々は再びパトカーに乗って、施乘の町へと帰る。
活動大会(レクリエーション)はこれにて終了だろうと思ったが、甘かった。まだ続きがあったのだった。いったんは公安局に引き返し、世間話で盛り上がった後、最初にお巡りチームと出会ったレストラン、雲台酒家へ繰り出した。せっかく里帰りなさった領導のためにここにて宴会を計画している模様。
「私も?」 「もちろんさ。いい機会だからおつきあいしなさい。」 「かたじけないです。」 「なんの、なんの。これは職場の行事なんだから遠慮する必要ないさ。」
めがね兄さんは私の背中を押して雲台酒家へ入れた。経費で落ちる行事だからといって、何の関係もない外国の旅人が参加してもOKっていうのが中国の偉大なところだ。おおらかなのか、はたまた無頓着なのかは知らないが、こんなにお呼ばればかりで嬉しいやら恥ずかしいやら嬉しいやら嬉しいやら。今晩は公安局交通課のメンバーがレストランを貸し切りにして、ご馳走パーティー。ああ、ここはまさに天下太平、山と渓谷の楽園。お巡りさんたちがつるんで遊べる施乘ってパラダイスだぜ、OH、イェーイ。ひゃぁ、もう食べられないですぅ。大宴会の席上でげっぷを連発しながら施乘の夜は更けていくのであった。
(1990年5月)
テーマ:エッセイ - ジャンル:小説・文学
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中国放浪回顧録 |
中国放浪回顧録 その28
【パトカーでドライブ①】
バスで雨上がりの施乘に着いたのは午前11時半だった。座席番号1番で、つまり一番前の席に陣取ってフロントガラスに貼り付くつくようにして座ってきたもんだから、私はとっても機嫌がいい。乗り物は一番前に座ると、景色がばっちり見えてスリリングだ。るんるんるん、足取りも軽くなる。
施乘の町は地図に記されている通り、狭い。方向音痴の私にとって、こういうわかりやすい町はとても便利。さて、もうお昼だ。おなかがすいてきた。どこでご飯を食べようかな。ぶらぶら歩いていると雲台酒家という名前のレストランにぶつかった。
ごめんくださ~い、お邪魔しま~す。テーブルが大小取り混ぜ5セットほどある。私は空いているテーブルについて、何を食べようかなぁと菜単(メニュー)を開いてみた。
「あんた、一人かい?」
話しかけてきたのは隣のテーブルで食事をしている男性3人組だった。3人とも公安の制服を着ている。ドキッ、お巡りだ。今までお巡りとは言い合いをしたり、とっ捕まえられたりと、どうも私とは相性がよくない。できれば避けたい3人である。
「あんた、どこの人?へえー、日本人か。はるばる遠いところから来たね。」 「一人だったらこっちに来いよ。一緒に食おう。」
公安トリオは親切にも自分たちのテーブルに誘ってくれた。どうしようか。見ると、なかなかうまそうな物を食しておいでである。鍋物のようだ。食い意地が張って意地汚くなっている私は、それではとお巡りグループによせてもらうことにした。まったく、私の辞書には遠慮という言葉はない。いただきま~す。うーん、美味。おなかがすいているからか、本当においしい。でも、これは何という鍋料理だろう。
「これか。これは狗肉(犬の肉)だ。」
なんと犬鍋だって。ああ、初めてワンコの肉を食べてしまった。ううう、かわいい動物のお肉を食っちまっただなんて。しかし、うまいぞ。パクパクパク。調子に乗って食べてしまう。公安の方々と仲良く食事をさせていただき、もうおなかいっぱい。ごちそうさまでした。
「俺達はこれからダム工事を見に行くんだが、あんたも一緒に行かないかい。」 お巡りさんたちのお誘いでついて行くことになり、我々はレストランを出た。そして、彼らは裏に止めてあったパトカーに乗るよう私を促した。ええっ、パトカーに乗るの?ああそうか、彼らは公安だっけ。それにしてもパトカーに乗ってダム見学という展開になろうとは、夢にも思っていなかったことである。パトカーは曲がりくねった山道をずんずん突き進んでいく。行く手に広がる木々の緑が雨露に濡れて光っている。実にのどかなドライブだ。運転しているめがねの兄さんは痰が絡むのか、開けた窓からしきりにカアーッ、ペッ、カアーッ、ペッと痰を吐く。お願い、あんまりよそ見をしないでくだされ。乗せてもらっている身でこんなこと言うのはナンだけど、細い山道なのでちょっと怖いのだ。
