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稚拙な表現ではありますが、旅行記などを発表していきたいと思います。
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しゃんるうミホ

Author:しゃんるうミホ
青春の思い出?若気の至り?
中国大陸をほっつき歩いた旅記録です。
現在、ラオス旅行記掲載中!



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新彊野宴(シンチャンバンケット)
新彊野宴(シンチャンバンケット)

 【エピローグ】

 カシュガルは朝から賑やかだ。人の集まるところにはお喋りやロバのいななき声、荷物を運ぶトラックの通る音が、終わらぬ音楽のように耳に入ってくる。ウイグル帽をかぶった白い髭のおじいさんが煉瓦を積んだ荷台をロバに牽かせようと、ホイッホイッとかけ声をかけ進んでいく。健気にも鼻を垂らしながら重い荷物を牽くロバに同情しつつ、朝飯の店を見繕う。ナンの店を見つけ近寄ると、

「ヤポンルック、ナン食べるか?」

と、太った店主が竈からナンを引っ張り上げた。ホカホカできたてのナンをもらい、木陰の石段に座ってパクついた。

 ぼんやりナンを頬ばりながら目の前をいろんな人が行き交うのを眺めた。レースをかぶり矢がすり模様のワンピースを着たウイグル女性、麻袋を担いだ屈強なウイグル男性、裸足で駆けていくウイグル少年、アフガンスタイルのブルカで頭からすっぽり体を覆い小股で歩く女性・・・。右へ左へ流れていく人達の中にふと見覚えのある顔を見た。あれっ、あの人は誰だっけ?黒いウイグル帽、白髪まじりの顎髭、くわえタバコで歩いている男が僕の前をスッと通り過ぎたのだ。誰だったっけ、誰だったっけ。僕はナンを食べるのをやめて立ち上がった。男は雑踏の中に消えようとしていた。あ、そうか!思い出した!彼は靴職人だ。職人街の通りで靴を縫っていた男だ。と、突然彼が言った言葉が頭の中で蘇った。

「おい、ヤポンルック、質は大切だぞ。」

 咄嗟に僕の頭の中で花火が上がり、体中火花が散ったように震えた。そうだ、質は大切だ。人の質というものも重要なのではないか。志を大きく持って自分の道を歩きたい。そう思うと体の中の血が沸騰してくるような気がした。妥協すると自分を裏切ることになる。僕はズボンのポケットに手を突っ込み、瓜生さんからいただいた手紙を握りしめた。と同時に駆け出していた。あの靴職人に聞きたいことが僕の中でどんどん膨らんだ。

 彼はどこへ行ったんだろうか。バザールに蠢く人々をジグザグに交わしながら靴職人の姿を探し回った。ざわめきと暑さと人いきれに酔いそうになりながらも、とうとう男の背中を遠くに見つけた。僕は何度も人やロバにぶつかりそうになって彼の姿を見失いそうになった。見失ってなるものか。これが自分にとっての夢につながるかもしれない。よろめき、汗でベタベタになりつつ、僕は夢中で朝のバザールの中、靴職人を追いかけた。


 今日もカシュガルの朝は暑い。バザールには波打つように人がうねり、ロバのいななきがあちこちで聞こえる。いつもと変わらぬ夏のカシュガルだ。太陽は容赦なく人々に照りつけ汗を流させる。しかし今日からはそれがエネルギーになり、やる気を起こさせてくれるものに変わった。本当の夏が始まる予感がし、僕自身の扉がここで大きな音を立てながら開いていくのを感じた。

 かつてシルクロードを旅した人達はここで様々なものを見たり、いろいろな人に出会ったりして何かを考えたことだろう。僕もそんなシルクロードの旅人の一人になれただろうか。明日、友だちに手紙を書こう。書きたいことが山ほどある。僕の気持ちの変化をわかってくれるだろうか。

 砂と小石を巻き上げながらロバ馬車が連なって走って行った。風に乗って砂がサーッと散っていく。それはまるで魔法使いがかける魔法みたいに、ゆっくりベールのごとく広がって消えた。砂漠のオアシスの砂埃は熱い。僕は砂埃と流れる汗を拳骨で遮りながら前を向いて歩いた。シルクロードの魔法にかかったように、僕のエネルギーは今大きく燃え始めた。


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新彊野宴(シンチャンバンケット)
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 【僕の進むべき道】 その8

 瓜生さんの問いかけに答えあぐねていると、

「ははははははは、、まあ、あまり真剣に悩まないほうがいいかもしれんねぇ。」

 瓜生さんはカラカラと笑い、自分のコップに湯を注ぎ足した。

「まあ、自分は何に向いてるかいろいろ試してみるとよろしいでしょう。いろんなことにぶつかんなさい。ああでもない、こうでもないって迷いながらねぇ。」

 瓜生さんはフーフーと息を吹き、お茶を冷まして一口ゴクリと飲んだ。

「そうですね。何がしたいか、それを見つけなきゃいけないのは自分でもわかってるんですけど・・・」
「そうですな。それを見つけ出すのは試行錯誤が必要かもしれんねぇ。ああ、これだっていうのを見つけるのは簡単にいく人もいるが、難しい場合も多い。いったい自分は何が好きなのかわからない人も多いでしょう。でもこれは人生で一番大事なことだと私は思いますよ。いい学校に入るよりも、いい会社にはいるよりも困難かもしれません。だけどね、だからこそ妥協はしちゃいけないと思うんです。」
「妥協しちゃいけない・・・んですか。」
「ええ。何に向いてるかだけじゃなくて、何に向いてないかという点も自分で見極めて、そう、下の息子もそれで悩んだんだが、捨てるものととっておくものをきちんと選別するのがよろしかろう。」
「得意なことと苦手なことをより分けるってことですか。」
「そうです。切って捨てることも大切ですな。苦手なことなのに持っていては重荷になる。向きじゃないと思えばやめたらいい。向きだと思うものの中で選択していったら、そこから夢が生まれるやもしれない。」
「夢・・・ですか。」
「ええ。夢は大きくなくてもよろしい。自分に合った夢でいい。ただ、夢を描くとそこに辿り着くまでには山あり谷あり、苦労はつきものでしょうな。でも、それがいいんです。挫折は大いに味わいなさい。勿論、挫折したままじゃあいかんが、それを乗り越えようとするエネルギーが人を変えるんです。そして見事壁を乗り越え挫折から立ち直った時、一回り大きくなってますよ、人間がね。挫折は神様からのプレゼントですな。」
「挫折はプレゼント・・・ですか。」
「そうです。挫折を知らん人間は人の気持ちもわからん。挫折を味わえばそれを解決しようとするワザや知恵を生み出す。強靱な精神と思いやりが育ちます。だから若い人にはどんどん挫折しなさいって言うんですよ。」

 僕は胸の奥が熱くなった。小さな火が心の奥の奥の方に点いたような気がした。

 ドミトリーに戻り、僕はベッドに仰向けになった。天井を見つめていると、さっき瓜生さんに話していただいた言葉が頭の中でぐるぐる回っていた。昨日の晩と同じ状況だ。でも、きのうと今日では明らかに違っていた。きのうはただただ不安で眠れなかったが、今晩は瓜生さんの言葉が体に心地よかった。ちょっと勇気づけられたような、背中を押されたような気がして精神的に楽になった。今日はゆっくり眠れそうだ。同部屋のバックパッカー達のお喋りや、持ち物を整理する音や、シャワーの音などの雑音が子守歌のように耳に響き、いつのまにか眠っていた。