と、突然パトカーは停まった。どうした、兄さんそんなに喉の調子がよくないのか。
「よーし、ちょっとここで車を洗うとするか。」 先ほど降った雨の影響で、山肌から湧き水があふれるように流れ落ちてきていたのだ。みんな車から降りたので、私も降りて洗車を手伝った。きれいな清水をすくってはパトカーに浴びせかけ、布でごしごしこする。それを何度も繰り返した。
「よーし、もういいだろう。」
お巡りさんたちは最後に湧き水で顔と手を洗い、きれいになったところでもう一度水をすくってごくごく飲んだ。私も真似をして水を飲む。うーん、冷たくておいしい。ああ、すっきり、さっぱり、気持ちいい。
パトカーも我々もリフレッシュし、再び出発。車はどんどん山奥へ進む。ずいぶん走ったなと思った頃、ようやくダムが見えてきた。工事現場では大勢の人夫さんがつるはしを振り下ろして働いている。人海作戦だ。人夫さんは近寄ってきたパトカーに気づくと、手を止めて背筋を伸ばした。
「オーイ、調子はどうだ。」
パトカーを降りて公安たちは叫んだ。
「ハイよ。順調にいってるでがすよ。」
労働者たちは陽気に答えた。が、雨の多い気候の中での工事はなかなか大変だろうな。我々はしばらく工事の様子を眺めていたが、お巡りさんたちの引き返そうの合図でパトカーに乗った。
「よっしゃ、今度は苗(ミャオ)族の村に寄っていこうぜ。」
小太りのおじさん公安が寄り道を勧める。村の視察もパトロールの一環かしらん。しかし、こんなにみんなで遊んでいてもいいの?皆さん、市民の安全のためにお仕事しなくてよろしいんですか。
「大丈夫さ。いつものんびりしたもんさ。」
聞けば、彼らは公安でも交通課の皆さんであった。施乘のように小さくてのどかな町には交通事故などめったに起きないんだろう。だから多少はぶらぶらしててもいいわけか。納得。
パトカーは別の山道を入っていき、やがて一件の農家の前で停まった。我々が姿を現すと、農家の主はようこそ、よくぞいらっしゃいました、ささ、どうぞどうぞと、とても丁寧な応対だ。さすがは泣く子も黙る公安様のお通り。我々が縁側に腰掛けると、お嫁さんは『何もございませんが』と言うように、その実タイミングよくさっと食べ物を運んできた。狗肉とキャベツとお茶だ。突然人の家にやって来て上がり込み、もてなされるとはこのお巡りトリオ、なかなかたいしたものである。まさに秋田県のなまはげ的威力だ。彼らはお茶をすすり、狗肉とキャベツをバリバリやりながらおしゃべりを始めた。それはビールに枝豆でしみじみ語るというイキな雰囲気に似ていた。もっとも私は苗(ミャオ)族の言葉がわからないので、ひたすらキャベツをかじっていたが。
農家で30分ほどお邪魔してから、私たちは再びパトカーに乗り込み、村とお別れした。これにてドライブは終了だ。どうもどうも、すっかりお世話になってしまって恐縮至極。 「あんた、明日も暇だったら俺達とつきあいな。」
えっ、またお巡りチームとパトカーでドライブ?
「朝、迎えに行ってあげるよ。」
彼らは招待所まで送ってくれて、じゃ、明日またねと、言い置いて去っていった。しかし、私の泊まっている所から公安局まではものの5分ぐらいで歩いていけるのだ。お迎えなど無用というもの。どうぞ、お構いなく。ま、口約束であるから兄さんたちも忘れるかもしれない。
ところが、施乘の公安は律儀であった。翌日、私は目を覚まして、さて本日の行動をおっぱじめるかなと部屋を出るや、そこにめがねの公安兄さんがやって来た。
「やあ、おはよう。さ、行こうか。」
爽やかな挨拶とともにすがすがしくご登場だ。ちゃんと迎えに来てくれただなんてと驚いたが、招待所の外に出てまた驚いた。パトカーが待っていたのだ。乗れよと言われて素直に乗ったが、何メートルも行かないうちに目的地の公安局に着いた。私は大名じゃないんだから、ここまでだったら自分で来られる。しかし、この件に関しては気にせずともよろしいとのこと。しかし、こんなにまで特別扱いというのは心苦しい。あの、私のことならどうぞお気遣いなく、あの、あの・・・おいっ、兄さん、ちっとも聞いてないっ!