 翌朝目覚めると同部屋の連中は半数以上起きていて、洗面やら着替えやら朝の支度をしていた。ざわめきの中、目をこすり伸びをする。ちょっと爽やかな気分だ。遅まきながら僕も身支度を調え、軽い足取りで階下へと下りた。今日も暑そうだ。でも、この町をもう一度じっくり見てやろうという気が湧いてきて、上向き調子なのが自分でもわかった。一階ロビーを通り過ぎようとした時、受付の女の子が呼び止めた。

「お手紙が届いてるわよ。」

 僕に?女の子から丁寧にたたまれた白い紙を手渡された。いったい誰からだろう。急いで開いてみた。

 戸田様
 別の町へ向かいます。貴殿にはお世話になりました。ありがとうございました。捜し物が見つかりますよう、ご健闘をお祈りしております。どうか精一杯青春を謳歌なさいませ。                           瓜生

 瓜生さんはカシュガルを離れたのか。まだろくに観光もしてないだろうに、どこへ行ってしまったんだろう。一人旅にはまだ慣れていないようだが大丈夫なんだろうか。ふと不安がよぎった。しかし、頭には声高らかに笑う瓜生さんしか浮かんでこない。戦争を体験した瓜生さんのような人には、もう怖いものなんかないのかもしれない。心配は取り越し苦労なのかもしれないなと思い直した。 

 僕はもう一度手紙を読んだ。見つけられるだろうか、僕が探しているものは。少なくとも応援してくれる人がいる。左手で手紙を握りしめ、右手の拳を胸に当てた。そして再び折り目に沿って手紙をたたみ、更に小さくたたんでズボンのポケットの奥に突っ込んだ。瓜生さんの手紙はお守りだ。そう、彼はもしかすると救いの神だったのかもしれない。ひょっとしたら神様が瓜生さんの体を借りて、助言しに来てくれたんじゃないか。そう思うと瓜生さんと話したことが夢だったようにも感じられた。


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新彊野宴(シンチャンバンケット)
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 僕の進むべき道 【その7】

 結局瓜生さんはカシュガルの地図を一日だけお借りしますと言い、他の町の地図は受け取らなかった。この日の夜、僕はドミトリーのベッドに横たわったままなかなか寝付けずにいた。瓜生さんの言葉が頭の中をぐるぐる駆け巡り、目が冴えてしまった。

 ほとんど眠れぬまま朝を迎え、起き出した客の雑音ですっかり目も覚めた。これからどうしようか。苦悩を抱えつつ街に出て彷徨う。カシュガルの主要な場所はもう行き尽くしていたが、もう一度歩き回った。まるでおさらいでもするように、自分自身を辿っている気分だった。だけどいくら街を歩き巡っても答など見つかりはしない。

 疲れた体を引きずるように、夕刻ホテルに戻ってきた。ロビーのソファーに倒れ込み、フーッと大きく息をつく。目を閉じ、まとわりつくような気だるさを振り払おうと試みる。そのうち睡魔に襲われ深い眠りに引きこまれた。

 ガクンと頭が下がり、ハッとした。あれ、ここはどこだ?一瞬わからなかったが、ロビーのソファーで眠りこけていた自分に気づいた。いったいどれくらい眠ったのだろう。外はもう暗くなりかけていた。

「目が覚めましたかな。」

 すぐそばで突然声がした。見ると瓜生さんが向かいのソファーに腰掛けていた。

「15分ほど前に戻ってきたんですがね、戸田さんが気持ちよさそうに眠っているじゃないですか。これをお返ししようと思いましてね、お目覚めを待っていたんです。」

 瓜生さんはショルダーバックからきのう僕が貸した地図を取り出した。

「どうもありがとうございました。お陰で大変役に立ちましたよ。」

 僕は、はぁと地図を受け取った。

「それじゃあ。」

 瓜生さんは立ち上がり、自分の部屋へ帰ろうとした。

「あの、瓜生さん。」

 ふと口をつき、僕は瓜生さんを呼び止めていた。

「もう少しお話伺ってもいいですか。」

 瓜生さんは顔の皺を何重にも作って笑顔を見せ頷いた。僕は瓜生さんの後ろについてまたお部屋にお邪魔した。

「今日も日本茶でいいですかな。」

 瓜生さんはバッグをベッドの脇に置くと、マグカップを持ち上げた。戸棚から緑茶のティーバッグを取り出し、カップに入れ、湯を注ぎ入れた。

「今日もずっとあれこれ考えていたんですが、迷い道に入り込んでわかんなくなっちゃったんです。自分のしたいことがよくわからなくて。何をやったらいいのか全然見つけられなくて。あの、瓜生さんはどうやって自分の仕事を選ばれたんですか。」

 緑茶の入ったマグカップをどうぞと手渡してくれてから、瓜生さんはドサッとベッドに腰掛けた。

「そうさねぇ。私の場合は至極単純でしたねぇ。私は東京生まれの東京育ち、江戸っ子なんですがね、戦争で東京に空襲が落ちてきたもんだから、母方の親戚がいる群馬のに疎開したんです。十二の時に終戦を迎え、姉や弟とともに東京に戻ってきたんだが、住んでいた町はすっかり変わり果てていました。一面焼け野原だ。隣近所に住んでいた人達もそれぞれ戻ってきたんだが、家や商店なんか影も形もなくてね、皆一緒に泣きましたよ。家族を失い、家を失い、皆が路頭に迷った時代です。その時幼心に思ったんですよ。失った家族を取り戻すことはできないが、家はもう一度造り直せるだろうってね。家を造る仕事に就きたいっていう動機は私の場合、戦争だったんですよ。」

 瓜生少年が焼け落ちた家々を茫然と眺める様子を、僕は必死で想像してみた。

「私らの少年時代はないない尽くしの時代だった。だからこそ夢を持ちやすかったのかもしれません。私のクラスメート達も皆何らかの夢を持ってましたねぇ。医者になりたい者、相撲取りになりたい者、教師になりたい者、みんな無邪気で、且つ真剣だった。それに比べると今の時代は便利で豊かな世の中だ。こんな時代に夢を持つのはかえって難しいのかもしれませんね。」

 瓜生さんはごくりと自分のお茶を飲んだ。

「はぁ~、中国茶もいいですが、喋りながらの一杯の日本茶もなかなかいいもんですなあ。ははははははは!」

 僕も黙ってお茶をいただいた。

「まあ、私は割合簡単に自分の道が見つかりましたがね、息子はそうでもなかったようです。うちには息子が二人おりましてね、上の息子は製薬会社に就職しました。バブル経済まっただ中で就職活動の時期は売り手市場でしたからね、割に楽に仕事先を見つけられたようだ。けど、下の息子は違いました。いったん食品会社に入ったんだが挫折しましてね。サラリーマンには向いていないというのが途中でわかったようでして、とうとう脱サラしましたよ。15年くらい前だったかな、下のは魚屋を始めたんです。」
「えっ、魚屋!?」
「ええ、そうです。二番目は企業で働くより自分で商いするのが性に合っとったんでしょうな。魚屋になるってぇ時はこっちもひどく心配しましたがね、今は軌道に乗ったようで私もよかったと思っています。同じ子どもでもそれぞれ違うもんです。下の息子は魚屋になる前、あなたと同じようにずいぶん悩んでいました。会社で仕事をしていると、自分が自分じゃないようだってよく言ってましたよ。兄の方は要領がよく、会社の仕事をそつなくこなして、休みには趣味などをやる。でも、弟の方は仕事を全て自分の生き甲斐にしたいタイプだったようです。」
「お兄さんと弟さんでタイプが違った・・・」
「そうさねぇ、息子を持って初めて人間には2種類あるってわかりましたよ。兄のように会社に勤めて仕事をやり余暇は余暇で楽しむタイプと、弟のように仕事イコール趣味っていう生き方をするタイプとね。下のヤツは休みの日でも魚と格闘しとります。売るだけじゃなくて魚の研究もやるし、暇さえありゃ魚を使った料理をああでもない、こうでもないって試してますよ。元々釣りが趣味だったんで、それが高じてああなったんでしょうな。いつでも話題って言えば魚です。兄の方はそれとは逆でね、休日は仕事と関係あることは一切しない。仕事も好きというほどでもないらしい。でも、仕事はやることはやる。そりゃ仕事だからね。それでおまんま食ってるわけだから。戸田さん、あなたはどっちのタイプでしょうな。」

 僕ははたと考え込んだ。そんなこと考えたこともなかったのだ。


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新彊野宴(シンチャンバンケット)
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 【僕の進むべき道】 その6

 ホテルに戻って僕は地図を持ち、男子の部屋を訪れた。

「どうもどうも、わざわざありがとう。さ、どうぞ、お入りなさいな。」

 男性はドアを大きく開け、招き入れる手つきをした。本当はこれからシャワーを浴びて汗を落としたかったんだけど、少しだけならという思いで部屋に入った。

「ほうら、こういうの、どうです。」

 男性は備え付けの陶器のマグカップにお湯を注いで差し出した。中にはティーパックが入っている。

「中国のお茶もいいけど、ホッとしたい時はメイドインジャパンがやっぱりいいでしょう。」

 そのティーパックは日本茶だった。

「すみません、いただきます。」

 椅子に腰をかけお茶をいただいた。二口ほど飲んでから持ってきた地図を男性に渡した。

「いやァ、すみませんねぇ。ありがとう。」

 男性は早速老眼鏡をかけ、地図をじっくりと見た。

「これはずいぶん丁寧に書き込みしてありますね。いいんですかな、いただいても。」

 男性は鋭く頭を上げた。僕がうなずくと

「えーっと、失礼、お名前をまだ伺ってませんでしたな。」
「戸田といいます。」
「戸田さんね。えー、私はもう名刺など持っとらんからしょうがないですがね、ウリュウといいます。‘瓜’に‘生まれる’と書いて瓜生です。」
「瓜生さん・・・」
「はい、そうです。それにしても戸田さんが書き込みなすったこの地図、ガイドブックの地図よりも詳しいんじゃないですか。私も一応ね、地球のなんとかっていう指南書を持って来たんだが、どうも距離感とかねえ、つかみづらくてねえ。」

 瓜生さんは僕の地図を丁寧に見ては感心している。地図は現地調達だが、今まで行った店やら郵便局などのインフラなどを赤で印を入れ、書かれてなかったことも多く記入していったので、かなり詳細になっているのは確かだ。

「はあ~、こりゃあ助かる。」

 瓜生さんがあまりにも感心して地図に見入っているので、こっちもつい言ってしまった。

「よろしかったら参考までに他の町の地図も差し上げましょうか。あとウルムチ、トルファン、ホータンのがありますけど。」

 瓜生さんはゆっくりと顔を上げ、少し下にずれた眼鏡を上に押し戻しながら優しい口調で言った。

「いえいえ、これ1枚でじゅうぶんですよ。この地図だってこんなに詳しく仕上げてあるからいただくのが申し訳ないくらいだ。戸田さん、あなたが今までどこをどういうふうに旅行されていたか知らないが、こういう地図は戸田さんの足跡でもあるでしょう。あなたが見知らぬ町で、見知らぬ土地で生きていた証拠だ。どうかその証しを大切にして日本にお帰りなさい。」

 なんだか急に瓜生さんが仏様か何かに思えた。

「はあ、でも実は僕、旅をしても結局何が得られたのかわからなかったんです。僕と同じようにこの宿にたむろしていた仲間はちゃんと自分の目標を見つけて、それぞれ帰国していきました。僕だけ置いてけぼりを食らったみたいで・・・それならいっそ、こんな時間つぶしみたいな旅にけりつけて、日本に戻って就職活動でもしようかなあ、なんて思いまして。」

 瓜生さんはしばらく笑みをたたえたままじっと僕を見つめていた。

「だからいいんです。地図は日本に帰っても役に立つっていう代物でもないし・・・」

 沈黙が怖くて話を続けたが、瓜生さんが急に遮った。

「戸田さん、あなたはそう思っているかもしれないが、人生にね、役に立たないものや無駄なものなどないんだよ。自分がしてきたことにはね。私は退職するまで図面をかく仕事をしてきたんだが、若い頃はね、ちょうどあなたくらいの頃だねぇ、一本の線を引くのにもずいぶん迷いがあったし、失敗もした。だけどその迷いや失敗があってこそ、将来いい図面がかけるようになったんですなァ。ですからねえ、今はこんな地図、役に立つもんかなんて思っていても、将来これがあなたの支えになるやもしれない。勿論実際にはまたこの地図で同じ町を訪ねるってことはないかもしれないが、ずっと後になってこれが精神的な支えにねぇ、なってくるかもしれないですよ。」

 瓜生さんの口元の皺が口を動かす度にやわらかくしなった。

「それにね、戸田さん、今あなた、何か迷いがある状態でしょう。こんな時に慌てて日本に帰っても結果は同じじゃないですか。自分の志がはっきり定まらないまま焦ってもダメです。急がば回れ。折角日本を離れ、遙かこんな所まで来たんだ。もう少しあがいて、いろんなものを見てみたらどうです。人は人、自分は自分だ。物差しは一人一人違うんです。」
「そうでしょうか。」
「うん、心配しなさんな。戸田さんのように今の若い人は幸せだ。私が二十歳の頃は昭和20年代から30年代に移る頃だったからね、そう、ちょうど日本が高度成長期に差しかかった時分で、皆が皆働け働け、他の国に追いつけそらそらって時代でしたから、余裕なんてとてもとても。旅行なんて、ましてや海外旅行、海外放浪なんか夢のまた夢でした。それが今ようやく、この年になって実現しました。戸田さんは旅行がしたいと思った時期に願いが叶ってるでしょう。だからね、この時をね、どうか大切になさい。」


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新彊野宴(シンチャンバンケット)
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 【僕の進むべき道】 その5

 横に立っていた服務員が僕の肩をつついた。

「この人、何言ってんのか全然わからないのよ。通訳してくれない?」

 通訳と言われても、僕だって中国語がペラペラな訳じゃない。大学の第二外国語で培った知識と、旅で覚えた場当たり的な中国語をなんとか操っているだけなんだが。僕も少し戸惑った。しかし、そんなことはお構いなしに男性は言った。

「夕方の飛行機でカシュガルに着いたんですよ。ホテルを探していたらウイグルの人に馬に乗せられてここに連れて来られたんです。はははははは!やっぱり日本語は全然通じませんなあ、あははははははは!」