【パトカーでドライブ②】に続く
テーマ:エッセイ - ジャンル:小説・文学
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中国放浪回顧録 |
中国放浪回顧録 その27
【公安に捕まえられる②】
「君は日本人か。」
お兄さんの表情はどことなく厳しい。そうだ、と答えると更に険しい顔つきになった。そして、おばさんに服務台の机と椅子2脚を外に運び出させた。机を真ん中に挟んで椅子を配置すると、公安のお兄さんは偉そうな態度で一方の椅子に腰掛け、もう一方の椅子に私が座るように促した。は?何?私はおばさんと公安の顔をかわるがわる見た。おばさんはおどおどと、心配そうに私を見つめている。
「質問するよ。」
お兄さんはじっと私を見据えた。な、なんだ、なんだ。かしこまっちゃって。それに大袈裟にも机と椅子を外に出させるなんて。旅社の服務台が狭すぎるからだろうか。
「君はどこから来たんだ。」 「日本ですけど。」 「いや、張家口へはどこから来たのかという意味だ。」 「シリンホトです。」 「どうやって?」 「バスで来ました。」 「どうしてこの町に来たのかね。」
ちょっとなによ、これってまるで取り調べじゃないの。どういうこと?横柄な態度で訊いてくるし。急に不愉快になる。しかし、相手は公安だ。渋々質問に答える。
「なるほど、それじゃ仕方なくこの町に立ち寄ったってことだね。」 「はい、そうです。」
お兄さんは私が答えたことを自分の手帳に書き留めていった。やっぱりこれは取り調べだ、職務質問だ、事情聴取だ!私は何もしてないぞ、怪しいモノじゃない!!だんだんいやな気分になる。更にだ。このやりとりを見物している人が徐々に増えてきて、はっと気がつけば、我々の周りには二重三重に人垣ができているではないの!見世物じゃないってば!見ないでよ!まったくイヤーな気分だ。
「パスポートを見せなさい。」
私はむすっとしたままパスポートをお兄さんに渡した。彼はしげしげとパスポートの表紙を見つめてから、一ページ一ページ丁寧に見ていった。周りの野次馬たちも身を乗り出して私のパスポートをのぞき込もうとしている。ふんっ、正真正銘の赤パスだい。うそじゃないんだからね、どうだ、まいったか。
「へ~え、これがパスポートってものか。」
公安のお兄さんはつぶやいた。なんだ、あなた初めてパスポートを見たの!?こっちがまいった。彼はちょっと嬉しそうににやっと笑うと、パスポートに記されている文字をいちいち手帳に書き写す。くっそー、こんな田舎公安に捕まえられるなんて。取り調べだったらカツ丼でも持って来いってんだ。だいたいなんで私がこんな目に遭わなきゃなんないの。何の罪もない旅行者を疑うなんてさ。私はただきのうの列車に乗り遅れてやむなく張家口にいるのだ。そして意地悪ホテルが泊めてくれないもんだからこの旅社に来たんじゃないの。中国人しか泊まれない旅社ってことは百も承知で・・・・あっ、そうか、外国人が泊まっちゃいけないところに泊まってしまったから、こうやって尋問されてるわけか。あらまあ、自分には罪などないと思っていたが、おばさんの無知をいいことに、私は立派な罪を作り上げてしまったのだ。きっとおばさんは初めて外国人が自分の旅社に泊まったのが嬉しくて、うっかり隣近所に私のことをしゃべってしまったんだろう。それで近所の人がまた近所の人におしゃべりし、伝言ゲームの要領で噂が伝わって、この公安のお兄さんの耳にも届いてしまったんじゃないだろうか。公安沙汰になったもんで、おばさんの顔は青ざめている。私を泊めたばっかりにいざこざに巻き込まれちゃったのだから気の毒である。ごめんね、おばさん。私、今日中に絶対出て行くから。だが、事態はより厳しい方向へと進んだ。
「君は今すぐこの町から出て行くように。張家口は対外開放していない。外国人は来てはいけないんだよ。」
公安はこう言ってパスポートを返してよこした。へ?張家口って未解放区だったの?うそ!うそだ。ここは交通の要所でもあるし、決してちっぽけな町じゃあない。冗談でしょう、お兄さん。
しかし、実は本当だったのだ。後で知ったのだが、張家口には軍事施設があるのだった。またこの時は折りも折り、かの天安門事件の翌年だったので、公安だってピリピリしていたんだろう。そうとは知らない私はからかい半分もあってお兄さんに楯を突く。
「出て行くって、どこへ出て行ったらいいんですか。」 「ここからなら北京が近い。」
むむむ、言う通りだ。
「どうやって北京へ行ったらいいんですか。ちゃんと教えてください。」 「北京へ行く手段はいろいろあるよ。」 「例えば?」
さっきから傍らではらはらしながら我々を見ていたおばさんが、たまりかねてぱっと飛び出してきた。
「すみません、こちらでこの子に出て行く先を教えますから・・・・」 「そうかい、じゃ、よろしく頼んだよ。」
公安のお兄さんはすんなり引き下がった。公安が帰ると人垣も解けてなくなった。あーあ、びっくりしちゃった。だけど、おばさんにすっかり心配かけてしまったな。
「大丈夫。ハイラル行きの列車が着く頃、こっそり駅まで送ってあげるから。それまで奥で隠れていなさい。」
おばさんは笑い飛ばした。こうしてこの日の夕方、おばさんに匿われながら張家口南駅のプラットホームにこっそり入り込み、ハイラル行きの列車に無事乗れた。おばさん、ほんとにほんとにごめんなさ~い。まったく私ったら人騒がせな旅人である。
そこで教訓。通過する町でも乗り換え地点では、対外解放区か未解放区かちゃんと調べておくこと。中国では何が起こるかわからない。自分の予定通りにはなかなかことが運ばないものなのだ。
それにしてもだ、公安め。いくら未解放区っていっても、知らずに迷い込んで来たいたいけな旅行者をびびらせて何が嬉しい!!私のどこが怪しいってーの。こんなにキュートな大和撫子を不審人物と見まがうなんてひどいじゃないの。軍事施設があるからって何だ!わたしゃ新聞記者でも報道カメラマンでもないわいっ。中国の機密を探ろうとか暴こうなどという、大それたことなんかするわけないでしょうが。スパイとでも思ったんかしら。日本から来た女スパイ?!・・・・ふんっ、悔しいから日本に帰ったら『中国でスパイと間違われちゃってさあ』って言っちゃおう。『へえっ、カッコイイじゃん』と言われるように尾ひれや腹びれをつけて脚色しちゃうのだ。取り調べは鉄格子のはまった冷たくて暗い部屋に連れて行かれてねえ・・・とか何とか言って、本当は旅社の庭先だったことは口が裂けても言うもんかい。
(.:1995年より張家口は対外開放都市となりました。)
(1990年8月)
テーマ:エッセイ - ジャンル:小説・文学
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中国放浪回顧録 |
中国放浪回顧録 その26
【公安に捕まえられる①】
長らくお世話になったシリンホトに別れを告げ、次に目指すは、やはり内蒙古の北端の町ハイラルだ。ハイラルへの道は遠い。バスに乗って約7時間、張家口という町で下車、そこから列車に乗り、車中2泊してようやくハイラルに到着するのである。移動はかなりハードだ。全身に気合いが入るぞ。
朝8時の張家口行きのバスに乗る。かなり混んでいる。祭の終わりとともに人々もシリンホトを脱出しようとしているのだ。ところがこの脱出劇、なかなかうまく運ばない。バスの調子が悪く、何度もエンストを起こす。その度に運転手が修理にかかるので、大幅に予定は狂っていく。やっとエンジンの調子がよくなったと思ったら、今度はタイヤの具合がおかしくなったり。あ~あ、何かと問題の多いバスに乗ってしまった。列車の時刻表を見ると、ハイラル行きの列車が張家口の駅に到着するのは4時半頃である。バスが順調に走ってくれていたら、悠々この列車に間に合ったのに、どうやらもう望みはない。仕方ない。張家口で一泊だ。やれやれ、泊まるつもりなんてなかったのにな。
結局、張家口のバスターミナルに着いたのは夜の8時。12時間もかかったなんて大誤算だ。地理もわからない上に、あたりはすっかり暗くなっている。知らない町をほっつき歩くのにもずいぶん慣れたが、夜に到着すると心細い。ホテルはどこ?人に訊ねながら、やっと張家口飯店を探し当てた。しかし、フロントで“没有”(部屋はない)と言われる。再びホテル探しだ。しばらく歩いて、大きなホテル発見。ここなら外国人でも泊めてもらえそうだ。ところが、
「外国の方はお泊めできません。」
と、無情な返事が返ってきた。そこをなんとかと頼んでみたが、けんもほろろに断られた。一泊ぐらい泊めてくれたっていいじゃない。張家口ってなんて冷たい町なんだ。腹立たしさと悲しさが胸の奥の方から突き上げてくる。どうしよう。ピンチだ。
こうなったら鈍行列車に乗って、別の町まで行こうかな。市バスに乗り込み、張家口南駅を目指す。その時である。雷が鳴り始め、雨も降り出した。雷も雨も次第に激しくなって、バスが終点の南駅に着いた時には、どしゃ降りに変わっていた。あ、あ、あ、傘、傘。こういう時に限って、リュックの奥深くに傘を突っ込んでしまっていることに気づく。なんとか傘を取り出したものの、この大雨では役に立たず、瞬く間に体が濡れていく。とりあえず駅の待合室へ行って休もう。駅までたったの50メートルぐらいの距離だ。あともう少しで雨宿りができる。そう思って道路を横切ろうとした時、
ドボッ!! あれぇ~っ!!