 でかい声だ。男性の笑い声はロビー中に響いた。

「あのう・・・チェックインされたいんですよね。」
「そうなんです。シングルに泊まりたいと今言ったんだが、どうもこれがうまく伝わらなくてね。」
「それでしたら、僕が言いましょう。」
「できればバスタブのついた部屋がいいんだが。」

 僕は男性の希望を服務員に伝えると、受付嬢は205号室の鍵をよこした。

「1泊70元だそうです。何泊されますか。」

 服務員の質問を通訳した。

「この町は見所がありますかねえ。」

 男性は僕を見上げた。

「ええ、郊外に遺跡もあるし、町も賑やかで面白いですよ。」
「じゃあ、とりあえず2泊しようかな。えーと、財布、財布と・・・」

 男性は2泊分の料金を受付に並べた。

「お荷物運びましょうか。」
「いやあ、荷物なんかそんなにないから大丈夫。205号室ね。2階なら階段で行こうか。」

 男性は床に置いていた茶色いショルダーバッグをかついだ。そして

「やぁ、どうもありがとう。お礼に一緒に夕食でも如何かな。」

と、かぶっていた緑色の野球帽を脱いだ。夕飯なら少し前に食べたばかりだ。しかし、なんだかこの人のことが気がかりだった。チェックインもろくにできないなら、レストランで注文するのも大変だろう。つき合ってあげるのが人情ってもんだ。

「じゃあ、軽くなら・・・」
「よかった。私ももう年寄りですからね、沢山は食べられないんです。お供していただけますかな。それじゃあ、ここで待っててくださいよ。荷物を置いたら下りて行きますんで。」

 男性はひょいひょいと階段を上って姿を消し、まもなくまたひょいひょいと階段を下りてきた。

「どこかいいところはありますかな。」

 男性は嬉しそうに聞いた。下がった目尻の先に幾筋か皺が広がった。とりあえずはいつも行ってる親父の店に案内することにした。

「いやぁ、さすが西域だなあ。北京時間で9時だというのにこんなに明るい。まるで昼間だなぁ。ははははははは!」

 男性はまた豪快に笑った。店に着き、扉をくぐると親父が、おう、来たかというふうな顔をし、

「今日はもう拌麺(バンミエン)しか残ってないぞ。」

とエプロンの肩ひもを引っ張りながら言った。

「じゃ、拌麺(バンミエン)お願いします。二人分ね。あ、どっちも少ない目にしといてください。」
「なに!?男の少食はいかんな。まあ、しゃあない、勘弁してやる。」

 親父はニヤッと笑って厨房に引っ込み、入れ替わりにいつもの少年がチャイを持ってきて僕らのテーブルに置いた。

「いやあ、君は中国語が上手いんだねえ。さっきは助けてもらってありがとう。本当に助かりましたよ。はっはははははは!」

 男性は野球帽を取り、テーブルの脇に置いた。

「いえ、簡単な会話しかできないんですけどね。それより、あのう、お一人でこちらに?」
「ああ、ええ、そうなんです。初めての海外旅行でしてね。この年で一人で外国に出るなんてって家族は皆心配したんですがね、シルクロードに来るのが若い頃からの夢だったんでねぇ。反対を押し切って来てしまいましたよ、ははははははは!」

 男性はズボンのポケットからハンカチを取り出し、額の汗を拭った。

「あのう、失礼ですが、おいくつでいらっしゃるんですか。」
「この春で喜寿を迎えました。実は今回の旅行も息子や娘達のお祝いでしてね。喜寿のお祝いに何がいいかと子ども達に聞かれたんだが、この年で欲しいものなど何もないですからねぇ。しかし、何もお祝いしないわけにはいかんと言われましてな、それならシルクロード一人旅がいいとかねてからの希望を言ったんですよ。そんなもんで旅費はほとんど子ども達からのプレゼントでして。その代わり、このお祝いをしてもらうのには時間がかかりました。今言いましたように当初は反対されましたからねぇ。」
「でも、いい喜寿のお祝いですね。」
「いやぁ、しかしなかなか大変なもんですなぁ。シルクロードに入ってまだ3日目なんですが、日本とはずいぶん勝手が違いますなぁ。はははははははは!中国は想像以上に手強いですな。」

 確かに。これは誰もが感じる率直な感想だ。

「すまんのですがお助けついでに、この町の見所なんか後で教えてもらえませんか。明日から回ってみようと思います。こんなじいさんに会ったのが君も運の尽きかな、ははははははは!」

 男性は本当によく笑う。

「そんな運の尽きだなんて。それくらいお安いご用です。後で地図を差し上げます。お部屋までお持ちしますよ。」
「地図は君も使うでしょう?いいんですか。」
「ええ、実は僕、あさってくらいにここを出て日本に帰ろうかと思ってるんで。」
「おお、そうですか。」

 拌麺(バンミエン)が運ばれてきた。

「ほほう、そばと具が別々になってるんですね。つけ麺みたいだなぁ。」

 男性は子どものようにはしゃぎながら拌麺に箸をつけ、うん、なかなかイケる、美味い、を連発しながらペロッと平らげた。


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 【僕の進むべき道】 その4

 気がつくと職人街に来ていた。何度となく訪れたこの通りだが、初めてこの場所に立ったような感じがした。目の前には靴屋があった。一人のウイグル職人が店の表に座って靴を作っていた。ミシンで器用に布を縫い合わせている。僕はその一針一針をじっと見つめた。

「そんなに珍しいか。」

 職人は顔を上げて聞いた。

「あ、すみません。あのう、あなたは何年くらいこの仕事を?」

 僕は答をごまかすよう逆に質問した。

「そうさなあ、23年、いや25年になるか・・・」

 職人の顎髭は首の付け根まで伸びていて白髪が混じっていた。頭には緑地にイスラム模様が施されたウイグル帽が載っている。靴底を縫い終えると、彼は胸のポケットからタバコを取り出しぷかぷか吸い始めた。

「お前はヤポンルックか。それともホンコンか。」

 ウイグルの靴職人はおもむろに聞いた。

「ヤポンルックですよ。」
「ふん、そうか。ヤポンの製品は質がいいよな。こっちじゃ高級品だ。ナショナル、三菱、三洋、東芝・・・みんながヤポンのを欲しがる。なあ、靴もヤポンのは品質がいいんだろうな。」
「うーん、そうですね。海外では日本製は評価が高いみたいですね。よくわからないけど、靴も質はいい方だと思いますよ。」
「ヤポンはどうやって質のいい靴を作ってるんだ?使う材料が上等なのか。職人の腕がいいのか。」

 僕は答えに詰まった。何と答えるべきかしばらく考えてからようやく

「お客さんの要求が厳しいんです。」
と言った。靴職人はフンと鼻を鳴らし、タバコを地面にぽとりと落とした。脇に置いていた袋の中から新しい布を取り出しミシンの台に置き、またカタカタミシンを動かして縫い始めた。くるりと靴底を一周縫うと、糸を引っ張りいったん切った。