気がついたら私は腿のあたりまで水に浸かっていた。排水溝の不完全な道路は、突然の大雨で一瞬のうちに川と変化していたのだ。それに気づかず、道を渡ろうとして、水たまりの深みにはまってしまったのだった。ひえぇぇぇ、こりゃあ、たまらん、大ピンチ。早く避難せねば。
やっとの思いで道の脇まで移動したが、すでに全身びちょびちょの状態だ。あらあら、水も滴るいい女・・・なんてギャグを言っている場合じゃありませんよ。ホテルはないわ、大雨に降られて濡れ鼠だわ、まさに泣き面に蜂って気分。とほほほ、惨めな旅行者だわ。あー、ずぶ濡れで体中気持ち悪い。それにいくら真夏でも、ここまで濡れちゃったら風邪をひくかも。やっぱり駅の待合室でちょっと座って休憩したい。
這うようにして南駅に辿り着いたら、腰が抜けたようになって、へなへなとベンチに座り込んだ。これでは列車に乗ってどこかへ行くどころじゃあない。でも、このままじゃ気色が悪すぎる。せめて着替えたい。どこかに着替えられそうな場所はないものか。きょろきょろきょろ。あれっ、向こう側のベンチに“旅社”というプラカードを持ったおばさん見~いつけた。普通中国では旅社には外国人を泊めないが、こういう非常事態だ。一か八か、ダメでもともと、訊いてみよう。おばさんに近づいていき、おそるおそる泊まりたいと切り出した。
「ああ、いいよ。」
おばさんはにこっと笑ってあっさり答えた。
「私、外人なんですけど、泊まれますか。」 「もちろんよ。さあ、おいで。」
おばさんに連れられて、駅前の小さな旅社に入った。そこは煉瓦造りの平屋で、入口を入っていくとすぐ部屋になっていて、フロントのカウンターなんてなかった。
「登記(チェックインの手続き)しなくてもいいんですか。」 「その机の上の宿帳に名前を書いておいて。」
本来ならば、外国人を泊めてもいいホテルの場合、英語訳のついた登記カードがあって、それには国籍や生年月日、この後訪れる町などを記入する欄などが設けられている。しかし、ここは旅社であるから正式な手続きはなし。
「おやまあ、ずいぶん濡れたもんだねえ。服を着替えるなら、さ、こっちへおいで。女の人は隣の部屋なんだ。ここがあんたのベッド。自由にお使い。」
おばさんは親切に案内してくれた。通された部屋にはスチールパイプのベッドが四つ並べられている。一番奥のベッドが今晩の私の寝床となった。
「あんた、どこの人。へえ、日本人かい。とにかくうちに外国の人が来たのは初めてだよ。感激だね。」
おばさんは初めての外人客に大はしゃぎ。やっぱりおばさん、旅社に外国人を泊めてはいけないってこと、知らないみたいである。が、よっぽど嬉しいのか、着替え終わった私にいろいろお世話をしてくれる。びしょ濡れになった私の髪をタオルで拭いてくれたり、汚れた足を洗うようにと洗面器にお湯を汲んで来てくれたり、恐縮至極である。
「おなかすいてないかい。遠慮せずにお言いよ。今日のお客はあんた一人だけだから、自由にしていいんだからね。トイレは大丈夫?行きたくなったらそこの隅っこにある壺にしたらいいよ。大きいほうだったら、外の公共厠所(公衆便所)まで行かなきゃならないけど。ついて行ってあげるから大丈夫だよ。暗いからね、懐中電灯持って。今日は私もこの部屋で寝るから、安心しなさい。怖くないよ。」
おばさんの優しさは涙が出るほど嬉しかった。しかし、部屋の中においてある痰壺の中へ用を足せと言われたら、驚きの余り尿意も引っ込んでしまう。は~、今日はもうくたくた。ご親切にすっかり甘え、体をベッドに横たえるとすぐに眠りに落ちた私だった。
翌朝、目が覚めたのは9時を回ってからだった。ああ、よく寝たこと。よっぽど疲れていたんだろう。さて、身支度を整えよう。今日こそはハイラル行きの列車に乗らなくっちゃ。おばさんにお礼を申し述べ、夕方の列車で去ることを告げた。