「なるほど。客が厳しいってのは結構だ。でもそれだけじゃないだろう。腕がいいんだろ、作る奴の。一度見てみたいな、ヤポンルックの靴職人をよ。」

 彼は独り言のようにつぶやき、またミシンを動かした。

「どうも。ハイルホッシ。」

 さよならの挨拶をして、僕はその靴屋を去ろうとした。

「おい、ヤポンルック!質は大切だぞ。質を落としたら信用されなくなる。」

 靴職人は何故かそんなことを言った。そして一瞬優しい笑みを浮かべ、また仕事に取りかかった。その言葉は僕の胸に鋭く突き刺さった。

 適当に晩飯を済ませ部屋に戻ってくると、人はほとんど出払っていた。向こうのベッドに一人パキスタン人が寝ており、僕の隣の隣のベッドには足の裏がドロドロに汚れた西洋人がうつ伏せになって爆睡していた。僕もベッドに横になり天井を見上げてフーッと長い溜息をついた。先ほどの靴職人の言葉が頭に蘇ってきた。彼の言ったことはどうも意味深長に思えた。あれは日本の製品全般について言ったのか、それとも日本製の靴について言ったのか。いや、僕に対して放った言葉だったのかもしれぬ。僕の顔には迷いの表情がはっきりと見て取れたのかもしれない。僕は何かを考え、決めなければならない時期に来ているのかもしれない。

 そうだ、僕はヤポンルックだ。日本に生まれ日本に育った。こんな自分が日本を初めて飛びだし、初めて外国の大地を踏んだ。同じアジアの国でも外の世界は日本とずいぶん違っていた。インドも、パキスタンも、ネパールも、ここ中国も。大きなカルチャーショックを受けた。いや、カルチャーショックなどという生易しいものではない。雷に打たれたような強烈なショックだった。

 人はどこの国の人でも同じだ。朝起きてトイレに行き、朝飯を食ってから活動する。夜になると眠りにつく。嬉しいとき楽しいときには笑い、悲しいときは泣く。友だちといるときは心が和み、独りぼっちになると寂しい。これは万国共通のことだ。

 だが、文化は国によって違う。習慣も細かく異なる。僕は今回の旅で、人が持つ共通点とその人が作ってきた文化の違いを強く感じた。同じことと違うこと―ここから何か導き出せないか。仲間達から後れを取ってしまったが、遅まきながら自分の進むべき道を探らなければ。

 焦る気持ちと落ち着いてじっくり考えた方がいいという指令が、頭の中で綱引きをしている。ふうう、まいった。しきり直すように寝返りを打ったときだった。服務員の女の子が急ぎ足で部屋に入ってきた。一直線に僕の方へ向かって来るや

「すみません、フロントまでちょっと来てください。助けてくれませんか。」

 息を切らし、早口で言った。僕は飛び起きた。
「どうしたんですか?」
「日本のお客さんが来たんです。でも、何を言ってるのかさっぱりわからなくて。さあ、早く!」

 服務員は僕のTシャツの裾を引っ張った。一緒に1階フロントに下りていくと、そこには年配の日本人男性が立っていた。受付を挟んで二人の服務員の女性が困惑の表情を浮かべている。

「あのう・・・どうしたんですか。」

 僕は恐る恐るその男性に聞いた。

「ああ、日本の方ですか。こりゃあ助かった。」

 男性は緊張が解けたように表情がほころんだ。


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 【僕の進むべき道】 その3

 眩しい光が差し込んできて思わず身を起こした。いつの間にか夜が明け外は明るくなっていた。いけない、寝過ごしたか。慌てて時計を見る。時刻は11時35分を指していた。コージさんのベッドを見ると、そこに彼はいなかった。が、コージさんのリュックはベッドの側に立て掛けてある。よかった、まだ出発してなかった。夕べ、明け方まで二人で飲んでいたから寝坊するところだった。僕はフーッと長い息を吐いた。その時、トイレのドアが開き、コージさんが出て来た。

「おう、おはよう。名残惜しくなるから戸田君が寝てるすきに出ようと思ったのにな。」

 コージさんはバンダナを頭に巻きながら言った。

「そんな水臭いこと言わないでくださいよ。見送りくらいさせてください。」
「そりゃやばいな。泣いちゃうかもな。」

 コージさんは泣き真似をしておどけた。

「何言ってんですか!日本で奥さんが待ってますよ。」
「あー、やめて。照れ臭っ!」
「『幸せの黄色いハンカチ』みたいに家の周りにハンカチ結んであるかもしれませんよ。」
「お~、そうかもしれんなぁ。本当にそうだったら嬉しいけどね。まあ、現実は『ああ、帰ってきたの』ってなもんだろう。」
「ちゃんとお土産買ったんですか、奥さんに。」
「ははははははー!この身がが戻ればそれでいいんじゃない?」

 コージさんはすましてポーズをつけた。こんなことを言っといて、きっと何かお土産を用意しているんだろう。僕は直感でそう思った。

「そろそろ行くよ。」

 コージさんはリュックを背負った。僕も1階まで一緒について行った。ロビーでチェックアウトを済ませたコージさんは僕の方を振り返った。

「戸田君、ありがとう。ここでいいよ。見送られるのはマジ苦手なんだ。」

 コージさんは左手首に巻いていたオレンジの紐をほどき、僕に寄越した。

「これ、お守り。ラサで坊さんにもらったんだ。達者でな。」

 所々茶色に汚れたその紐はコージさんの苦闘の旅を物語っていた。これなら効き目がありそうだ。

「夕べはつき合ってくれてありがとな。嬉しかったよ、戸田君と飲み明かせて。本当は妻のことなんて話すつもりはなかったんだ。だけど、何でだろうな、戸田君の姿を見たら何もかも白状したくなっちゃって。夕べ言ったことは他の誰にも話してないんだ。戸田君なら話しても受け入れてもらえそうでさ。だって、ナンセンスだろ、俺の旅行事情なんてさ。ホント、聞いてくれてサンキューな。」

 コージさんの目は真剣だった。僕のことをそんな風に思ってくれていたとは。お礼を言わなくちゃならないのはこっちの方だ。

「いえ、こんな僕に打ち明けてもらえたなんてありがたいっす。」

 今日もカシュガルの午後は暑い。太陽が強くオアシスの町を照らし、汗を流させ、元気を奪っていく。ホテルの前の噴水広場にはいつものようにパキスタンの男性がたむろしているし、木陰にも座り込んでいる。木陰の影はくっきり黒く、日向のアスファルトから陽炎のような揺らめきが湧き出ている。

 コージさんはじゃあと、右手を差し出した。僕はコージさんの手を両手でつかんだ。

「気をつけて。」
「戸田君もいい旅を。」

 コージさんは手を振って爽やかな微笑みを残し、ホテルを出て行った。リュックを背負ったコージさんの背中が徐々に小さくなる。表通りに出たリュックは右に曲がり視界から消えた。コージさんが去ってしまった。

 しばらく僕はロビーに立ちつくしていた。そしてそのままロビーのソファーによろよろと歩み寄り、ドサッと身を沈めた。ただぼんやりと力無く外を眺める僕にパキスタン人が何か話しかけてきた。でもいったい何を言ってるのか、僕の耳にはその言葉が入ってこなかった。やがてパキスタン人は諦めて僕のそばから離れていった。
 
 何時間くらいソファーに座っていただろうか、気がつくと辺りが薄暗くなり始めていた。僕はようやく立ち上がり、部屋に向かってふらふらと歩き出した。フロントの前を通った時だった。

「あなたのお友達、行っちゃったわね。あなたはここに残るの?」

 服務員の女の子が訊ねた。少し笑みを浮かべ、彼女は何気なく聞いたようだった。しかし僕の頭の中に“ここに残る”という言葉が激しく引っ掛かった。残る・・・そうだ。僕だけ砂漠の町に取り残されたような気がした。急に孤独感に襲われ怖くなってガクガク膝が震えた。僕が服務員を見つめたまま何も言わないので、変だと思ったのだろう、