「じゃあまだ時間があるね。列車の時間まで張家口を見物すればいいよ。町の北に水母宮っていう公園があってなかなかきれいだから。」
おばさんの提案通り、私は町をぶらつくことにした。お散歩気分でそのあたりを見て回り、昼前頃機嫌良く旅社に戻ってきた。すると、入口の前に公安のお兄さんが立っているのが見えた。彼は私を見つけると軽く手招きをした。
【公安に捕まえられる②】に続く
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中国放浪回顧録 |
中国放浪回顧録 その25
【いよいよナーダム大会②】
休憩タイムになると、観客たちがわさわさと動き出す。しばらく座ったままじっとしていたんで、体を伸ばしたり腰をさすったりしてから次の行動へ移る。昼ご飯を調達に出かける者、トイレに行く者と、人々の行動は2種類に分かれた。私は後者のほうだった。会場の横にテントで覆われた仮設の公衆トイレがあった。開幕式が終わったところだったもんだから、皆トイレにどっと詰めかける。私もどっこらしょと立ち上がり女子トイレへ。
ところが入ってびっくり。一瞬めまいが襲った。超満員!である。人が大勢いるだけでは何も驚きはしないが、無秩序状態になっていたからかなわない。このトイレ、敷地面積ではゆとりのある広めの造りになっていた。中は便所壺用の溝が敷地の奥半分に10カ所ほど設けられている。ドアなしではあるが、中国の公共厠所(公衆便所)としてはごく普通の、慣れればなんてことはない、典型的なタイプである。人がそんなに多くなければ正常に使用されるはずだ。
が、しかし、溝の数に対してあまりにも多数が押し寄せ、その上、皆我慢の限界にきているもんだから、素直に順番を待っている者などいない。何の躊躇もためらいもなく、入口を入ってすぐのところで用を足す者が多い。頼むからちゃんと溝をまたいでやってくれよ。地面にしゃがみ込んでするなってば。敷地内だったらどこでもいいのか。あんたら、それでも女?ひえぇぇぇ、不潔だ、あまりにも不衛生だ!小さい方ならまだしも、溝のないところで大きいほうなんかやるんじゃないよ、まったく。おのれのブツはきちんと溝の中へ落とせ!他人の目にさらすでない!紙もところ構わず捨てるんじゃないよ!ウンコもおしっこも使用済みのペーパーも地面に散乱しているえげつなさは、ますますその度合いを増していく。つまり、汚物が瞬く間にそこらじゅうに増えていくのだ。ああ、もうイヤ。悪夢だ。ここは修羅場だ。足の踏み場がないとはこのことだ。いや、そんな生やさしいもんじゃない。地獄絵図さながら、阿鼻叫喚と言っても差し支えないようなこの汚さ、恐ろしさ、むごたらしさは筆舌に尽くしがたい。こんな場面に出くわすなんて、まさにまさに未知との遭遇である。
こりゃあ、まいった。ある程度人が引くまで待っていよう。くるっと回れ右をし、トイレを出ようとして、ぎょっとした。人がとぎれることなく、後から後から入ってくるのだ。わあん、この魔宮からは出すモノを出さなきゃ出られないのか。しょうがない、覚悟を決めて、やっと空いた溝をまたいだ。しゃがんでいざ!という時、誰かが私の後ろに来て、同じ溝をまたいだ。えっ・・・・?ウソでしょ。やめておくれ!二人羽織じゃないんだからね!お願いだから、私のお尻やズボンにあんたのおしっこ、ひっかけないでね。うう、悲しい、悲しすぎる。いくら人間の生理現象といえども、こんなに凄まじき形で見たくはないぞ。ナーダム大会の仮設トイレは、中国旅行のうちでワーストナンバーワントイレ間違いなし。これが地獄の便所から生還して思ったことだ。華やかなナーダムの記念の一ページに、忌まわしい汚点がついてしまったが、これも忘れられない思い出であることは事実である。
ばっちい話題はここまでにして、ナーダム大会に話を戻そう。祭の競技はモンゴル相撲、競馬、アーチェリーなどがあったが、最も驚いたのは競馬だった。日本のそれと異なり、段違いにスケールが大きく、且つのどかなのだった。馬の走るトラックは緑の大草原の中に設けられている。日本の競馬場の3倍ぐらいはあろうかという大きさだ。だから馬がトラックの向こう側を走っている時は、遠すぎて肉眼ではその姿を確認できないほどだ。スタート地点にはゲートなどなく、スタートラインを引いたところから出発する。どうやら5,6頭ずつ組になって走るようである。もちろんスタート前にファンファーレなんか鳴らない。ついでに言うと賭けもなし。はずれ馬券をまき散らす光景もなければ、「武豊がんばれ」のかけ声もない。更に言うと、右手に競馬新聞、左手にトランジスターラジオを握りしめ、耳に赤鉛筆を挟み血走った目つきで観戦するおっさんの姿もない。もっと言うと・・・・もういいってば。
レースは自然を舞台に走るからだろうか、張りつめた緊張感はなく、空気まで柔らかい。観客も思い思いの場所で、くつろいで見物している。私も草の上に横座りし、しばらくレースを見ていた。
内蒙古の馬は実に小振りだ。大きく、スマートで、足が細いサラブレッドの走りのようなダイナミックさはない。が、華奢な体をめいっぱい動かして躍動する様は健気でたくましく、しかも愛くるしい。
一レースはトラック3周。恐ろしく長い距離だ。係員の合図で、馬たちは元気にスタートを切る。走り出すと、騎手はそれぞれ、手に持った鞭を振り上げた。鞭といっても選手らが手にしているのは、紐の先に石みたいなおもりがついているやつだ。激しくひっぱたくのではなく、それを馬の顔の近くで振り回し、かけ声をかけて走らせているのだった。
3周目になると、馬にも疲労の色が見えてきた。全身からどうどうと流れ出る汗が、馬の体を濡らして光っている。ラスト一周、騎手はいっそう鞭を振り回す。目を大きく見開いて最後の力を振り絞り、狂ったように走る馬たち。息も絶え絶えという姿は、見ていて切なくなるほどだ。中には本当に狂っちゃってコースをはずれ、目をむいてめちゃくちゃに走ってしまう馬もいた。のどかな草競馬の割には、内容は激しい。
「いやいや、直線コースの競馬の時はもっとすごかったのよ。死んだ馬もいたんだから。」
白馬飯店に戻って、本日の競馬の模様を服務員のお姉ちゃんに報告したら、こう答が返ってきた。ナーダムの競馬恐るべし。あなどれん。まさに馬にとっては命がけ、過酷な祭典なのであった。
祭の間、シリンホトの町の人はかなり気合いが入っていた。道を訊ねても、優しい笑顔で親切に教えてくれる。商店で買い物しても、店員たちは皆一様に愛想がいい。お釣りを投げてよこしたりもしない。中国での爽やかな応対ってあんまりないから、ひどく感激してしまう。シリンホトナーダム大会を成功させようと、市民が一丸となってサービスに努めているんだろう。
サービスと言えば、我らが宿の白馬飯店もやってくれる。宿泊客を食堂に集め晩餐会を催したのだ。ホテル側から食事を振る舞っていただくなんて初めてのこと。我々客のほうが戸惑ってしまったじゃないの。白馬飯店はやることが憎いネ。庭の宿泊用包(パオ)もさることながら、晩餐会とはなかなか気が利いているではないか。
スマイルの町は居心地がよくて、結局一週間も滞在してしまった。ナーダムは町に活気を呼び、来賓を十分楽しませたのだった。ただし、仮設トイレを除いての話であることは強調して言っておく。
(1990年7月)
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