「どうしたの?何かあったの?」

 心配そうに彼女は聞いた。

「い、いや、何でもないよ。」

 僕は無理に笑顔を作った。が、服務員はまだ怪訝そうにこちらを見ている。僕は彼女に膝の震えを気づかれぬよう咄嗟に急ぎ足で歩いた。気がついたら表通りに出ていて、町に向かって歩いていた。

 池上君は学校に戻り夢に向かって突き進んでいく。島本君はウイグル語の習得に頑張っている。コージさんは新しい商売を展開するべく奥さんの元に戻った。僕と一緒にチニバーのドミトリーでダラダラ暮らし、ウイグル飯を食って酒を飲み、とりとめのない旅の話をしたいた仲間がそれぞれ巣立っていった。自分だけ置いてけぼりを食らったみたいだった。オアシスの貧乏宿で皆ただただアンニュイな気分に浸っているだけだと思っていたが、実は自分以外は確固とした志があった。本当に糸の切れた凧だったのは僕だけだ。いつまでも巣立てずに空を見上げている情けない自分が客観的に絵になって映った。それは一人奈落の底に突き落とされた恐怖に包まれた絵だった。


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新彊野宴(シンチャンバンケット)
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 【僕の進むべき道】 その2


 コージさんに奥さんがいる!既婚者だったなんて思いもよらなかった。僕はポカンとしてしまったようで、

「びっくりした?そんなに?」

 コージさんの方が意外そうに聞いた。

「ええ、だって一人でバックパッカーやってるのは独身者だとばかり思ってましたから。で、コージさんがこうやって旅してる間、奥さんは・・・?」
「うん、日本にいるよ。川崎で働いてる。」
「奥さん一人残して長い間離れてて大丈夫なんですか?」

 僕は恐る恐る訊ねた。

「さあね。俺は大丈夫だと思ってるんだけど、向こうはどうかなぁ。」
「ちゃんと連絡取り合っていたんですか?」
「うん、たまにこっちからね。向こうからはできないだろ。俺がどこにいるかなんてわからないんだからさ。」

 コージさんはハハと笑った。

「だけど、なんでまた奥さん置いて一人で長い期間旅に出たんですか?」
「お、ズバッと聞いてくれるねぇ。ま、だけど誰が聞いても、こんな俺なんかダメ亭主と思うだろうな。実際ダメ亭主なんだけどね。俺、髪結いの亭主なんだ。」
「髪結いの亭主?」
「うん、昔っから言うだろ。髪結いの亭主はヒモ同然だって。妻は美容師なんだ。だから俺がいなくても一人で生きていけるんだよ。今も毎日勤務先の美容院と家を往復してるよ、彼女は。一人で強く生きてる。」
「はあ、奥さん、美容師さんなんですか。」
「そう。だから旅に出る前は妻に養ってもらってたんだ。完全にヒモ状態だったんだよ、俺は。」
「仕事、やってなかったんですか?」
「自分で興した会社が、会社って言っても小さい会社だったんだけど、倒産してね。化粧品関係だったんだけどさ、早かったなあ、潰れるの。」

 コージさんは口の端っこでニヤッと笑った。

「売れるはずだ、当たるはずだっていう傲りがあったんだろうな。それがポシャッちまった大きい原因。それからは自暴自棄になってパチンコに麻雀の憂さ晴らしって、堕落していく男が辿る道を俺も辿ったよ。そんな自堕落な俺を尻目に妻はマイペースで仕事してた。俺がだらしない生活してるのに、文句一つ言わずにね。でもそれが逆に苦しかったんだ。馬鹿者!とか、しっかりしてよ!って泣いて喚いて罵ってくれた方が気が楽だったかもしれない。パチンコしながらも俺は針のむしろに座っているような気持ちだったよ。」

 僕は耳を疑った。コージさんにこんな過去があっただなんて。

「会社がなくなって半年くらいだらけた生活が続いたある日、妻が言ったんだ。旅にでも出てくればいいんじゃないって。軽い調子で言ったんだ。彼女はアドバイスのつもりだったんだろう。こんな不甲斐ない俺にたまりかねてね。でもその時の俺はすっかり気持ちがねじ曲がっちまってたからムカッときたんだ。その言いぐさがね。この女、亭主がいなくても平気なんだ、自分一人でもじゅうぶん生きていけるんだ、俺を食わしていくのが面倒になったんだ、俺を追い出すつもりなんだって、悔しくてね。じゃ、出てってやるよって、出てきたんだ。母親に反抗する中学生と同じだろ。」
「はあ・・・奥さんの言葉が旅のきっかけだったんですか。」
「そう。俺が見知らぬ土地でのたれ死んでもこの女はさほど驚きゃしないのかって、むかついたんだよ。その翌々日だね、リュック担いで日本を飛び出したのは。妻のタンス貯金を勝手に持って出て来たよ。最低の亭主だろ。」

 いつも明るくドミトリーの仲間を元気づけていたコージさんの知られざる側面だった。どん底の中、海を越えたコージさんの気持ちがどんなだったか僕には想像できないが、何の目当ても目的もないまま飛び出して来た空しさは察することができた。僕も何かを見つけたくて日本を出て来たのだから。

「横浜から九州まで行って、そこから釜山行きの船に乗ったんだ。流浪の旅は韓国がスタートだったのさ。フェリーの中でリュックを開けたとき、一番底に妻からの手紙が入っているのに気づいてね。こっそり入れてたんだろうな。短い手紙だったんだけど、何かを見つけて必ず帰ってきてほしい、ずっと帰りを待っているからっていう文面だった。俺は妻にろくに挨拶もせずに出て来たんだけど、妻には俺がそうするだろうって事がわかってたみたいだった。山の神ってのは恐ろしいね。何もかもお見通しだ。こりゃかなわんと思ったよ。でも、同時に泣けてきてね。一人でデッキに上がって海を見ながら泣いたよ。妻は俺のこと、すごく心配してたってのがその時わかったんだ。で、決心したのさ。何か本当にやりたいことを見つけるまで帰っちゃいけない、それまで広い世界をよく見てやろうってね。妻に初めて感謝したよ。」

 コージさんは薄暗くなりかけてきた東の空をふと見上げた。

「なんか・・・・・いい話ですね。感動しました。」

 僕はコージさんのうつむいた目蓋を見つめた。

「さすらいの旅もとうとう今夜が最後だよ。明日香港に出たら、ジ・エンド。」
「じゃ、騒げるのは今晩限りですね。」
「うん、そうだよ。だから飲も飲も!」

 ちょうど一品目のおかずとビールが運ばれてきた。コージさんはビールの栓をテーブルの端っこに引っかけ、上から拳でガンと栓を叩いた。シュポッと小気味よい音がして栓が飛び、ビール瓶の口から少し泡が吹きこぼれた。

「つき合ってくれて嬉しいよ、戸田君。」
「いえ、そんなお礼なんてとんでもない。さ、コージさんの旅の終わりに乾杯しましょう。」

 僕らはビールを縁まで注ぎ入れたガラスコップをカチンと合わせた。


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新彊野宴(シンチャンバンケット)
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 【僕の進むべき道】 その1

 夕方、島本君と三谷博士にお別れを言った。明日カシュガルに戻ることにしたのだ。ホリデーインホテルにも寄って駒田先生に挨拶に行った。が、先生は外出中と見えて部屋にはいなかった。お世話になりましたと短い手紙を書き、フロントに置いてきた。
 
 翌日予定より1時間10分遅れでカシュガル行きのバスが出発した。後方の窓側の座席に身を縮めて座る。流れる景色を見ながら、僕はこの1週間余りの出来事を思い返していた。池上君、イギリス人のトーマス、ヒサコさん、柳原さん、佐伯さん、根岸君、駒田先生、島本君、三谷博士・・・・・それぞれの顔が浮かんでは消えた。それはバスに乗っている3日間ずっと続いた。バスの中から見える景色がどんなに変わっても、目の前に現れるのは出会った人の顔だった。旅は景色を見ることではなく、人に会うためにするものなのかもしれないとふと感じた。

 3日目の午後、バスはカシュガルに着いた。また常宿のチニバーに戻ると、受付の女の子が戻ってきたのねと苦笑いした。懐かしいドミトリーにまたチェックインだ。部屋に入ると旅行者の顔ぶれはがらりと変わっていた。僕は一番隅っこのベッドに腰をかけ、リュックを下ろしてフッと息をついた。またしばらくこの町で沈没するとしよう。パキスタン人が多いことや東南の噂などもあり悪評高いチニバーだが、泊まり慣れれば居心地がいい。ここでまたリフレッシュして次の町を目指すとしようか。ベッドに寝転がろうと靴を脱いだ時だった。

「あれっ、舞い戻ってきたか!」

 コージさんの声がした。思わず声の方を振り返った。相変わらず赤いバンダナをおでこに巻いていた。

「よかったよ、最後に戸田君に会えて。」

 コージさんは嬉しそうに笑った。
「最後って?」
「うん、俺、明日の午後広州に移動するんだ。さっきチケット取ってきたところなんだ。」「そうだったんですか。」

 コージさんともお別れか。

「うん、だからよかったよ。シルクロード最後の夜に戸田君と飲み明かせるな。」

 折角再会できたコージさんと明日でお別れかと思うと、急に寂しくなってきた。

「広州からすぐ香港に出て、安チケット手に入れたら帰るよ、日本に。」

 そうか、池上君に続きコージさんも帰国してしまうんだ。

「コージさんはまだまだこの辺をうろうろするのかと思ってましたよ。」
「そうしたい気持ちは山々なんだけど、うろついてばかりもいられなくなってね。ま、金もなくなってきたからな。金の切れ目が旅の切れ目さ。」

 コージさんはハハハと笑った。

「疲れてるんだろ。どっからのお戻り?」
「ウルムチです。」
「じゃ、ゆっくり休めよ。晩飯時にまた誘いに来るから。」

 そう言うとコージさんはまた部屋を出ていった。僕はまず溜まった洗濯物をゴシゴシやっつけてからベッドに横たわり、そのまま眠った。

 夜7時過ぎに目が覚めた。夜7時と言ってもカシュガルでは真昼のように明るい。

「おはよう、お寝坊さん。」

 僕が起きたのに気づき、コージさんが声をかけた。

「カシュガル最後の晩餐にお付き合いくださいませ。」

 コージさんは執事のようにおじぎをしておどける。

「あ、はい。僕だけでいいんですか。」
「うん、戸田君と二人っきりの方がいいな。お、なんか恋人同士みたいな言い方になっちゃったな、ハハハハハ。」

 コージさんと僕は部屋を出、街を歩いた。

「少し歩くけど中華料理メインの店に行こうか。」

 コージさんはスニーカーをトントンと履き直した。

「ええ、最後だから僕がご馳走しましょう。」
「いや、逆だな。戸田君にご馳走しなきゃなあ。」

 たわいのない話をしながら20分ほど歩き、目指すレストランに着いた。まだ夕飯には早い時刻だから客は少ない。僕らは屋外の二人がけのテーブルにつき、メニューの中からお互いの好みのものを軽く注文した。

「コージさんはこの旅、全部でどれくらいの期間だったんですか。」
「そうだなあ、1年と8ヶ月余りかなぁ。」
「結構行きましたね。」
「うーん、過ぎてしまえばあっという間だったかな。」
「旅の終わりはそう感じるんでしょうね。」
「戸田君は今で何ヶ月くらい?」
「2月半ばからですから半年経ったところです。」
「じゃあ、あと半年くらいあるな。頑張れよ。」
「頑張れるかどうかわかりませんけど・・・」
「それもそうだな。」

 僕らは互いに笑った。

「ところでコージさんは帰国したらどういうふうに・・・」
「うん、小さい会社でもやろうかと思って。実はシルクロードのものを売ろうかと思って、ここにいる間買い付けやってたんだ。」
「へえ!そうだったんですか。それで新彊に来たんですね。」
「いや、そうじゃないんだ。新彊に来てから貿易会社やることを思いついたんだ。うまくいくかどうかわからんけどね。とりあえず発進しようと思って。荷物も全部送ったよ。」
「すごいなあ、コージさん。そんなこと考えてたなんて。」

 僕は興奮した。

「じゃ、帰ったら忙しいですね、会社興すのに。だけど楽しいでしょうね、やりがいあるだろうなぁ。」
「迷惑がられるかもしれないけどね、周りに。」
「そんな。励ましてもらえるでしょう。」
「それならいいんだけど、アホなことやってるなーって妻に言われるって予想はしてるよ。」

 えっと思った。今、妻という言葉が聞こえたが。

「妻って・・・・」
「うん、俺、結婚してるんだ。」


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新彊野宴(シンチャンバンケット)
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 【語学の天才】 その4

 細かいひびのささくれが蔦のようにはびこっているもえぎ色の壁は、建物の年季を感じさせた。窓枠の外側に設えられた粗い鉄格子は錆びていて、剥けた部分が小さなトゲとなって尖っていた。

「三階です。いるかなあ、博士。」

 島本君が先に立って階段を上る。僕もその後ろについて階段を駆け上がった。

「ここなんですけどね。」

 三階の奥から二番目の部屋の扉の前で島本君は立ち止まった。コンコンとノックをすると、

「はぁ~い。」

と間延びした返事の後に“等一下(ドンイーシア)”と中国語が聞こえた。間もなく扉が開き、中から中肉中背で黒縁の眼鏡をかけた男が現れた。鼻の下と顎に髭を生やしていた。顎の髭は首の中ほどまで伸びている。そして髭にも頭髪にも少し白髪が混じっていた。

「やあ、島本君か!元気だった?」
「ええ、今ちょっとよろしいでしょうか。友達を連れてきたんですけど。」

 島本君は僕を紹介した。

「いいよ、どうぞ。中に入って。昨日の晩にイーニンから帰ってきたばかりで部屋は片づいてないけど。」

 博士は気さくに僕らを招き入れてくれた。部屋の真ん中には絨毯が敷かれ、ウイグルの民族衣装の写真が壁じゅうに掛けられていた。本棚には島本君の部屋以上に本が並んでいる。

「さ、こちらへどうぞ。」

 勧められて座ったところは絨毯の上だった。靴を脱いであぐらをかいて座るらしい。テーブルは日本のちゃぶ台の幅広版で丈が低い。テーブルの脇には旅から戻ってきたばかりのリュックが立て掛けてあった。

「座りにくい?部屋をウイグル式にしちゃったもんでね。」

 博士は気を遣ってくれたが、大丈夫ですと答え、久々にあぐら座りをした。

「お忙しいところすみません。島本君以上に凄い人がいるって聞いて、どういう方だかお訪ねしたくて。」

 僕は単刀直入に言った。

「え!そうなの」

 三谷博士は意外そうな顔をしてチャイを運んできた。

「僕はね、単に物好きなだけ。マイペースなだけ。」

 博士は人の良さそうな笑みを浮かべ、僕らのカップにチャイを注ぎ入れた。

「三谷さんはウイグル文化の研究者なんです。」

 島本君が言うと

「いや、単なるウイグル好きってとこかな。島本君も直にこうなるよ。」

と、博士は言い返した。

「さ、どうぞ。こんなもんでもつまみながら。」
 博士は小皿に干しぶどうをザラザラと入れた。新彊名産の黄緑色のぶどうだ。細長い形から馬奶子(マーナイズ)葡萄と呼ばれているあれだ。

 僕らはチャイを飲み、干しぶどうを食べながら旅の話などをした。三谷博士は気さくなおじさんという感じで、ちょっと話したくらいではどこがどういうふうに凄いのかよくわからなかった。が、さすがウイグル文化の研究者、ウイグルのことについて尋ねると、立て板に水のごとく喋り始めた。服装や生活習慣、礼儀作法、そして言葉や食べ物のことに至るまで、まるで水を得た魚のように目を輝かせ語り続けた。僕も島本君も博士の話に聞き入り、気がついたら午後3時になっていた。

「いやあ、ごめん。つい喋り過ぎちゃったね。こういう話になるとつい力が入っちゃって。」

 博士は頭を掻き、

「そう言えばもう昼時過ぎたな。今から昼飯行こうか。おじいの店ならまだ開いてるだろう。」

と僕らを誘った。

“おじいの店”は学院の正門を出て右に曲がり、約500メートル歩いたところにあった。店に着くまでの間、博士は何人かのウイグル人に声をかけられた。ある人とは握手を交わし、またある人とは抱き合って挨拶をした。博士はウイグルの間で有名人であることがわかった。

“おじいの店”に入ると、主人のおじいだと思われる痩せた老人が、何やら嬉しそうに駆け寄り、博士と抱き合った。二人は物凄い勢いで話し出し、親しげにまた抱擁した。こっちはウイグル語の会話など全然わからないが、おそらく久しぶりに会ったので喜んでいるのだろう。博士はこの店の常連客なのだな。白い顎髭をたくわえたおじいと博士は嬉しげに語らい、なんだか親子のようにも見えた。

 まもなく僕らのところに注文した拌麺(バンミエン)が運ばれてきたが、ナンもおまけに登場した。

「サービスしてくれたよ。」

 博士は親指を立てて片目をつぶると、そのナンをちぎって頬ばった。

「いやぁ、さすが三谷博士、ウイグル語すごいですね。」

 僕もナンに手を伸ばしながら言った。

「あー、その博士っていうのやめてくれる?島本君が教えたんだろ。」

 三谷氏は島本君を軽く睨んだ。

「だって三谷さん本当に博士じゃないですか。ハーバードでドクター取られたじゃないですか。」

 島本君は拌麺を混ぜながら言い返す。

「それはアメリカ時代の話。ここではそんな昔のことなんて関係ないよ。それにこの世にドクター取った人間なんて山といるじゃないか。いちいちそういう人間を博士と呼ばなくてもいいんじゃないの。」
「いえいえ、僕にとっては三谷さんは博士ですよ。他の人がどう言おうともね。」

 島本君は麺を啜った。

「あのう、ウイグル語って響きが快調ですね。なんかカッコイイな。」

 僕が言うと、三谷博士はパッと顔を輝かせた。

「そうだろ。巻き舌音も入ってて、イントネーション効かせて抑揚つけたらイキな言語だよ。」
「でも、難しそうなんですけど。」
「うん、確かに。だけど日本人には勉強しやすいかもな。文法なんか意外と似てるんだ。」
「へえ、そうなんですか。」
「助詞に当たる語がウイグル語にもあったりしてね。比較しながら勉強すると面白いよ。」
 そうなのか。日本の教育方法では英語を学習しても満足に話せない。中学から大学まで10年ほど英語を習ったと言ったって、それでペラペラ話せるわけじゃない。話せて聞けるようにするためにはいったいどうすればいいのか。これが長らくの疑問だった。やっぱりモチベーションなんだろうか。僕は三谷博士にそれを問うた。
「そうだね。確かにモチベーションは大事だね。それと、楽しんで勉強すること。面白がってやると続くんだ。好きなことって長続きするだろ。外国語の習得は、他のこともきっとそうなんだと思うけど、そいつを好きになってつき合っていくことじゃないかな。」

 博士は顎髭を撫でながら言った。

「そうですね、本当にそう思います。語学との付き合いはイヤになったらおしまいですね。」

 島本君も頷いた。

「そう。ある意味、恋人との付き合いに似てるかもしれん。」

 博士はははっと笑った。

「でも、たいていの人間はイヤになるじゃないですか。僕なんかもそうだけど、学校で英語勉強したってつまらないというか、興味持てないっていうか。」

 僕は食べるのをやめ、ちょっと反論した。

「うーん、そうだね。学校の語学教育は皆に平等に与えられるものだからね。受け身になっちゃうんだろうな。話せるようになりたい、聞き取れるようになりたいと本人が思わなければうまくなってはいかないだろうなぁ。」
「コツってあるんでしょうか。うまくなるような。」

 三谷博士の説明にまだ物足りなさを感じ更に質問する。博士は5秒ほど考えてから僕をじっと見つめたまま話し始めた。

「そうだなあ、コツはないと思うよ。その人次第だろうな。その人その人がマスターするための自分なりのコツを獲得していくんじゃない?昔、僕が高校生くらいの時だったかなあ、インベーダーゲームっていうのが流行っててね、夢中になった。画面に現れるインベーダーを打ち落としていくっていう単純な遊びなんだけどね、どれだけたくさん確実に打つかってぇのを友達と競い合った。インベーダーをやっつけていくのが、その当時の僕らにとっては快感だったんだ。今ならもっと精巧で複雑で、もっと面白いゲームがいろいろあるけどさ、その頃の僕らにとってはインベーダーゲームは一番楽しめるゲームだったんだ。要は語学もゲーム感覚でやるといいんじゃないかな。このフレーズを言えるようになりたい、で、それを攻略してクリアしたら次の段階に進む、それも攻略したらまた次にっていうように挑戦していけば、上達への近道になると思うな。そのためには何度も練習してみる。情熱を持って、負けん気出して取り組むことだろうね。絶対に話せるようになるんだっていう目標を掲げて一つ一つ進んでいくことが大事なんじゃないかな。」
「じゃあ、三谷さんもそうやってウイグル語を?」
「うん、そうだね。例えばこの店の老板といろんな事を話せるようになりたいって食らいついてね。」
「僕もそう思います。積み重ねですからね、語学は。」

 島本君も深く頷いた。語学の天才二人が口を揃えてそういうなら、語学のマスターには早道はないってことだ。天才は生まれながらにして天才なのではなく、やはり努力が必要だということか。エジソンもそう言ってたが、何事も心がけ次第ってことがはっきりした


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